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★政治家・安倍晋三の30年とは…「節目になった4つの年」を検証する

2022年09月26日 10時51分53秒 | ●YAMACHANの雑記帳

政治家・安倍晋三の30年とは…「節目になった4つの年」を検証する

ドン底から這い上がり、絶頂を極めたあと、銃弾に倒れた安倍元首相。30年間の政治家人生は、どのようなものだったのか。節目になった年を中心に政治ジャーナリストの泉宏氏に解説してもらった。
 ◇  ◇  ◇

 故安倍晋三元首相の政界デビューは1993年7月の衆院選。当時の宮沢喜一首相(故人)が、小選挙区制導入を軸とする政治改革関連法案の通常国会での成立を「宣言」したが、自民党内の反発で難航し、野党各党が提出した内閣不信任決議案が政治改革推進派の小沢一郎氏らの同調で可決、突然の衆院解散になった。

 自民党は衆院選で苦戦し、大幅な過半数割れとなり、小沢氏が8党派連立の細川政権を樹立、自民党は保守合同後、初めて野党に転落した。
 この激動の衆院選で初当選したのが安倍氏だった。政界でのスタートが野党議員だったことが、その後の安倍氏の政治行動に大きな影響を与え、政権復帰に向けた旧民主党などへの激しい敵愾心(てきがいしん)の原点となったのは間違いない。
 その一方で、衆院初当選組の多くが、その後の四半世紀を超える政争の主役や脇役となっているのも興味深い。
 同期では細川、安倍両氏に加え、野田佳彦岸田文雄の計4氏が首相となり、現在の自民党では茂木敏充野田聖子高市早苗各氏ら、野党では前原誠司(国民民主)、枝野幸男(立憲民主)、志位和夫(共産)各氏らが、第1次、第2次の安倍政権下で有力議員として活躍。さらに小池百合子東京都知事、田中真紀子氏と、一時は政局を動かした女性リーダーも同期生だ。
 初当選時から首相を目指していた安倍氏にとって、「敵も味方もほとんどが同期生」だったことが、その後の政治行動に大きな影響を及ぼしたことは否定できない。

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安倍氏は2006年秋からの1年間、「栄光と挫折」を味わった。


 国民的人気を背景に長期政権を築いた小泉純一郎氏が、安倍氏を後継指名。
 多くの先輩首相候補を飛び越え、初の戦後生まれ、しかも故田中角栄首相の54歳よりさらに若い52歳での首相就任だった。祖父の故岸信介元首相の遺志を継ぐべく、憲法改正や教育改革に果敢に挑んだ。
 安倍氏が宰相の座についたのは06年9月26日。新内閣を「美しい国づくり内閣」と命名し、「戦後レジームからの脱却」を掲げて自民党内保守勢力を束ねた滑り出しは順調に見えた。
 新内閣の顔ぶれをみると、外相に麻生太郎氏、経産相に甘利明氏、総務相に菅義偉氏と、第2次安倍政権

での骨格となった「3A1S」がここで登場している。ただ、官房長官に塩崎恭久氏、内閣府特命相に高市早苗氏ら初入閣組の大抜擢が「お友達人事」と揶揄(やゆ)され、郵政民営化反対で自民党を除名された議員を復党させたことなどで支持率が急落。
 首相として初の国政選挙となった07年夏の参院選で記録的惨敗を喫し、内閣改造で延命を図ったものの、ストレスから持病の潰瘍性大腸炎が再発。同年9月10日召集の臨時国会冒頭の各党代表質問直前の突然の退陣表明で、失意のどん底に。

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2012年 はじまった野党の弱体化

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「政治家としてのどん底を味わった」安倍氏が、不死鳥のように復活したのが2012年。
 9月26日の自民党総裁選で事前の劣勢予測を覆し、本命・対抗とされた石破茂石原伸晃両氏や、安倍氏の所属する清和会の領袖だった町村信孝氏、宏池会(当時古賀派)の林芳正参院議員を破り、総裁経験者として初の返り咲きを果たした。
 総裁選は党員も含めた第1回投票で石破氏が安倍氏を圧倒したが、議員だけの決選投票で安倍氏が大逆転するという総裁選の歴史に残る戦いだった。
 安倍氏は、政権交代から3年が経った民主党政権の打倒を目指し、11月中旬の党首討論で、野田首相の「解散発言」を引き出した。12月4日公示・同16日投開票となった衆院選では、自民・公明両党が325議席と大勝。安倍氏は同26日に第2次安倍政権を発足させた。

 自民党史上初の再登板を果たした安倍氏は、第1次政権での「反省」を踏まえ、憲法改正実現などの理想を掲げつつ、現実的な政権運営を展開。
「安倍1強」をほしいままにし、国政選挙6連勝で史上最長政権に。
 首相に返り咲いた安倍氏は、ことあるごとに「悪夢の民主党」と口にし、野党批判を繰り返した。野党の弱体化は、ここからはじまったと見ていいだろう。「安倍1強」と「野党弱体化」は裏表の関係だった。
 しかし、世界を襲ったコロナ禍への対応で苦闘し、持病再発を理由に20年8月に突然、退陣表明した。

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 安倍氏の2度目の退陣表明を受けて後継となった菅氏が、コロナ禍への拙劣な対応で国民の不信を買い、2021年9月の自民党総裁選の出馬断念に追い込まれたことを受け、菅政権打倒の急先鋒だった岸田氏が首相の座を射止めた。
 ただ、自らが率いる岸田派が党内第4勢力という基盤の弱さから、100人に迫る圧倒的最大派閥を引き継いで「安倍派」の領袖となった安倍氏の意向は無視できず、安倍氏との共存が政権運営の生命線となった。このため、安倍氏は事実上の自民党最高権力者として君臨、憲法改正やアベノミクスの継続などで岸田首相を振り回す豪腕ぶりを見せつけていた。

 安倍氏は、7月の参院選でも最強の応援弁士として全国を駆け巡っていたが、選挙戦最終日前日の7月8日昼前、奈良県大和西大寺駅前での街頭演説の最中に、暴漢の手製銃による銃撃で非業の死を遂げた。
 これを受け、岸田首相は7月14日に安倍氏を「国葬」儀とすることを表明した。しかし、銃撃犯が旧統一教会(世界平和統一家庭連合)への個人的恨みから、同教会が広告塔に利用した安倍氏を付け狙った結果であることが判明。
 しかも、同教会の関連団体による反社会的な霊感商法の実態が次々とメディアに取り上げられる一方、選挙活動などでの安倍氏と同教会の“癒着”が白日の下にさらされたため、安倍氏の「国葬」にも国民的反対論が急拡大。岸田政権を直撃している。銃撃事件によってパンドラの箱が開かれてしまった。安倍氏は死してなお政局を動かす存在となっている。
 ◇  ◇  ◇

▽泉宏(いずみ・ひろし) 早大卒。時事通信で官邸キャップ、政治部長、編集担当役員を歴任。


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