『ひいらぎの宿』 (35)第4章 ひいらぎの宿、最初のお客様
気になる白い車と、3度目の遭遇
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『じゃな。今度は杉原と2人で、お前さんたちの宿作りの陣中見舞いにやってくるから』と、
片手を上げた岡本が、定刻通りに山あいを下ってきたディゼルカーに、ヒョイと乗り込みます。
夕闇が濃厚になってきた谷底の無人駅から、あっというまにディゼルカーの赤い尾灯は鉄橋を越え、
山腹を貫ぬいていくトンネルの中へ、その姿を消していきます。
「あっというまに電車が、渓谷の先のトンネルに消えて、お別れです。
足尾線のお見送りというものは、のんびりと、名残を惜しむ暇もありませんねぇ。
さすがに、人の少ない辺境の鉄道ですね・・・・」
清子が拍子抜けしたようにホームから、電車が呑み込まれていった鉄橋の先を見つめています。
神戸駅は、「富弘美術館」の最寄り駅として、土日や祝日には大変な賑わいぶりをみせますが、
平日の夕方時刻にこの電車を利用しようという地元の人の姿は、
ほとんど言っていいほどありません。
駅前には、大型観光バスが数台止められるスペースが確保されているほか、
路線バスの方向転換が、一度で出来るほどの広さを保有しています。
さらに離れた場所に、自家用車を20台ほど停められるスペースも持っています。
こうした利便性から無人駅でありながら、草木湖湖畔へのアクセスや、日光東照宮や中禅寺湖方面への
電車からバスへの乗り継ぎ地点として、たいへん便利に活用がなされています。
「帰りはもう一度、堰堤上の道を走って、東の岸沿いに我が家まで戻りましょうか。
気になるんでしょう、あなたは。あの白い車のことが?」
「うん。やっぱり聞いていたのか、君も」
「気になることと言えば、実は、もうひとつ有ります。
岡本さんがやってきたのは、ただ単純に、渓流釣りを楽しむだけではないでしょう?
もうひとつ、あなたへ大切な相談事などが有って、
わざわざと、こんなところまでお見えになられたのと違いますか」
「君は、なぜそんな風に思うわけ?」
「女の第六感です。
いいえ。もうピンと来ています。
あなたたちの大切なお仕事の運営に、いま重大な支障が出始めたはずです。
私のワガママを聞き入れてくれて、こんな辺境な地で私と一緒に暮らすために、
あなたは長年の蕎麦屋をたたみ、アパートを引き払いました。
別にこちらから通ってもいいと思っていたようですが、片道で1時間もかかるようでは
それもやがては重荷になるでしょう。
すべてのものを切り捨ててくれたあなたの決断ぶりは、実に見事です。
ですがその潔(いさぎよい)あなたの決断が、その結果として、
かなりの不都合などを生じさせてしまったようです。
旅籠用として改装中の別棟を、今までのように、
原発労働者のみなさんの、療養の場所として使えばいいじゃありませんか」
「えっ。それでは、君の夢の邪魔をすることになるだろう。
人情豊かな旅籠を、自然豊かな山の中に作りあげることが、君の当面の夢だろう」
「男の人たちの夢の邪魔をしてまで、成し遂げようなどと考えてはおりません。
病気で療養中の人たちを見捨てて、なんで人情の宿ですか。
芸者を辞めたのは、あなた1人の女になるために、私が勝手に決めたことです。
私が生まれて育ったこの地へ、終の棲家を作ろうと決めたのも、
私の単なる都合と、わがままからのことです。
あなたが休みの日に、ここへ通ってきてくれるだけでも充分だったのに、
最初から一緒に住もうなんて優しいことを言い出してくれたんだもの。
もう、これ以上に望んだらバチが当たりそうです。
あんたの夢ならあたしの夢。あたしの夢もあんたの夢。
ふたつを足して2で割れば、局面ごとに夢の形というものも変わっていくもんでしょう。
どう。あんた。結構いい女でしょう、あたしって」
「うん。確かにいい女だ。たった今、君に惚れ直した」
「あっ・・・・などと艶めいた会話などを、こっそりと楽しんでいる場合ではなさそうです。
どうやら、あなたの懸念が当たりそうな気配が漂ってまいりました。
さきほどの堰堤上には見当たりませんでしたが、人気のない東岸の駐車場に、
それらしい先程の、白い車の様子などが見えます」
前方の駐車場の一角に街灯を浴びながら、暗闇にほのかに浮かび上がる
白い乗用車の姿が接近をしてきます。
赤いテールランプが光っているところを見ると、エンジンは始動しているようです。
「どうしましょう、あなた。
こうなるとやっぱり放っておけないでしょう、あなたとしては。
これで、3度目の遭遇ということになりますし」
「そのまま、通り過ぎてくれ。
その先で山裾を回り込んだところで、俺を降ろしてくれ。
思いすごしなら構わないが、どうも最初に見かけた時から気にかかっていたんだ。
場所といい、時間帯といい、どうにも不自然な気配を感じる。
ちょっと事情を確かめてくるから、君はこのまま先に戻っていてくれ。
場合によっては、連れて行くかもしれない」
「分かりました。
見過ごしができない人ですからね、あなたという人は。
でも、無理強いなどをしてがダメですよ。人にはそれぞれ都合というものがあります。
などと忠告しても、あなたには無理か・・・・
困っている人を見ると、放っておけない性質だもの。
そのくらい私にも執心をしてくだされば、もっと早めに所帯がもてたのに、ねぇ。
うふふ。野暮なことを、ドサクサにまぎれてつぶやいてしまいました。
不謹慎そのものです。まったくこの場にはふさわしくない、
愚痴、そのものですねぇ」
『何があるのかわかりません。くれぐれも気をつけてください』と、
山裾を回り込んだ暗闇で清子が静かにブレーキを踏み、車を停止させます。
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気になる白い車と、3度目の遭遇
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『じゃな。今度は杉原と2人で、お前さんたちの宿作りの陣中見舞いにやってくるから』と、
片手を上げた岡本が、定刻通りに山あいを下ってきたディゼルカーに、ヒョイと乗り込みます。
夕闇が濃厚になってきた谷底の無人駅から、あっというまにディゼルカーの赤い尾灯は鉄橋を越え、
山腹を貫ぬいていくトンネルの中へ、その姿を消していきます。
「あっというまに電車が、渓谷の先のトンネルに消えて、お別れです。
足尾線のお見送りというものは、のんびりと、名残を惜しむ暇もありませんねぇ。
さすがに、人の少ない辺境の鉄道ですね・・・・」
清子が拍子抜けしたようにホームから、電車が呑み込まれていった鉄橋の先を見つめています。
神戸駅は、「富弘美術館」の最寄り駅として、土日や祝日には大変な賑わいぶりをみせますが、
平日の夕方時刻にこの電車を利用しようという地元の人の姿は、
ほとんど言っていいほどありません。
駅前には、大型観光バスが数台止められるスペースが確保されているほか、
路線バスの方向転換が、一度で出来るほどの広さを保有しています。
さらに離れた場所に、自家用車を20台ほど停められるスペースも持っています。
こうした利便性から無人駅でありながら、草木湖湖畔へのアクセスや、日光東照宮や中禅寺湖方面への
電車からバスへの乗り継ぎ地点として、たいへん便利に活用がなされています。
「帰りはもう一度、堰堤上の道を走って、東の岸沿いに我が家まで戻りましょうか。
気になるんでしょう、あなたは。あの白い車のことが?」
「うん。やっぱり聞いていたのか、君も」
「気になることと言えば、実は、もうひとつ有ります。
岡本さんがやってきたのは、ただ単純に、渓流釣りを楽しむだけではないでしょう?
もうひとつ、あなたへ大切な相談事などが有って、
わざわざと、こんなところまでお見えになられたのと違いますか」
「君は、なぜそんな風に思うわけ?」
「女の第六感です。
いいえ。もうピンと来ています。
あなたたちの大切なお仕事の運営に、いま重大な支障が出始めたはずです。
私のワガママを聞き入れてくれて、こんな辺境な地で私と一緒に暮らすために、
あなたは長年の蕎麦屋をたたみ、アパートを引き払いました。
別にこちらから通ってもいいと思っていたようですが、片道で1時間もかかるようでは
それもやがては重荷になるでしょう。
すべてのものを切り捨ててくれたあなたの決断ぶりは、実に見事です。
ですがその潔(いさぎよい)あなたの決断が、その結果として、
かなりの不都合などを生じさせてしまったようです。
旅籠用として改装中の別棟を、今までのように、
原発労働者のみなさんの、療養の場所として使えばいいじゃありませんか」
「えっ。それでは、君の夢の邪魔をすることになるだろう。
人情豊かな旅籠を、自然豊かな山の中に作りあげることが、君の当面の夢だろう」
「男の人たちの夢の邪魔をしてまで、成し遂げようなどと考えてはおりません。
病気で療養中の人たちを見捨てて、なんで人情の宿ですか。
芸者を辞めたのは、あなた1人の女になるために、私が勝手に決めたことです。
私が生まれて育ったこの地へ、終の棲家を作ろうと決めたのも、
私の単なる都合と、わがままからのことです。
あなたが休みの日に、ここへ通ってきてくれるだけでも充分だったのに、
最初から一緒に住もうなんて優しいことを言い出してくれたんだもの。
もう、これ以上に望んだらバチが当たりそうです。
あんたの夢ならあたしの夢。あたしの夢もあんたの夢。
ふたつを足して2で割れば、局面ごとに夢の形というものも変わっていくもんでしょう。
どう。あんた。結構いい女でしょう、あたしって」
「うん。確かにいい女だ。たった今、君に惚れ直した」
「あっ・・・・などと艶めいた会話などを、こっそりと楽しんでいる場合ではなさそうです。
どうやら、あなたの懸念が当たりそうな気配が漂ってまいりました。
さきほどの堰堤上には見当たりませんでしたが、人気のない東岸の駐車場に、
それらしい先程の、白い車の様子などが見えます」
前方の駐車場の一角に街灯を浴びながら、暗闇にほのかに浮かび上がる
白い乗用車の姿が接近をしてきます。
赤いテールランプが光っているところを見ると、エンジンは始動しているようです。
「どうしましょう、あなた。
こうなるとやっぱり放っておけないでしょう、あなたとしては。
これで、3度目の遭遇ということになりますし」
「そのまま、通り過ぎてくれ。
その先で山裾を回り込んだところで、俺を降ろしてくれ。
思いすごしなら構わないが、どうも最初に見かけた時から気にかかっていたんだ。
場所といい、時間帯といい、どうにも不自然な気配を感じる。
ちょっと事情を確かめてくるから、君はこのまま先に戻っていてくれ。
場合によっては、連れて行くかもしれない」
「分かりました。
見過ごしができない人ですからね、あなたという人は。
でも、無理強いなどをしてがダメですよ。人にはそれぞれ都合というものがあります。
などと忠告しても、あなたには無理か・・・・
困っている人を見ると、放っておけない性質だもの。
そのくらい私にも執心をしてくだされば、もっと早めに所帯がもてたのに、ねぇ。
うふふ。野暮なことを、ドサクサにまぎれてつぶやいてしまいました。
不謹慎そのものです。まったくこの場にはふさわしくない、
愚痴、そのものですねぇ」
『何があるのかわかりません。くれぐれも気をつけてください』と、
山裾を回り込んだ暗闇で清子が静かにブレーキを踏み、車を停止させます。
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