日々の生活に飽き、休みに入ってやっと一息、生活を振り返って生きる意味を考えよう。
これまでに何度か考えたが最終的な結論は、生きる意味はない。
言い方を代えれば、生きる意味についての意味ある回答はない。
生きる意味を生物が問い尋ねる。答えるのは誰か。生物が、生きることについて外部的に意味づけをしたいとすれば、非生物に答えてもらうのが簡単であるが、「意味」は言葉であり、「言葉」は人が使う道具である。人が使う道具について、人でないものに答えを求めても回答はありはしない。言葉で解答があるのであれば、それは人が生み出したものである。
言葉として「生きる意味」は、それ自体では機能はしない。走る意味とか、食べる意味とかと違いはない。この場合の意味は走ること、食べることの目的であるが、これは個々の文脈から解答できる。しかし、生きるという普遍的な事実についての目的を生物が生物に問い尋ねてみても、私は気が付けば生存していたというだけである。
私は、生きる意味を自身が訊ね答えることはできない。私は、生きる意味とは言葉に過ぎないことを指摘するだけだ。言葉には意味があるが対象となる事物が必要だ。言葉が持つ「音」だけで成立する意味などない。「イキルイミ」という「音」には「生きる」という事物がなければならない。「生きる」という事物は私である。生きる意味を訊ねる者がその答えという結果となる。これでは答えがないのも当然である。私は意味を訊ね続けることはできても、私が問い訊ねる限りは、私には永遠に解答が帰ってこない。
先の「食べる意味」のように目的としての意味とは異なり、私が私に生きる意味を問い訊ねても、目的としての意味は帰ってこない。むしろ、この場合は私が意味を付与せざるを得ない。だから私が訊ねている間に意味が帰ってこない。
生きる意味とは、対象としての事物としての意味しか有さない。食べる意味であれば、生存を維持するためであり、会話を楽しむ契機であり、食べることを楽しむ(食べることに苦しむ)こと等々であるが、生きる意味の場合には、何々のために食べるという食べることの上に位置する目的としての意味がない。
誰でも、目的としての意味を生きることに付与することはできるが、それは食べる意味に目的としての意味を付け加えることと同様であって、その人の理解に過ぎない。
生きる意味の場合は、食べる意味よりも、皆が共通して意味として了解される目的が現代では喪失している。そこで、普遍的に生きる意味を問い訊ねても見つけることはできない。問い訊ねてる限りは、見つからない構造は先のとおりである。
私は、「食べる意味」とは食べることを楽しむ(食べることを苦しむ)という、食べる行為自体が意味であると考えているが、「生きる意味」についても同様に生きることを楽しむ(生きることを苦しむ)という生きる行為自体が意味と思う。生きるという行為に、後から目的を付与してみても、それはあとのせに過ぎない。
生きる意味の対象は、生きること。生きる意味は生きることの中にあるのであって他所に探しても見つかりはしない。私が、生きる意味という無色透明なものを、世界の中で探しても何も見つからない。結局は、生きることという無色透明なものに、私が色をつけ、形を持たせるない限り、意味は生まれないと思う。
そして私自身には、その色や形は、私が生きている限り見えないと予想をしている。私が色を塗りつけている間は、そのキャンバスを眺めることはできないだろうし、私にはキャンバスを眺める視点と視力はない。この点で、自分の色と形を見ることが出来る人がいるとすれば羨ましくも思うが、私は自分自身ではそのことは信用していない。
私は、生きること以上に生きる意味がないことを承知し、生きる。加えて言えば、私は、見聞きするものの意味を自身に訊ね、関心を持ち、それを楽しみ(苦しみ)に生きる。
この意味では、私の生きる意味・目的は関心とも言えるが、関心は生物が生きることの最低条件であり、関心のない生物はいないとも思う。
「生きる意味」に意味がないことを言いながら、私が生きることで、生きる意味を創出しつつ生きている。そしてその創出の姿も見ることはできない。私はこの今を意識することしかできない。
ここから始めれば、生きる意味は、この今を意識することであるが、私は、今を意識し、生きる意味をかみ締めて生きたりはしない。
時々に、今のように考えるだけだ。
そして私には、生きる意味は、訊ねても経過は面白いが意味ある回答にならない。
それでも時々訊ねる意味はあると思う。
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