落合順平 作品集

現代小説の部屋。

東京電力集金人 (72)川原の露天風呂

2014-09-03 12:16:07 | 現代小説
東京電力集金人 (72)川原の露天風呂



 「桐生川で最も早いホタル発光の観測日は、5月12日だ。
 だが今年は、その記録を大幅に更新するだろう。
 さっき研究室から運んできた例の成虫を、川のほとりに放してきたばかりだ。
 運が良ければ、今夜あたり、ホタルが発光するかもしれん」


 ぐびりと日本酒を飲みこんだ杉原医師が、目を細め、嬉しそうにニヤリと俺に笑う。
「4月26日にホタルが発光したとなればこれは、、大幅な記録の更新になる。
 研究室で促成養殖したという但し書きがつくにせよ、これはまさに歴史的快挙にあたる。
俺はこれを、シンデレラの奇跡と呼ぶことにする」
どうだといわんばかりの得意顔で、杉原医師が今度は岡本組長の顔を覗き込む。



 「4月の終わりにホタルを見るなんて、自然への冒涜もはなはだしい。
 第一、研究室の電気を消しわすれただけの、偶然の産物だろう。
 看護婦連中にゴキブリと間違われ、踏みつぶされなかったことが幸いしただけだ。
 なにがシンデレラの奇跡だ。調子に乗るのもいい加減にしろ」

 
 「放射能の影響で、自然界では、奇形や有りえない現象が各地で数多く発生をしている。
 温暖化や、異常気象の影響もある。
 そうした点から考えれば、ホタルが一週間や二週間早めに夜空を飛んでも、
 別に、たいした問題ではないだろう?」



 「良識ある医者にあるまじき発言だな。だが確かに、そんな風な考え方もある。
 今夜あたり、ホタルが発光して飛ぶとは、これまたずいぶんと運がいい。
 女将。いつものように、ホタル見物の準備をしてくれ。
 特に若いおなごには、いつものように、ぬかりのない準備をよろしく頼む」


 「はい。承知をしました」と女将が、すかさず腰を上げる。
突然名指しされたるみは、意味が分からないまま、部屋の中でぼんやりと
やり取りの様子を見つめている。
「説明をいたします。
初めてのホタルを見るための、厳粛な決まり事が、此処には有ります。
特に若い女性の場合は、身を清め、新しい浴衣に着替えてホタル見物に臨んでいただきます。
お風呂の支度も整っていますので、女人はそちらへ移動していただきます。
男の方たちも、別室に浴衣の準備が整っておりますので、そちらで着替えてくださいまし」
では参りましょうと女将が先頭に立ち、るみとおふくろの2人を案内する。



 簗に沿う形で建てられている本館とは別に、裏にひっそりと別室が建っている
部屋が並ぶ廊下を奥まで進むと、川へ下るための濡れ縁が現れる。
雨風をしのぐ雨戸などの外壁がないため、雨にさらされる縁側のことを「濡れ縁」と呼ぶ。
座敷や通常の縁側よりも一段低い位置に作られたものは、別に「落ち縁」と呼ばれる。
雨に濡れるため、板と板の間を隙間状にして水切れを良く細工してある。


 下駄をつっかけた女将が、先に立ち、くるりと本館の背後へ回っていく。
川沿いの道をすすむと、柳の先に小じんまりとした和風の建物が見えてくる。
一般には解放されていないが、特に親しい客や、此処へ泊まりたいと希望が有った場合にだけ
提供されるという、きわめて特別な建物だ。
川に面して小さな露天風呂が有り、座敷には、季節に合わせた部屋着などが準備されている。
対岸からまったく見えず、本館から隔離されているこの建物には、なにやら
秘密めいた匂いが、濃厚に立ち込めている。
2人だけの時間をゆっくりと過ごしたいという夫婦や、特別な理由を持つカップルたちだけに
提供されるという主旨が、なにやら最初から漂っている。



 玄関を開けると、小洒落た日本間が目の前に現れる。
2間続きの座敷には、ふわりとした布団とともに、真新しい浴衣が2組綺麗に置いてある。
「まるで、昔の連れ込みみたいだわねぇ」と、すかさずおふくろが声を上げる。
「あら。こんな雰囲気の建物のことを連れ込みと呼ぶのですか?」とるみが、目を丸くする。



 「悪かったわねぇ、連れ込みみたいな建物で。
 これでも特別な時間をゆっくり過ごしてもらおうと思って、増築をしたものなのよ。
 それをすけべぇな客たちが、いつの間にか、ラブホテル代わりに使い始めただけだもの。
 いいでしょ、別に。宿泊業の許可も、ちゃんととってあることだし」


 それに、と女将が視線を、訳がわからず、ただ呆然と立ち尽くしているるみに向ける。
「みんなあんたのためなのよ。いい歳をした大人たちが必死になって、
若いあんたと太一のために、あれやこれやと段取りをしてるの。
くどくど説明するよりも、露天風呂の湯加減がちょうどいいころだから3人ではいりましょ」
と、女将がスルスルと自分の帯を解きはじめる。
「えっ、あんたまで露天風呂に入るの。聞いてないわよ、そんな意外過ぎる展開は!」
とおふくろもあわてて、自分のスカートに手をかける。



 「どうせ今夜は商売抜きの、臨時営業だもの。
 露天風呂でひと汗を流したら、若い二人なんかほったらかして、大人同士で呑み明かしましょ。
 こら、そこの若いの。今更、愚図愚図と躊躇しないの!。
 お風呂と言っても、ここは天然温泉じゃないのよ。
 太陽光で温めただけのお湯だから、家庭用の風呂と同じようなものです。
 さっさと入らないと、うちの露天風呂は、温度が下がってしまうんだから、急いでね」



 すっぽんぽんになった女将とおふくろが、まるで修学旅行の時のように、
きゃっと黄色い歓声をあげ、川原に面した露天風呂に向かって、まるで解き放された
ウサギのように、それっとばかりに駆け出していく。


(73)へつづく


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