『ひいらぎの宿』 (36)第4章 ひいらぎの宿、最初のお客様
白い車に乗っている青年は・・・・
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車を降りた俊彦が、ひとつ身震いをします。
日の落ちた湖の周囲には、今夜の冷え込みを予測させるヒヤリとした夜気が漂よっています。
アスファルトをコツコツと踏みしめながら、駐車場が見下ろせるカーブまで俊彦が戻ってくると、
街灯の下には、さきほどの白い車が、相変わらず白い排気を吐き続けています。
「こいつは、予想外の冷え込みだな。
できることなら、短期決戦で片付けないと、こっちの身体が先に悲鳴をあげそうだ。
さてさて、お節介をかってでたものの、運転手が実際には何者かはわからない。
注意をしながら、ひとつ、単刀直入で切り込んでみるか・・・・」
ぶるっと身震いをした俊彦が、駐車場を横切りながら白い車に近づきます。
近づくにつれて運転席が見えるようになり、若そうな男の横顔がほのかに浮かび上がってきます。
『若そうな男だ。助手席側に人の気配は見えない。ということは一日中、ここのあたりを
独りで居たということか。やはり、帰れない訳が実はあるという意味かもしれん・・・』
運転席まで数歩というところまで近づいた俊彦が、そのまま速度を緩めずに距離を詰めます。
運転席の窓ガラスを軽くノックします。
既に近づく気配を察していたのか、半分ほど運転席の窓ガラスが開いていきます。
「夜分に申し訳ない。
ちょうどよいところで車を見かけたもので、図々しくお邪魔をした。
このすぐ上に最近越してきたばかりの者です。先ほど散歩に出てきたのはいいのですが
不注意なことに、そこの斜面で足をくじいちまった。
車なら5~6分の距離だが、坂道をこのくじいた足で上がっていくとなると、
少しばかり辛いものがある。どうだろう。ものは相談だ。
ぶしつけなお願いで申し訳ないが、俺の家まで乗せて行ってくれないだろうか。
怪しいものじゃない。ついこのあいだまで、桐生市で『六連星(むつらぼし)』という
蕎麦屋を営業していた者で、名前は俊彦という。
乗せてくれるとありがたいな。この寒さで、少しばかり身体までキツくなってきた」
運転席の男から、即座の反応は見えません。
考え込んでいる様子もなく、ただ、心ここに有らずという目で、じっと俊彦を見つめています。
『無理かな?。もう一歩、気持ちの中に踏み込む必要がありそうだな・・・・』さて、
次の一手はと俊彦が逡巡をはじめたその瞬間、男が『どうぞ』と助手席のドアを
指し示します。
気が変わらぬうちにと、いそいで車を半周した俊彦が助手席のドアを開けます。
温められた車内の空気の中には、鼻をついてくるタバコの異臭がかすかにながら混じっています。
しかしこの異臭も、先程まで青年が喫煙していたという訳ではなく、既に長年にわたり
車に染み付いてきたというような気配がしています。
『複数の人間が乗り回す、営業車独特の匂いだな。なるほど、タバコをやめて3年も経つと、
麻痺をしていた鼻の嗅覚も、こんな微細なタバコの匂いまで即座に嗅ぎ分けるようになるんだ。
なるほど、たったいま、初めて気がついた』
「あのう・・・・道はどう行けば・・・・」
ハンドルを握りしめたままの青年が、おずおずと声をかけてきます。
ライトを点灯し、走り出す準備を整えた青年が、運転席で早くも俊彦の指示を待ち構えています。
「ありがとう。助かった。
駐車場を出たら、湖畔の道を左方向へ直進してくれ。
500mほどで山へ登る小さな道と遭遇をする。その道を4~5分も登って行けば俺の家だ。
わるいねぇ、ほんとに助かった」
『いえ、どういたしまして。お互い様です、困ったときは』と口の中でボソッとつぶやいた青年が
ギャを前進に入れると、同乗者をいたわるような静かな動きで、駐車場をあとにします。
湖畔に沿って周遊をしていく道路に街灯はありません。
暗闇を照らし出していくライトの光の輪が、なんどかのカーブを照らし出したあと、
闇の中から、山腹へ向かう分岐の小道を浮かび上がらせます。
「その道だ。さほど急勾配というわけではないが、曲がりくねっている厄介な道だ。
悪いねぇ。面倒なことを君に頼んじまって。」
『いえ、お互い様です』と青年は、同じ言葉を静かに繰り返します。
ゆっくりと坂道を登り始めた青年の車は丁寧な運転を続けたあと、数分後にひいらぎの生垣に到着をします。
『中まで入ってくれるとありがたい』という俊彦の言葉に素直に従った青年が、
低速を保ったまま、用心深く古民家の庭の中へ乗り入れていきます。
「安心をしたら、なんだか、くじいた足が急に痛み始めてきた。
甘えついでで君には大変に申し訳ないが、家に入るまで少しばかり肩を貸してくれないか。
悪いねぇ。おんぶに抱っこみたいな話で、恐縮するよ」
『いえ。お互い様ですから』と3度目の同じ言葉をつぶやいた青年が、シートベルトを外すと
軽快な足取りで車を半周し、外側から助手席のドアを開けます。
『独りで降りられますか?。なんなら、手を貸しましょうか?』と俊彦の顔を覗き込みます。
「ありがたい。好意に甘え、少し支えてくれると助かる。
君みたいに優しい青年と行き合うことが出来て幸運だった。助かったよ、ありがとう」
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(37)へ、つづく
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白い車に乗っている青年は・・・・
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車を降りた俊彦が、ひとつ身震いをします。
日の落ちた湖の周囲には、今夜の冷え込みを予測させるヒヤリとした夜気が漂よっています。
アスファルトをコツコツと踏みしめながら、駐車場が見下ろせるカーブまで俊彦が戻ってくると、
街灯の下には、さきほどの白い車が、相変わらず白い排気を吐き続けています。
「こいつは、予想外の冷え込みだな。
できることなら、短期決戦で片付けないと、こっちの身体が先に悲鳴をあげそうだ。
さてさて、お節介をかってでたものの、運転手が実際には何者かはわからない。
注意をしながら、ひとつ、単刀直入で切り込んでみるか・・・・」
ぶるっと身震いをした俊彦が、駐車場を横切りながら白い車に近づきます。
近づくにつれて運転席が見えるようになり、若そうな男の横顔がほのかに浮かび上がってきます。
『若そうな男だ。助手席側に人の気配は見えない。ということは一日中、ここのあたりを
独りで居たということか。やはり、帰れない訳が実はあるという意味かもしれん・・・』
運転席まで数歩というところまで近づいた俊彦が、そのまま速度を緩めずに距離を詰めます。
運転席の窓ガラスを軽くノックします。
既に近づく気配を察していたのか、半分ほど運転席の窓ガラスが開いていきます。
「夜分に申し訳ない。
ちょうどよいところで車を見かけたもので、図々しくお邪魔をした。
このすぐ上に最近越してきたばかりの者です。先ほど散歩に出てきたのはいいのですが
不注意なことに、そこの斜面で足をくじいちまった。
車なら5~6分の距離だが、坂道をこのくじいた足で上がっていくとなると、
少しばかり辛いものがある。どうだろう。ものは相談だ。
ぶしつけなお願いで申し訳ないが、俺の家まで乗せて行ってくれないだろうか。
怪しいものじゃない。ついこのあいだまで、桐生市で『六連星(むつらぼし)』という
蕎麦屋を営業していた者で、名前は俊彦という。
乗せてくれるとありがたいな。この寒さで、少しばかり身体までキツくなってきた」
運転席の男から、即座の反応は見えません。
考え込んでいる様子もなく、ただ、心ここに有らずという目で、じっと俊彦を見つめています。
『無理かな?。もう一歩、気持ちの中に踏み込む必要がありそうだな・・・・』さて、
次の一手はと俊彦が逡巡をはじめたその瞬間、男が『どうぞ』と助手席のドアを
指し示します。
気が変わらぬうちにと、いそいで車を半周した俊彦が助手席のドアを開けます。
温められた車内の空気の中には、鼻をついてくるタバコの異臭がかすかにながら混じっています。
しかしこの異臭も、先程まで青年が喫煙していたという訳ではなく、既に長年にわたり
車に染み付いてきたというような気配がしています。
『複数の人間が乗り回す、営業車独特の匂いだな。なるほど、タバコをやめて3年も経つと、
麻痺をしていた鼻の嗅覚も、こんな微細なタバコの匂いまで即座に嗅ぎ分けるようになるんだ。
なるほど、たったいま、初めて気がついた』
「あのう・・・・道はどう行けば・・・・」
ハンドルを握りしめたままの青年が、おずおずと声をかけてきます。
ライトを点灯し、走り出す準備を整えた青年が、運転席で早くも俊彦の指示を待ち構えています。
「ありがとう。助かった。
駐車場を出たら、湖畔の道を左方向へ直進してくれ。
500mほどで山へ登る小さな道と遭遇をする。その道を4~5分も登って行けば俺の家だ。
わるいねぇ、ほんとに助かった」
『いえ、どういたしまして。お互い様です、困ったときは』と口の中でボソッとつぶやいた青年が
ギャを前進に入れると、同乗者をいたわるような静かな動きで、駐車場をあとにします。
湖畔に沿って周遊をしていく道路に街灯はありません。
暗闇を照らし出していくライトの光の輪が、なんどかのカーブを照らし出したあと、
闇の中から、山腹へ向かう分岐の小道を浮かび上がらせます。
「その道だ。さほど急勾配というわけではないが、曲がりくねっている厄介な道だ。
悪いねぇ。面倒なことを君に頼んじまって。」
『いえ、お互い様です』と青年は、同じ言葉を静かに繰り返します。
ゆっくりと坂道を登り始めた青年の車は丁寧な運転を続けたあと、数分後にひいらぎの生垣に到着をします。
『中まで入ってくれるとありがたい』という俊彦の言葉に素直に従った青年が、
低速を保ったまま、用心深く古民家の庭の中へ乗り入れていきます。
「安心をしたら、なんだか、くじいた足が急に痛み始めてきた。
甘えついでで君には大変に申し訳ないが、家に入るまで少しばかり肩を貸してくれないか。
悪いねぇ。おんぶに抱っこみたいな話で、恐縮するよ」
『いえ。お互い様ですから』と3度目の同じ言葉をつぶやいた青年が、シートベルトを外すと
軽快な足取りで車を半周し、外側から助手席のドアを開けます。
『独りで降りられますか?。なんなら、手を貸しましょうか?』と俊彦の顔を覗き込みます。
「ありがたい。好意に甘え、少し支えてくれると助かる。
君みたいに優しい青年と行き合うことが出来て幸運だった。助かったよ、ありがとう」
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(37)へ、つづく
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