外山滋比古『文章を書く心』(PHP文庫)を読んでいる。帯に曰く、「本書はエッセイの名手として知られる著者が、書く前の準備、上手な文章にするための心得、手紙のコツなど文章上達のための基本を披露する。書くことへの苦手意識がいつの間にかなくなる、親身のアドバイス満載の書」。エッセイの達人のものだけに読んでいるといちいち納得できることがあり、大いに参考になる。もっとも、だからと言ってこれからの私に効果が表われるかどうかは分からないが・・・・。
いろいろと示唆されることが書かれているが、最終章は「手紙にあふれた思い―先人の書簡より」となっていて、この中の「妻へあてて」という1節に引かれている森鴎外の書簡がなかなかいい。日露戦争の時に従軍し、大陸から夫人宛に出した明治37年7月30日付けの手紙が引かれている。少し長いが再引用する。
「7月11日のお前さんの手紙が来た。茉莉が次第に物が分かるようになると見えるね。小いうちは教育なんぞといっても別にむつかしいことではない。大概は自然に任せて置けば好いのだ。おとなが勝手におもちゃのように扱ふのがまちがひなのだ。賞罰は正しくせねばならぬ。併しどんなに大人が困ることでも小児がわるぎなしにした事を罰してはならぬ。大概は罰のはうは先づ見合わせにする方がよろしい。これからおひおひうるさくいろいろなことを問ひたがるやうになるだろうが何遍でもくりかへして問へば一々返事してやるのが親のつとめだ。それをうるさいなどと言ってしかる親が世間には多いが大まちがひだ。かういふ時に面倒を見て返事をして遣ればどんな好いことをも仕込めるのだ。障子を破りおもちゃをすぐにこはすやうな癖はしからずに静にとめて遣ればやむ。その面倒を見ぬから亂暴ななこどもになってしまふ。・・・・」
明治37年7月と言えば、私の父が生まれるちょうど1年前で、今から106年前ということになる。そのような時代に、幼い子どもの教育についてずいぶん開けた考え方だと思う。鴎外は幼い頃からドイツ語に親しみ堪能で、若くしてドイツに留学しているから、西欧的な思考の影響を受けたのだろう。そのためもあってか子ども達には、於菟(おと=オットー)、茉莉(まり=マリー)、杏奴(あんぬ=アンヌ)、不律(ふりつ=フリッツ)、類(るい=ルイ)など、今頃ではよくあるような、しかしやはり明治調のバタ臭い名前を付けている。
それはともかくとして、引用した子育てについての鴎外の考えは、100年以上たった現在でも十分に納得できるものだ。賞罰は正しくしなければならないが、子どもが悪気なしにしたことは罰してはならないとか、うるさくいろいろなことを問うても一々返事してやるのが親のつとめだとか、障子を破りおもちゃを壊しても叱らずに静にとめてやればすむなど、いちいちもっともで、今の若い親達も心すべきことだろう。外山氏も「小さいこどもをもついまの母親にも読ませたいような、行きとどいた注意である」と言っている。
西安の謝俊麗の息子の撓撓(ナオナオ)は1歳半になり、かなりいたずらもする腕白小僧になっているようだ。先日もいつも食事の時に使っている自分の椅子を壊してしまい、「ヤヤヤ!」と歓声を上げていたそうで、俊麗はやはり自由市場で買ったものは良くなかったかなと笑っていた。
前から私は俊麗に、子どもが危険なことをした時はちょっと厳しく叱り、そうでなかったら優しく止めてやることだと言っていたが、その点では俊麗はおおらかなところがあり、上手に子育てをしているようだから、ナオナオも次第に聞き分けができてくると思う。
最近は子どもを虐待する事例が増え、死に至らしめることも少なくない。大概は幼い子どもが自分の言うことを聞かなかったからと言って暴力を加えている。許せないのはそれを「しつけのため」と強弁するのが多いことだ。まだ頑是無い幼児のしつけには根気も忍耐もいる。それをちょっと言うことを聞かないと極端な暴力を加えることなど、しつけでも何でもない。
私の両親は私達きょうだいを大きな声で叱ったことがない。まして叩くなどは一度もしたことがなかった。母は優しい性格だったし、父は厳しいところはあったがいつも穏やかだった。殊更にしつけをされた記憶はないが、日常の私達への接し方が、自ずからしつけになっていたのだろう。そのお蔭もあってか、私はたいした人格や才能の持ち主にはならなかったが、事のけじめだけはわきまえるようになったのではないかと、両親に感謝している。
いろいろと示唆されることが書かれているが、最終章は「手紙にあふれた思い―先人の書簡より」となっていて、この中の「妻へあてて」という1節に引かれている森鴎外の書簡がなかなかいい。日露戦争の時に従軍し、大陸から夫人宛に出した明治37年7月30日付けの手紙が引かれている。少し長いが再引用する。
「7月11日のお前さんの手紙が来た。茉莉が次第に物が分かるようになると見えるね。小いうちは教育なんぞといっても別にむつかしいことではない。大概は自然に任せて置けば好いのだ。おとなが勝手におもちゃのように扱ふのがまちがひなのだ。賞罰は正しくせねばならぬ。併しどんなに大人が困ることでも小児がわるぎなしにした事を罰してはならぬ。大概は罰のはうは先づ見合わせにする方がよろしい。これからおひおひうるさくいろいろなことを問ひたがるやうになるだろうが何遍でもくりかへして問へば一々返事してやるのが親のつとめだ。それをうるさいなどと言ってしかる親が世間には多いが大まちがひだ。かういふ時に面倒を見て返事をして遣ればどんな好いことをも仕込めるのだ。障子を破りおもちゃをすぐにこはすやうな癖はしからずに静にとめて遣ればやむ。その面倒を見ぬから亂暴ななこどもになってしまふ。・・・・」
明治37年7月と言えば、私の父が生まれるちょうど1年前で、今から106年前ということになる。そのような時代に、幼い子どもの教育についてずいぶん開けた考え方だと思う。鴎外は幼い頃からドイツ語に親しみ堪能で、若くしてドイツに留学しているから、西欧的な思考の影響を受けたのだろう。そのためもあってか子ども達には、於菟(おと=オットー)、茉莉(まり=マリー)、杏奴(あんぬ=アンヌ)、不律(ふりつ=フリッツ)、類(るい=ルイ)など、今頃ではよくあるような、しかしやはり明治調のバタ臭い名前を付けている。
それはともかくとして、引用した子育てについての鴎外の考えは、100年以上たった現在でも十分に納得できるものだ。賞罰は正しくしなければならないが、子どもが悪気なしにしたことは罰してはならないとか、うるさくいろいろなことを問うても一々返事してやるのが親のつとめだとか、障子を破りおもちゃを壊しても叱らずに静にとめてやればすむなど、いちいちもっともで、今の若い親達も心すべきことだろう。外山氏も「小さいこどもをもついまの母親にも読ませたいような、行きとどいた注意である」と言っている。
西安の謝俊麗の息子の撓撓(ナオナオ)は1歳半になり、かなりいたずらもする腕白小僧になっているようだ。先日もいつも食事の時に使っている自分の椅子を壊してしまい、「ヤヤヤ!」と歓声を上げていたそうで、俊麗はやはり自由市場で買ったものは良くなかったかなと笑っていた。
前から私は俊麗に、子どもが危険なことをした時はちょっと厳しく叱り、そうでなかったら優しく止めてやることだと言っていたが、その点では俊麗はおおらかなところがあり、上手に子育てをしているようだから、ナオナオも次第に聞き分けができてくると思う。
最近は子どもを虐待する事例が増え、死に至らしめることも少なくない。大概は幼い子どもが自分の言うことを聞かなかったからと言って暴力を加えている。許せないのはそれを「しつけのため」と強弁するのが多いことだ。まだ頑是無い幼児のしつけには根気も忍耐もいる。それをちょっと言うことを聞かないと極端な暴力を加えることなど、しつけでも何でもない。
私の両親は私達きょうだいを大きな声で叱ったことがない。まして叩くなどは一度もしたことがなかった。母は優しい性格だったし、父は厳しいところはあったがいつも穏やかだった。殊更にしつけをされた記憶はないが、日常の私達への接し方が、自ずからしつけになっていたのだろう。そのお蔭もあってか、私はたいした人格や才能の持ち主にはならなかったが、事のけじめだけはわきまえるようになったのではないかと、両親に感謝している。