『ひいらぎの宿』 (33)第4章 ひいらぎの宿、最初のお客様
140mの高さをほこる、ダムの堰堤にて
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ダムには、間違いなく急な坂道がいくつもつきまといます。
ダム沿いの道とは、ダムの堰堤の下の位置から堰堤の頂点まで登る道路のことをさします。
一定の傾斜で下っている山間地に、垂直に切り立つダムの壁を建設するわけですから、
必然的に、壁を超えるための部分の高度差は、他から比べはるかに傾斜がきつくなります。
草木ダムの堰堤があるのも、そうした場所の典型です。
ダムの持つ堰堤の高さは140メートル。長さは405メートル。
全国に3000基あまりが設置されているというダムのうちで、16番目という大きさと、
高さを誇っています。この堰堤が見下ろせる場所から少し下っていくと眼下に、
渡良瀬渓谷鐵道が所有する無人の駅、『神戸(ごうど)駅』が見えてきます。
広い構内を有する神戸駅は、大正元年9月に、足尾鉄道の終点駅として開業をしています。
同年の11月に、神土~沢入(そうり)間が延伸されるまでの、僅か、三ヶ月足らずの出来事です。
足尾鉄道は大正7年に、国鉄足尾線として昇格を果たします。
草木ダムによる線路の付け替え工事(昭和48年)などを経て、昭和62年に、
JR神土駅と、なぜか一度だけの駅名の変更がなされています。
のちの平成元年になってから、所有がJRからわたらせ渓谷鐵道に移管されたのをきっかけに、
同駅名を、地名と同表記である「神戸(どうど)」と改められた経緯などを持っています。
「この堰堤は、華厳の滝よりも高いんだぜ。
この高さから下を見下ろすとさすがのこの俺様でも、背筋に寒いものを覚える。
90メートル級ジャンプ台(現在のラージヒルジャンプ)は、
この高さから飛び出すというから、まったくもって命知らずといえる競技だな。
飛ぶというよりも、断崖を落ちていくような恐怖心がある。
しかし最近は、10代の大和撫子が、ワールドカップで優勝をするというんだから、
ずいぶんと、世の中も変わってきたもんだなぁ・・・」
送ってくれるのなら、せっかくだからダムの堰堤上を走ってくれと岡本が切望をします。
V字型の谷がどこまでも続くこのあたりは、渓谷の景勝地帯のひとつです。
とりわけ、地上200メートルの高所のど真ん中から見下ろすことのできるここからは、
息を呑むほどの渓谷の俯瞰(ふかん)と、川筋の美しさをいっぺんに堪能することができます。
清子が運転する車が、堰堤の中間地点でゆっくりと停車をします。
車から降り、両手をむんずと堤防に突いた岡本が、思わずの驚嘆の声をあげます。
「しかしいい場所だ、ここは。気に入ったぜ。
わ鉄(渡良瀬渓谷鉄道の愛称)で、神戸駅までやってくれば、
自然は心行くまでたっぷりと楽しめるし、清子のべっぴんな顔を見て、
囲炉裏端では、トシと2人で旨い料理と酒をたっぷりと楽しめるというもんだ。
よし。これからは週末ごとに遊びに来るから、駅までの送り迎えのほうを
よろしく、ひとつ頼む」
「あら。奥様と2人で、ドライブがてらこちらまで遊びにくればよろしいのに。
それとも、家庭内別居の冷え切った夫婦仲のはじまりでしょうか。もしかして?」
「失礼な。交わりこそめっきりと減ったものの、夫婦仲はきわめて良好だ。
適齢期の娘が未だに1人でいるもので、なにかといえば母と娘で買い物三昧という日々だ。
突然『結婚します』などと言われて、彼氏を連れてこられても
男親としては当惑するものがあるが、かといって、いつまで経っても
嫁に行く素振りを見せないというのも、歯がゆいものがある。
男親というものは、年頃の娘を持つと、何かと気苦労が多くなるもんだなぁ。
なぁ、トシ。そう思っているだろう、お前も?」
おい、と岡本から呼びかけられた俊彦が、なぜか遠くを眺めたままで返事を返しません。
何かあるのかと、前方を探しはじめた岡本が、先刻見つけた白い車をふたたび視線の先で発見します。
『おい、あれは、渓谷の途中で見かけたのと同じ車か?』と岡本が、背後へ呼びかけます。
『うん。そんな気もするが確信はない。なぜか、違うような気もするが、しかしやっぱり気になる車だ・・・・』
夕闇が漂ってくる中、俊彦が見つめる先にある白い車に、人の気配は見えません。
「やっぱり、渓流へ釣りにやって来たような雰囲気ではないようだな。
とはいえここのダム湖も、日光へ行く途中のちょっとした観光地の一つだ。
そのあたりの散策でも楽しんでいる可能性もある。
おっと、そんなことよりも、そろそろ下りの電車がやって来る時間だ。
自分から頼んでおいて遠回りをさせたうえに、急かしても申し訳がないが、
急いで駅へ行かないと、乗り遅れちまう。
なにしろ1時間に1本しか走らないという、きわめてのんびりとした鉄路だからな」
『そんな訳だから、駅まで急行をしてくれ清子』といいながら、俊彦を促し
後部座席へ岡本が慌てて乗り込みはじめます。
暗くなり始めた堰堤上の道を、ゆるやかに走り始めた清子の車が、80mほど先で、
先ほどまで俊彦がしきりに気にしていた停車中の白い車と、瞬間的にスレ違います。
湖面側に停めらた車の運転席に、若いと思われる男の横顔がチラリとだけ見えます。
「・・・・若そうな男だな。
やはり、観光ではなさそうな雰囲気がどこかにある。
なんとなく、ただ、運転席でぼんやりしていたように見えた。
トシじゃないが、たしかに、1日に2度も遭遇をすると、なぜか気になるものがある。
失恋でもしたのかな・・・・若い者は、なにかと傷つきやすいからな」
後部座席から振り返っている岡本が、そんな感想をポツリと口にします。
堰堤を走り抜けた清子の車は、湖畔を走り抜けている国道に進路を取り直すと、
駅に向かっての急坂路を一気に下りはじめます。
『たまたまだろうが、気になるものはやはり気になる・・・・やっぱり、何かあるのかな?』
真っ暗に変わり始めた巨大な黒い壁を横目に見ながら、駅へ下っていく坂道の途中で
俊彦もまたなぜか、因縁めいたものを感じる・・・などと、いつまでも
ブツブツとつぶやき続けています。
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140mの高さをほこる、ダムの堰堤にて
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ダムには、間違いなく急な坂道がいくつもつきまといます。
ダム沿いの道とは、ダムの堰堤の下の位置から堰堤の頂点まで登る道路のことをさします。
一定の傾斜で下っている山間地に、垂直に切り立つダムの壁を建設するわけですから、
必然的に、壁を超えるための部分の高度差は、他から比べはるかに傾斜がきつくなります。
草木ダムの堰堤があるのも、そうした場所の典型です。
ダムの持つ堰堤の高さは140メートル。長さは405メートル。
全国に3000基あまりが設置されているというダムのうちで、16番目という大きさと、
高さを誇っています。この堰堤が見下ろせる場所から少し下っていくと眼下に、
渡良瀬渓谷鐵道が所有する無人の駅、『神戸(ごうど)駅』が見えてきます。
広い構内を有する神戸駅は、大正元年9月に、足尾鉄道の終点駅として開業をしています。
同年の11月に、神土~沢入(そうり)間が延伸されるまでの、僅か、三ヶ月足らずの出来事です。
足尾鉄道は大正7年に、国鉄足尾線として昇格を果たします。
草木ダムによる線路の付け替え工事(昭和48年)などを経て、昭和62年に、
JR神土駅と、なぜか一度だけの駅名の変更がなされています。
のちの平成元年になってから、所有がJRからわたらせ渓谷鐵道に移管されたのをきっかけに、
同駅名を、地名と同表記である「神戸(どうど)」と改められた経緯などを持っています。
「この堰堤は、華厳の滝よりも高いんだぜ。
この高さから下を見下ろすとさすがのこの俺様でも、背筋に寒いものを覚える。
90メートル級ジャンプ台(現在のラージヒルジャンプ)は、
この高さから飛び出すというから、まったくもって命知らずといえる競技だな。
飛ぶというよりも、断崖を落ちていくような恐怖心がある。
しかし最近は、10代の大和撫子が、ワールドカップで優勝をするというんだから、
ずいぶんと、世の中も変わってきたもんだなぁ・・・」
送ってくれるのなら、せっかくだからダムの堰堤上を走ってくれと岡本が切望をします。
V字型の谷がどこまでも続くこのあたりは、渓谷の景勝地帯のひとつです。
とりわけ、地上200メートルの高所のど真ん中から見下ろすことのできるここからは、
息を呑むほどの渓谷の俯瞰(ふかん)と、川筋の美しさをいっぺんに堪能することができます。
清子が運転する車が、堰堤の中間地点でゆっくりと停車をします。
車から降り、両手をむんずと堤防に突いた岡本が、思わずの驚嘆の声をあげます。
「しかしいい場所だ、ここは。気に入ったぜ。
わ鉄(渡良瀬渓谷鉄道の愛称)で、神戸駅までやってくれば、
自然は心行くまでたっぷりと楽しめるし、清子のべっぴんな顔を見て、
囲炉裏端では、トシと2人で旨い料理と酒をたっぷりと楽しめるというもんだ。
よし。これからは週末ごとに遊びに来るから、駅までの送り迎えのほうを
よろしく、ひとつ頼む」
「あら。奥様と2人で、ドライブがてらこちらまで遊びにくればよろしいのに。
それとも、家庭内別居の冷え切った夫婦仲のはじまりでしょうか。もしかして?」
「失礼な。交わりこそめっきりと減ったものの、夫婦仲はきわめて良好だ。
適齢期の娘が未だに1人でいるもので、なにかといえば母と娘で買い物三昧という日々だ。
突然『結婚します』などと言われて、彼氏を連れてこられても
男親としては当惑するものがあるが、かといって、いつまで経っても
嫁に行く素振りを見せないというのも、歯がゆいものがある。
男親というものは、年頃の娘を持つと、何かと気苦労が多くなるもんだなぁ。
なぁ、トシ。そう思っているだろう、お前も?」
おい、と岡本から呼びかけられた俊彦が、なぜか遠くを眺めたままで返事を返しません。
何かあるのかと、前方を探しはじめた岡本が、先刻見つけた白い車をふたたび視線の先で発見します。
『おい、あれは、渓谷の途中で見かけたのと同じ車か?』と岡本が、背後へ呼びかけます。
『うん。そんな気もするが確信はない。なぜか、違うような気もするが、しかしやっぱり気になる車だ・・・・』
夕闇が漂ってくる中、俊彦が見つめる先にある白い車に、人の気配は見えません。
「やっぱり、渓流へ釣りにやって来たような雰囲気ではないようだな。
とはいえここのダム湖も、日光へ行く途中のちょっとした観光地の一つだ。
そのあたりの散策でも楽しんでいる可能性もある。
おっと、そんなことよりも、そろそろ下りの電車がやって来る時間だ。
自分から頼んでおいて遠回りをさせたうえに、急かしても申し訳がないが、
急いで駅へ行かないと、乗り遅れちまう。
なにしろ1時間に1本しか走らないという、きわめてのんびりとした鉄路だからな」
『そんな訳だから、駅まで急行をしてくれ清子』といいながら、俊彦を促し
後部座席へ岡本が慌てて乗り込みはじめます。
暗くなり始めた堰堤上の道を、ゆるやかに走り始めた清子の車が、80mほど先で、
先ほどまで俊彦がしきりに気にしていた停車中の白い車と、瞬間的にスレ違います。
湖面側に停めらた車の運転席に、若いと思われる男の横顔がチラリとだけ見えます。
「・・・・若そうな男だな。
やはり、観光ではなさそうな雰囲気がどこかにある。
なんとなく、ただ、運転席でぼんやりしていたように見えた。
トシじゃないが、たしかに、1日に2度も遭遇をすると、なぜか気になるものがある。
失恋でもしたのかな・・・・若い者は、なにかと傷つきやすいからな」
後部座席から振り返っている岡本が、そんな感想をポツリと口にします。
堰堤を走り抜けた清子の車は、湖畔を走り抜けている国道に進路を取り直すと、
駅に向かっての急坂路を一気に下りはじめます。
『たまたまだろうが、気になるものはやはり気になる・・・・やっぱり、何かあるのかな?』
真っ暗に変わり始めた巨大な黒い壁を横目に見ながら、駅へ下っていく坂道の途中で
俊彦もまたなぜか、因縁めいたものを感じる・・・などと、いつまでも
ブツブツとつぶやき続けています。
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