『ひいらぎの宿』 (31)第3章 山鯨と海の鯨の饗宴
マタギ伝説と、巻き猟
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「道路の整備が不充分だった時代には、
このあたりの山あいでも大雪が降ると、陸の孤島に変わってしまった。
村落の住民は山仕事が中心で、決してマタギが専門の家系ではないが、
そんなときには、力を合わせて熊狩りに出ることもあったと言われておる」
ほろ酔い加減の石工・作次郎老人の弁舌は止まりません。
囲炉裏端を囲んだ男たちの酒宴は、夕闇が迫ってきても終わる気配を見せません。
瓢箪に詰められてきた密造のドブロクはすでに完全に空となり、2本目となる一升瓶が清子の手元で
男たちの催促を待ち構えています。
「巻(まき)狩りという猟は、棟梁を筆頭に20人ほどの男たちが参加する。
高性能の無線や双眼鏡、銃などがなかった時代には、獲物を追い詰めるために
大勢の協力者を必要としたからじゃ。
全体を指揮する者は『ムカダテ』と呼ばれ、クマを追い立てる者たちを『セコ』と呼んだ。
クマを撃つ者が『ブッパ』で、それを補佐する『フンギリ』などの役割がある。
クマを発見すると、ムカダテはセコに指示を送り徐々にクマを追い立てていく。
無線というものが無かった時代、ムカダテは離れたセコに対して言葉だけではなく、身振りや
手振りといった動作も使って指示を送ったそうだ。
ときには、1~2キロも離れた場所で的確にやりとりをしたというから驚きだ。
クマを見つけるとセコたちは槍を手に大声を上げて、ブッパが待ち構えている
場所までクマを追い立てていく。
クマが射程距離に入ると、いよいよブッパが発砲をすることになるのだが、
その際に、身体のどの部分を狙って撃ってもいいわけではない。
クマの側面脇という、きわめて限られた部分を狙うのには、実はワケがある。
クマの正面から胸元や腹部を撃てば、最も重要な部分である胆のうを傷付けてしまう恐れがある。
また、クマの肉の味までダメにしてしまうこともある。
そのためブッパは、狭い的を的確に狙い打つ技術と経験が必要になってくる。
当時の狩りというものは、鉄砲だけでも、クマを追い立てる役だけでも、
指示者だけでも成り立たない。
お互いに協力をして狩りを成り立たせていたからこそ、獲物を平等に分け与えるという
教えが残っていたのだろう。
狩りを終えると男たちは、無事に猟を終え、
収穫できたことにおおいに感謝をしながら、一同でそろって夕食を取る。
武勇伝や失敗談などに花を咲かせ、仲間との親睦と絆を深めてゆく。
必要とされるものを、必要なだけ取る。これもまた、長年守られてきた
山ならではの掟じゃ」
「なるほど。さすがです。山には人の節度がある。
神が住む領域とされているだけに、そこに住む人間にも品性がある。
貧しいが、それ以上に自然を守り、生き物を尊ぶという精神がある。
根こそぎ資源を取り尽くそうなどという乱獲は、いかんよなぁ。
人間のエゴ丸出しだもの。
山へ来るとなぜか新鮮な気持ちになるのは、そのせいなのかな?
なぜか、背筋まで伸びるような気がする」
「やっぱり只者じゃないな、この極道は。
人は共存をして生きていくために、常に、摂理と尊厳を必要とする。
海はその豊かな資源を持ちすぎたがゆえに、人々の欲と狂乱を招き、枯渇の結果を自ら導いた。
山は貧しさゆえに、清貧に、真摯にその生命をお互いに共有をしてきた。
たったそれだけの違いが、今日の資源の有り様を、天と地ほどに決定してきたようだ。
面白い対比ぶりじゃのう。人間の欲の行く末というものは。ふぉっほっほ」
「おい、トシ。いったいなんだ。このドブロクを持ってきた、山の哲学者みたいな
変な爺ぃは、一体どこの何者だ。
言うことに、いちいち説得力があり、奥が深すぎる」
「隣に住んでいる、作次郎さんという石工の名人だ。
名人が積んだ石垣は、震度6の地震でもびくともしないし、200年から300年は平気で持つという。
最も最近は、石垣よりもドブロクの密造の方が、お気に入りのようだ。
職人さんだけあって、やはりひとつひとつの仕事に妥協というものがない。
このドブロクも絶品だ。
まぁ。このあたりの山の神様といったところかな」
「こらこら、お2人さん。
山の神様というのは、このあたりでは女性のことを指しておる。
読んで字のごとく、山の神様という意味じゃが、山に住む神だったり、
山そのものが神であったりと、土地によって解釈は異なるがほとんどの場合において、
女神であるとされてきた。
若い女性が山に入ると、山の神が嫉妬して事故を起こしたり、
天気が荒れたりするといった物騒な言い伝えが、全国的に広く分布をしておる。
信心深い猟師や、トンネルの作業員の中などには、女性が山に入るのを快く思わない者もいる。
山の神が女神であることから転じて、恐妻家の男が、
自分の妻を指して用いる場合もある。
『山の神がお怒りなんで、このへんで失礼します』などと用いるが、
いまではほとんど廃れてきたようじゃ。
『かみさん』という言い方が「山の神」から出たという説もあるが、
真偽のほどはわからん。
ただ、はっきりしておるのは、山の神はヤキモチ焼きだという事実だけじゃ。
あっはっは」
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マタギ伝説と、巻き猟
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「道路の整備が不充分だった時代には、
このあたりの山あいでも大雪が降ると、陸の孤島に変わってしまった。
村落の住民は山仕事が中心で、決してマタギが専門の家系ではないが、
そんなときには、力を合わせて熊狩りに出ることもあったと言われておる」
ほろ酔い加減の石工・作次郎老人の弁舌は止まりません。
囲炉裏端を囲んだ男たちの酒宴は、夕闇が迫ってきても終わる気配を見せません。
瓢箪に詰められてきた密造のドブロクはすでに完全に空となり、2本目となる一升瓶が清子の手元で
男たちの催促を待ち構えています。
「巻(まき)狩りという猟は、棟梁を筆頭に20人ほどの男たちが参加する。
高性能の無線や双眼鏡、銃などがなかった時代には、獲物を追い詰めるために
大勢の協力者を必要としたからじゃ。
全体を指揮する者は『ムカダテ』と呼ばれ、クマを追い立てる者たちを『セコ』と呼んだ。
クマを撃つ者が『ブッパ』で、それを補佐する『フンギリ』などの役割がある。
クマを発見すると、ムカダテはセコに指示を送り徐々にクマを追い立てていく。
無線というものが無かった時代、ムカダテは離れたセコに対して言葉だけではなく、身振りや
手振りといった動作も使って指示を送ったそうだ。
ときには、1~2キロも離れた場所で的確にやりとりをしたというから驚きだ。
クマを見つけるとセコたちは槍を手に大声を上げて、ブッパが待ち構えている
場所までクマを追い立てていく。
クマが射程距離に入ると、いよいよブッパが発砲をすることになるのだが、
その際に、身体のどの部分を狙って撃ってもいいわけではない。
クマの側面脇という、きわめて限られた部分を狙うのには、実はワケがある。
クマの正面から胸元や腹部を撃てば、最も重要な部分である胆のうを傷付けてしまう恐れがある。
また、クマの肉の味までダメにしてしまうこともある。
そのためブッパは、狭い的を的確に狙い打つ技術と経験が必要になってくる。
当時の狩りというものは、鉄砲だけでも、クマを追い立てる役だけでも、
指示者だけでも成り立たない。
お互いに協力をして狩りを成り立たせていたからこそ、獲物を平等に分け与えるという
教えが残っていたのだろう。
狩りを終えると男たちは、無事に猟を終え、
収穫できたことにおおいに感謝をしながら、一同でそろって夕食を取る。
武勇伝や失敗談などに花を咲かせ、仲間との親睦と絆を深めてゆく。
必要とされるものを、必要なだけ取る。これもまた、長年守られてきた
山ならではの掟じゃ」
「なるほど。さすがです。山には人の節度がある。
神が住む領域とされているだけに、そこに住む人間にも品性がある。
貧しいが、それ以上に自然を守り、生き物を尊ぶという精神がある。
根こそぎ資源を取り尽くそうなどという乱獲は、いかんよなぁ。
人間のエゴ丸出しだもの。
山へ来るとなぜか新鮮な気持ちになるのは、そのせいなのかな?
なぜか、背筋まで伸びるような気がする」
「やっぱり只者じゃないな、この極道は。
人は共存をして生きていくために、常に、摂理と尊厳を必要とする。
海はその豊かな資源を持ちすぎたがゆえに、人々の欲と狂乱を招き、枯渇の結果を自ら導いた。
山は貧しさゆえに、清貧に、真摯にその生命をお互いに共有をしてきた。
たったそれだけの違いが、今日の資源の有り様を、天と地ほどに決定してきたようだ。
面白い対比ぶりじゃのう。人間の欲の行く末というものは。ふぉっほっほ」
「おい、トシ。いったいなんだ。このドブロクを持ってきた、山の哲学者みたいな
変な爺ぃは、一体どこの何者だ。
言うことに、いちいち説得力があり、奥が深すぎる」
「隣に住んでいる、作次郎さんという石工の名人だ。
名人が積んだ石垣は、震度6の地震でもびくともしないし、200年から300年は平気で持つという。
最も最近は、石垣よりもドブロクの密造の方が、お気に入りのようだ。
職人さんだけあって、やはりひとつひとつの仕事に妥協というものがない。
このドブロクも絶品だ。
まぁ。このあたりの山の神様といったところかな」
「こらこら、お2人さん。
山の神様というのは、このあたりでは女性のことを指しておる。
読んで字のごとく、山の神様という意味じゃが、山に住む神だったり、
山そのものが神であったりと、土地によって解釈は異なるがほとんどの場合において、
女神であるとされてきた。
若い女性が山に入ると、山の神が嫉妬して事故を起こしたり、
天気が荒れたりするといった物騒な言い伝えが、全国的に広く分布をしておる。
信心深い猟師や、トンネルの作業員の中などには、女性が山に入るのを快く思わない者もいる。
山の神が女神であることから転じて、恐妻家の男が、
自分の妻を指して用いる場合もある。
『山の神がお怒りなんで、このへんで失礼します』などと用いるが、
いまではほとんど廃れてきたようじゃ。
『かみさん』という言い方が「山の神」から出たという説もあるが、
真偽のほどはわからん。
ただ、はっきりしておるのは、山の神はヤキモチ焼きだという事実だけじゃ。
あっはっは」
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