旧満州鉄道本社
コの字型の中央部です。
地上2階 地下1階
社員数4万人 製鉄所、炭鉱、農事試験場などあり
家族にも満鉄のフリーパスが受けられ、満鉄乗り放題で
満州の主要都市総てに行く事が出来ました。
その当時すでに、福利厚生施設も充実していました。
満鉄 大連埠頭ターミナル玄関
戦後、ここから私達家族は日本へと引き揚げました。
道を挟んで6階建ての埠頭事務所があります。
上の白いのはターミナルの屋根です。
100年前には、すでにエレベーターが2基あり
当時では凄い事だったようです。
今でも、必要とされている建物です。
父は、ここで仕事をしていたと思われます。
この屋上は眺望が良く、観光スポットになっています。
その左に目をやると近代的な高層ビル
マンション 右の方のは、まだ建築中ですが
金額は 億と言う事です。
大連では至る所で高層ビルが建てられています。
大連埠頭
この正面の遠くに日本が・・見えませんが・
大連埠頭には1~4まであり、第1埠頭と
第2埠頭はロシア統治時代に、第3埠頭と
第4埠頭は日本が建設しました。
この写真には客船が見えますが、客船は
第2埠頭からで、他は貨物専用だそうです。
写真右から第1 左へ2,3,4埠頭となります。
ここに立って、当時の両親に想いを馳せました。
父が40歳 母31歳の時に終戦 引き揚げとなり
6歳、4歳、3才の子供を母が1人で連れ帰ったけど
母のお腹には8ヶ月の子供。
しかも、父は仕事の関係で一緒には帰れなかったので
母は、どれだけ心細かったことか まだ31歳
6歳の姉には、ロシア兵にいたずらされないように
髪は短く男の子の格好をさせたといいます。
持ち物には制限があり、殆んどが没収されたと
言う事ですが、身重の母は、両手で姉と私の
手を繋ぎ、妹をおぶって何も持てる筈もなく、
ただ子供達を無事に日本に連れ帰ることだけを
考えていたと言います。
海を見ながら、本当に大変だったんだろうなって
幼い時に居た場所で、当時の母の年齢を超えて
さらなる親の愛を感じます。
ここに来て良かった。
コの字型の中央部です。
地上2階 地下1階
社員数4万人 製鉄所、炭鉱、農事試験場などあり
家族にも満鉄のフリーパスが受けられ、満鉄乗り放題で
満州の主要都市総てに行く事が出来ました。
その当時すでに、福利厚生施設も充実していました。
満鉄 大連埠頭ターミナル玄関
戦後、ここから私達家族は日本へと引き揚げました。
道を挟んで6階建ての埠頭事務所があります。
上の白いのはターミナルの屋根です。
100年前には、すでにエレベーターが2基あり
当時では凄い事だったようです。
今でも、必要とされている建物です。
父は、ここで仕事をしていたと思われます。
この屋上は眺望が良く、観光スポットになっています。
その左に目をやると近代的な高層ビル
マンション 右の方のは、まだ建築中ですが
金額は 億と言う事です。
大連では至る所で高層ビルが建てられています。
大連埠頭
この正面の遠くに日本が・・見えませんが・
大連埠頭には1~4まであり、第1埠頭と
第2埠頭はロシア統治時代に、第3埠頭と
第4埠頭は日本が建設しました。
この写真には客船が見えますが、客船は
第2埠頭からで、他は貨物専用だそうです。
写真右から第1 左へ2,3,4埠頭となります。
ここに立って、当時の両親に想いを馳せました。
父が40歳 母31歳の時に終戦 引き揚げとなり
6歳、4歳、3才の子供を母が1人で連れ帰ったけど
母のお腹には8ヶ月の子供。
しかも、父は仕事の関係で一緒には帰れなかったので
母は、どれだけ心細かったことか まだ31歳
6歳の姉には、ロシア兵にいたずらされないように
髪は短く男の子の格好をさせたといいます。
持ち物には制限があり、殆んどが没収されたと
言う事ですが、身重の母は、両手で姉と私の
手を繋ぎ、妹をおぶって何も持てる筈もなく、
ただ子供達を無事に日本に連れ帰ることだけを
考えていたと言います。
海を見ながら、本当に大変だったんだろうなって
幼い時に居た場所で、当時の母の年齢を超えて
さらなる親の愛を感じます。
ここに来て良かった。
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