日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

自殺は悪いこと?

2018-05-12 06:52:41 | 人生の意味
子  自殺は悪いことと言える?
父  それは、言えると思うよ。人を殺すことは、悪いことでしょう。死それ自体は、人にとって基本的に悪いことだ。誰もが避けることができるのなら避けたいと思うだろう。生に満足した後に死ぬことがあればそれは、悪いことではないかもしれない。ただ、それも期待した人生を送った後での話しでしかない。長寿の上の大往生であれば、それは死も悪いことでないのかもしれない。死は、生命に基本的に組み込まれた出来事である以上、受け入れる必要もあるのだろう。ただ、それを肯定的に認めるのは、その生に何らかの意味を見出すことができるからだ。そこに意味を見出すことが出来ず、絶望して死ぬことは肯定的に認めることの反対だ。
  生まれる前の状態が悪いことでなければ、死ぬことも悪いことでないという人もいるが、生まれる前は喪失ではない。死は一つの可能性の消失、喪失なのだ。だから、人は子供の死のような早すぎる死、突然の事故死、このようなものを喪失と考える。まだ、生まれていない命は喪失ではない。自殺は、人の可能性を途絶する死なので悪いことだ。自殺が、不幸な出来事であることを否定する人は少ないだろうと思う。不幸な出来事は、悪いことであり、それを招く行為は悪い行為だろう。
  眼の前に、避け得ない死が迫っている状況での自殺、自決と言われるような行為や、医師が患者の痛みを取り除くために麻薬を投与する際に死期がいくばくか早まるとか、延命治療を望まないということは、そこには選択の余地がない避け得ない死が前提になっている。ここで、それを議論とすると安楽死の是非を問うような話になるので、今話す自殺とは切り離して考えた方がいいと思う。
 
子  自殺に追い込まれた人は、そうせざるを得ない環境があったから、選ぶことができなくなっているだと思う。そういう状況で、死んだ人を悪いと言うことはできないんじゃない。
父  精神的に追い込まれて正常な判断が出来ないということは、そうだと思う。ただ、正常な判断ができない状況下での行為だとしても、正常な意識の有無にかかわらず、結果的に行った行為が間違った行為となることはあるだろう。一般に、心神喪失下で起こした殺人は、責任能力がないことをもって無罪になるけど、殺人が悪くないということではない。責任を当人に問えないということでしかない。その点で、正常な判断能力を失った人を責めることは酷だと思う。
  私は自殺した人が悪いと言っているわけではない。その人の人格が悪いということでなく、その行為が悪いと言っている。自殺した人の尊厳を守るために、自殺は悪いことではないと考えてしまうのは、そこに論点のすり替えが起きている。自殺が何故悪いという問いは、自殺という行為についての問いであって、自殺した人が何故悪いという問いではない。行為と、人は切り離して考えるべきだろうと思う。自殺という行為は悪いことだが、それを行った人が悪いということはではない。死者を批難すべきではないと感情はあるし、そうだと思う。最後に行った行為が悪い行為であったとしても、生前には良い行為を行ったであろうし、悪い行為も行っただろうと思う。人は、良い行為、悪い行為を双方を常に行いながら生きているのだと思う。最後に、不幸な巡り会わせで悪い行為の順番が来たのだけど、だからといってその人の全てが否定されるわけではない。その人を評価するのであれば、全体の生を見て評価すべきだろうと思う。だから、その人の行為の一部をもって、その人を評価するのは不当だと思う。ただ、その人を肯定するために、その人の行為の全てを肯定する必要はない。人は誰もが、善悪双方の評価を受ける行為しかできないから。良い行為しかしていない人は存在しないと思う。
  もう一つ思うのは、自殺した人と、自殺を踏みとどまった人の違いはどこにあるのだろうか。その人にとって自殺は必然なのだろうか。自殺に追い込まれた人にとって、死を選択したことは必然だったのだろうか。ほんのわずかな、環境の違い、例えば、窓の外を見た時に虹が出ていたとか、そんな劇的なことがなくても、ほんの少しの思いなし、脳内の思考の動きで、死を選択しないこともできたのではないだろうか。
  積極的に自殺が悪いことでないという人は、自殺をする自由、そのような権利的なものを主張する人もいるだろう。この場合での自殺は、正常な判断能力のもとでの判断での自由を意味しているのだと思う。そうでなければ、自由と言えないだろうから。こういう主張のもとの自殺では、自殺した人は自由意志で死を選んだことになる。自由意志での死は、死を選ばないこともできたのだろうと思う。パラレルワールドAという世界のA氏は死を選択したが、A’の世界でのA’氏は、そこで死を選ばず踏みとどまることができた。あらゆる可能な世界においてA氏は死ななくてはならない、そうであれば、必然と言えるだろう。この場合は、自由意志は否定されるのだろうと思う。自殺の場合は、A氏は死ななくてはならない。環境から必然性があるとまで言えるのだろうか。
 
子  自殺を選んだ人は、死を選んだんだから他に選択はなかったんじゃないの。
父  今から、じゃんけんのグーを出すか、チョキを出すか、君は選ぶことができるかい。
子  それを選ぶことはできるよ。
父  では、今、チョキをだしたとしよう。 さあ君は、チョキを既に出した後に、「私はグーを出すこともできた。」と言う。それとも、今となっては「チョキしかだせなかった」と言う。私は、君はグーを出すこともできたと信じているんだよ。この会話を始めた時から、既にチョキを出すことは因果的に必然的に定まっていたのかもしれない。君の脳の思考回路からすれば、私がこういう発言をした時点で、チョキを選択することは必然的だったのかもしれない。こう考えることもできる。ただ、私は選択するまで、実行するまでは定まっていない、確率的にどちらにも成りえたと考えているんだよ。グーが生であって、チョキが死であったとして、どちらを選択することができたか、選択の後になって可能性を考える時、それが必然か否かは、自由意志の考え方に帰着するのだろうと思う。
  自殺した人のまわりの一言がほんの少し違えば、朝出かけるときにほんの一言違う言葉をかけてあげることができれば、ほんのわずかな違いで踏みとどまることができたのではないか、私はそういう可能性を考える。そうでなければ、自殺という結果から、それを一つ一つ過去に遡って出来事の連続を追いかけていくと、どの出来事も必ず起こらなければならなかった必然、突き詰めて行くと、その人が生まれた時からの連続した出来事の全てが、今の結果につながっている。因果関係を強く考えていくと起きた出来事の全ては必然であり、それはその人の生まれる前の歴史も含めてそう考えざるをえないようになる。そうすると、人には自由などなかったということになる。
 
子  自殺は悪いこと、悪いことは、悪い。という説明だけど、どうしても悪いことは悪いと説明されても納得できないんだけど。
父  人を殺すことは悪いこと。生命は、生きることを目的として存在している。生命の定義のようなものだ。それを否定する行為は、生命の目的に反している。だから生き物を殺すことは否定される。トマス・ネーゲルという哲学者が言っているのだけど、生き物を殺すことを肯定できるのは、自らが生きることを理由として殺す。この時にのみ肯定ができる。戦争のような環境においてさえ、そうだ。兵士と兵士は、面と向かって互いを殺す力を持っているから相手方を殺すことが正当化される。降伏した無抵抗な敵を殺すことは、兵士であっても禁止されている。それは命を殺すことそれ自体がはじめに禁止されているからだ。相手を殺すことが許されているのは、自らの生存を賭けているからだ。そこに生きることが前提されているからこそ相手方の命を奪うことを正当化しているのだ。
  だから、対抗する力がない人を、一方的に人を殺すことは、殺戮であり、生き物の原則、生きるという目的を奪う行為であり悪いことだ。
  命を奪うことは暴力だ。その暴力は悪い。この暴力が正当化されるのは、生存をかけて人が戦う時だけだ。自殺は、他人でなくその暴力が自己に向かっているのだが、そこに生存をかけるという事実はない。単に暴力であるだけだ。だから、暴力は悪い。それは他人に向かってなく、自己に向かっていてもだ。人は、生命である以上、生きることが目的だ。それを奪う行為は、自己に向かおうが悪い。
  「風の谷のナウシカ」に出てくるセリフなんだけどナウシカは、「私達は血を吐きつつ、繰り返し繰り返しその朝を越えて飛ぶ鳥だ。」と言う。血を吐きながら飛ぶことに価値、生きるという行為があるのだと思う。それを否定する行為は悪い。
  悪いということは、一つの倫理的判断だ。死が悪くないと考えると、生も悪くない。地上には生命が満ちているが、その生命も物理的には素粒子の雲のような集まりに過ぎない。物理的な観点、人の主観のようなものがない純粋に客観的な観点があるとすれば、その物理的な世界にはなにも価値のあるものはないのだろう。ただ、広漠とした空間に素粒子が浮遊しているだけだろう。時空間と言うような視点すらないのかもしれない。そういう視点から、それは死は悪いことでも何でもないのだろう。ただ、これは悪いとか、そういう言葉を使う世界ではない。そもそも人の言葉で表現できる世界ではない。悪いということは、初めから人の主観に基づいた言葉なのだ。そこには倫理的判断そのものが入っている。悪いということは、一つの直感でもあると思う。そこに客観的根拠、物理学的な説明は与えることはできないのだろうと思う。だから悪いことは悪い。これが理解できないのは、悪いという言葉の性質が理解できていないのだろうと思う。
  言語的な面から言えば、悪いことが、何故悪いか、悪いことは禁止されていることをだから、言葉の意味自体にそれが含まれている。やってはいけないから悪いことなのであって、悪いことだからやってはいけない。他の言葉に置き換えることもできるだろうが、結局はトートロジー(同語反復)に帰ってくる。だから、悪いことは悪い。
  自殺が悪いという本質とは違うけど、自殺は残された者みなを傷つける。自分が大切にしている人を傷つける。それも、残された者は、傷つけたことに対して抗議することもできない。このこともよく考える必要がある。
  抗議のために、自殺する人もいるが抗議の声は、届くべき人には届かない。その人を愛する人が傷つくだけの結果になる。愛する人を失くした人は、自殺は悪いことではないと考えたくなるかもしれない。自由意志のもとに、正当に死を選んだと。そうすると、そう考える人自身も自殺を選ぶ傾向性が生じるだろう。そういうところで、連鎖が生じる。そのことも波及的な効果だが、悪い結果に繋がっていると言えると思う。この波及した結果について、死者に問うこともできないのだが。
 
参考
上記の一部は、トマス・ネーゲルの論文集「こうもりであるとはどのようなことか」に納められた論文(死、戦争と大量虐殺、その他)を参照した意見です。もちろん、上記はネーゲルの考えを正確に伝えているものでもありません。


コメントを投稿