落合順平 作品集

現代小説の部屋。

『ひいらぎの宿』 (23)

2013-12-14 10:38:04 | 現代小説
『ひいらぎの宿』 (23)第3章 山鯨と海の鯨の饗宴
堰堤(えんてい)下の、ビギナーズラック




 周囲20キロあまりの草木湖へ流れ込む支流のひとつ、黒坂石川は、
川沿いを遡上するにつれて、雪のふき溜まりなどが増えてきます。
上流に整備されたキャンプ場があり夏休みになると近郊から、たくさんの学童たちが集まってきます。


 溶け始めた雪の塊が、深夜の冷え込みでつららに変わっています。
川面にせり出した石に沿って30センチから40センチほどの氷を下げている光景が
上流に向かって、どこまでも続いていきます。
標高600メートルを超えている山あいの渓流は、3月の声を聞いても真冬のままです。
渓谷を取り巻く木々たちの新芽は、見るからに硬く殻を閉ざしたまま、春を招くはずの
芽吹きの様子は、いまだにどこにも見えません。


 放流サイズのイワナが2匹続けて釣れたあと、2人が最初の堰堤(えんてい)に突き当たります。
堰堤とは、貯水や治水、砂防などの目的で、河川や渓谷を横断する堤防のことです。
流れ落ちてくる深みの緑色の水の中には、尺(30センチ)を超えるイワナが棲んでいると、
はるかな昔から、釣り人たちのあいだで語り伝えられています。
渦を巻いている深みに向かって竿を出そうとしたまさにその瞬間、川の水が
2人の目の前で、一瞬にしてまっ茶色に濁りはじめてしまいます。



 上流で大雨が降ったときなどによく見られる、渓谷特有の水質の急変です。
しかしこの日にかぎり、上流での降雨の気配はまったくありません。
大きくせり出した上流の雪渓が崩れたせいで、川の水が一気に濁ったようです。
15分程度で濁りがおさまるだろうと俊彦が、岡本に声をかけます。
濁りがおさまっていく過程の途中、水が澄みきってしまう直前が、イワナを釣るための
絶好の狙い目です。



 「岡本。なんでイワナを『岩魚』と書くか、知っているか?」

 「渓谷に住む魚のことで、岩の多いところに棲んでいるからだろう」


 「正解率50%の回答だ。
 イワナって奴はよ。泳ぐのが下手で流れの強い所を忌み嫌うんだ。
 そのために、大きな岩の裏側とかで、ジッと潜んでいるから岩魚なんだよ」


 「なるほど。岩の下に居着いているから「岩魚」か。
 日本の渓流といえば、落差のある滝や落ち込みなどが連続をしていくのがほとんどだ。
 激流というイメージが定着しているが、そんな場所に棲息しているくせに、
 泳ぎが、まったく下手くそというのは、意外だな」


 「イワナは大物になるほど動かない。深い淵の底でピクリとしないで餌を待つ。
 餌が目の前に来た時にだけ、パクリと口を開けて飲み込む。
 泳ぐのが下手だから、渓流が大雨で増水する時は流されないように小石を食べて
 腹の中で、重石にするという話さえある。
 そのために、雨降りで水がにごり始めた時の方が荒食いをするから、
 よく釣れるという訳だ」


 「岩の下に潜んだまま、出会い頭のタイミングで餌をくわえるのか。
 なるほど、うまく偶然が重ならなければ、岩の主は釣れないというわけか。
 どうりで難しいはずだ。イワナ釣りってやつは」



 濁りが収まりかけてきた深みの淵に向かって、岡本が竿を出します。
ウズを巻いている深みに沿って流れた目印が、途中で止まり、なんとなく静止をしたまま
いつまで経っても、そこから一向に動きません。
『おかしいなぁ。石にでもひっかかったかな・・・・』なんとなく合わせてみると、
途端にいきなり強烈な手応えが、岡本の手元に伝わってきます。


 「おっ。出会い頭のビギナーズラックだ。
 重そうだなぁ。尺超えの大物クラスかもしれん。大事に取り込めよ、岡本」

 「初のイワナ釣りで、初の尺物がヒットとはついている。
 やっぱり俺には、どこまでいっても釣りの神様がついているのかもしれん」



 「イワナは、30センチを超えれば、立派な大物の部類に入る。
 だが、29センチ以上は有るものの、肝心の30センチにはとどかない、
 いわゆる『泣き尺』という場合もある。
 気をつけろ。釣りの神様はとりあえず微笑んでくれたが、そこまで
 初心者にサービスをしないかもしれん。
 おれもここで、何匹も泣き尺を釣り上げてきた苦い経験がある。
 今日あたりは、『奇跡』がおこりそうな気もするが、それでもやはり歴史は繰り返される。
 うん・・・・大きさはそこそこだが、見た目に、尺は微妙だな・・・・
 またまた、残念ながらの泣き尺という可能性がある。
 そういう場所だな、ここは。絶対に・・・・」







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