富山大学付属病院で事故のため治療を受けていた6歳未満の男の子が脳死と判定され、その両親が内臓の移植手術に同意して、手術が行われました。6歳未満の子どもが脳死と判定されたのは初めてのことだということです。
この男の子の心臓と肝臓、腎臓が提供され、角膜も使われたそうです。心臓の提供を受けたのは重症の心臓疾患を患っていた10歳未満の女の子、肝臓の移植を受けたのも10歳未満の女の子、腎臓は60代の女性にそれぞれ移植されました。一つの幼い尊い命が、3人の命を救ったことになります。
しかし私には単純に良かったと祝福する気持ちが起こりません。どうしても脳死とされた男の子や、そのご両親のことを考えてしまいます。ご両親は術後次のような言葉を伝えられています。
「息子は、私たち家族が精いっぱい愛情を注いで育ててきました。元気な息子のわんぱくにふりまわされながらも、楽しい時間を家族みんなで過ごしてきました。本日、息子は私たちのもとから遠くへ飛び立って行きました。このことは私たちにとって大変悲しいことではありますが、大きな希望を残してくれました。息子が誰かのからだの一部となって、長く生きてくれるのではないかと。そして、このようなことを成しとげる息子を誇りに思っていま す。私たちのとった行動がみなさまに正しく理解され、息子のことを長く記憶にとどめていただけるなら幸いです。そして、どうか皆様、私たち家族が普段通りの生活を送れるよう、そっと見守っていただきたくお願い申し上げます」
*このコメントの全文は、弁護士の徳岡宏一朗さんのブログEveryone says I love you !から拝借しました。
ご両親のお気持ちを察すると胸に熱いものがこみ上げてきます。私ならどうするだろうと考えてしまうのです。前にも妻の場合だったらどうするかと書いたことがありますが、その時の私にはたとえ脳死と判定されても体はまだ温かく、心臓も動いている妻を死者として見る気持ちには到底なれないというように書いた記憶があります。その気持ちは今も変わらず、悩みます。まだ生きている温かい体にメスを入れ、心臓を取り出した瞬間に本当の死を迎える、と言うよりも与えてしまう。いかに倫理上の問題は手を尽くした結果と言っても、どうしても納得できないものを感じます。
私が最近知り合ったある男性にはKクンと言う2歳足らずの可愛い男の子がいます。この問題を彼に問うてみると、ためらいなく提供すると言いました。自分の子どもの命で他の子どもが救われたら満足だと言いました。そう言われても取り立てて驚くことはなかったのですが、その可愛い男の子の子を思い浮かべて、そんなものかなと思ったことも事実です。
心臓移植を受けた女の子のご両親は次のようなコメントを出しておられます。
「いま移植手術を無事に終え目の前にいる我が子を見つめながら、今回の決断をされたご家族のことを思っています。
臓器提供を待ち続けた親として、大きな希望の光を与えて頂いたことへの感謝の気持ちはとめどなく溢れてきますが、「ありがとう」以外にそれを表す適切な言葉が見つかりません。
また、今回の決断が、どれほど辛く深い悲しみの中でなされたかを思うとき、子を持つ親としてその心中を深く察するとともに、この勇気ある決断に心の底から敬意を表したいと思います。このご両親の思いをしっかりと受けとめ、お子様の命が私達の子供の一部として長く生き続けられるよう、精一杯の愛情とともに我が子を大切に育みたいと思います。(以下省略)」
両親の安堵の気持ちもよく分かり、これを読むとよかったと思いますが、一方では我が子を喪った親の深い悲しみと、我が子の命が救われた親の歓びとは表裏のもので、複雑な気持ちにもなります。
重症の心臓などの欠陥を抱え、そののままでは死を待つしかない子を持つ親にとっては、臓器移植は藁にでもすがりたい気持ちでしょう。しかし、それを望むということはとりもなおさず誰かの死を望むことでもあるのです。誰しも「早く、早く」と人の死を望むはずがありません。そこには大きな葛藤があるはずです。
徳岡さんはブログに脳死と判定された子を持つ親の気持ちを幾つか挙げておられます。
・息子は生きています。死んでいるなんて決めつけないで。
・脳死とは移植のためのことばでしかないのですか、
・脳死状態でも生きています。わが子の成長を見守っていきたい。
・脳死の子どもは生きている。社会から葬らないで。
徳岡さんは「そういう方々はご家族にとってはまさに、生きている、のです」と言っておられますが、私も同感です。医学が進歩し、臓器移植ということも可能になってきました。その一方では「脳死は人の死である」という考え方も確立されたようです。考えようによっては臓器移植を可能にするための定義と取れないこともありません。私は「人の死」ということは倫理的にももっと深く考えるべきだと思うのです。
子供となると考えてしまいますね。その決断をされた親御さん気持ちを考えると、何とも複雑な面持ちになりますね。
臓器を提供された6歳の命に合掌です。
亡くなったのだが 当時も「がん」は
不治の病‥と云われていたようだ。祖父は
遺言に「医療の役立つなら私の肝臓を提供する」
と云って摘出した‥役立ったかどうか分から
ないが その当時としては「勇気ある立派な
爺さんだ」と新聞にも記載された。
父は交通事故で即死だったので臓器提供なんて
考えもしなかった・・今 6歳の子供の死が
多くの人たちに臓器提供されている。
悲しい出来事だが 生きる喜びも与えてくれた
勇気ある両親の判断に頭が下がる・・
私ならどうするか?‥難しい問題だ・・
妻は「私は嫌!」と署名しませんでした。
難しい問題ですが…〝希望ある生〟を選択された親御さんの気持ちを大事にしたいと思います。