またしても同じようなせりふ「誰でもよかった」。大阪ミナミの繁華街で起こった無差別殺人の36歳の犯人のことばです。これまでに起こった白昼の繁華街などでの無差別殺人事件の犯人の何人かが同じことを供述しています。「死にたかった。人を殺せば死刑になると思った」という点でも同じです。
まったく非道な行為です。この犯人は被害者の42歳の男性が「助けてください」と哀願しているのに馬乗りになって、何度も包丁で刺したそうです。そのあと自転車で通りかかった66歳の女性も刺していて、被害者の男性も女性も搬送先の病院で亡くなりました。あまりの残虐さに言いようのない怒りを覚えます。
冷たいことを言うと批判されるかも知れませんが、死にたかったら自分で死ねばいいのです。それも電車に飛び込んだりすれば多くの人に迷惑をかけますから、どこか人気のない所で首でも吊ればいいのです。それなのに何の面識もない人を襲って殺し、それで死刑になったらとは、あまりにも身勝手です。
これについて『朝日』の夕刊の「素粒子」というコラムで「自分で死ねないから人を殺す、この倒錯と身勝手」と書いており、それはその通りなのですが、続けて「こういう手合いを望み通りに死刑にするのがいいのかどうか」と言っているのには納得できない気がしました。死刑制度に反対なのが『朝日』の社論なのか、それとも死刑制度反対者をおもんばかったのか、何か人に下駄を預けたような書きようで、「それで、あなたはどうすればいいと考えているのだ」と言いたくなりました。このコラムでは、筆者は違うかも知れませんが、自民党の鳩山邦夫氏が法務大臣の時に死刑執行命令書に署名することが多いからと「死に神」呼ばわりして物議をかもしたことがありました。
私は死刑制度存続論者です。死刑廃止は世界の趨勢に逆行するとか、残虐な刑罰だとか、冤罪の可能性があるとか、悔悛の可能性を奪ってはいけないなどいろいろ言われます。私はかねてから疑問に思っているのですが、こういう場合にしばしば加害者の「人権」が云々されるのに、何の咎もないのに理不尽に、たった一つしかない命を奪われた被害者の人権はどこまで顧慮されているでしょうか。死んでしまえば人権も消えるかのようです。やはり「目には目を」だとされるでしょうが、理不尽に人の命を奪った者は、自分の命で償うべきです。最近は殺したのが1人ならば死刑は回避し、複数ならば死刑はあり得るというのも、何か命を物扱いしているように思います。
死刑制度反対の意見は肯定できる点もありますが、仮に私の孫が被害者だったらと思うと、やはり想像しただけで頭に血が上ります。そんなことで、なかなか死刑について可否を冷静客観的に考えることができないのは凡人の証なのでしょう。絞首刑が残虐な手段と言うのなら他の方法を考えればいいし、どうしても死刑を廃止するのならば、仮釈放なしの労働も加えた終身刑を設けるべきだと思っています。よく犯人や弁護士が、生きて被害者の後生を弔いたいとか言って死刑を回避するように願いますが、殊勝ではあるけれども本心かなとも思います。死刑の判決があってすぐに執行されるわけではありません。その間に罪を悔いて被害者を弔えばいいのです。法律では判決確定後、六カ月以内に執行するように定められていますが、今では2、3年どころか5年、10年も未執行の例が多いようです。執行を命令する法務大臣の中には、自分の思想信条として署名を拒否する人がいますが、おかしいと思います、法務大臣の任務の中には死刑執行命令書に署名することも入っています。それが嫌なら断固として大臣就任を拒否すべきでしょう。大臣になれればいいというものではないでしょう
今の段階で予断的なことを言ってはいけないのですが、今度の事件の犯人は死刑になる可能性は高いでしょう。自分の首にロープがかけられた時に、「死刑になりたかった」と言っていた彼は「これでやっと死ねる」と満足に思うのか。そうではなくて、たとえ法の下であっても人の手にかかって命を断たれることがどれほど恐ろしいものかを思い知るのではないかと思います。
(朝の散歩から)
最近は一時に比べて花が少なくなっているような気がします。今日の花は前に撮り溜めたものです。
死刑の問題の一つは、無実の罪や政治犯を殺す目的に使われることがあって、現在でも死刑の多い国はその目的を国家レベルで実行しておる、だから死刑を避ける思想は大事じゃな。
また釈迦も自衛のため、罪のない仲間を守るための殺人は殺人ではないとも言っている。凶悪な殺人者を放置すれば、自分や仲間が殺されるのを幇助する結果になるという聖人の合理的な判断であるな。
島流しは最も合理的な極刑で、そこで生きるために極悪人達が互いに助け合うか、互いに殺し合うか、自殺したい者は死ぬことを極限の環境の中で己で選択できることじゃな、助け合うことを選べば、更正されることじゃろう。