落合順平 作品集

現代小説の部屋。

東京電力集金人 (75)漆を採る兄弟 

2014-09-07 09:49:01 | 現代小説
東京電力集金人 (75)漆を採る兄弟 



 
 このあたりには森で漆を取るのを生業とする、仲の良い兄弟が住んでいた。
山で漆の木を探し、傷をつけて出てくる汁を採取する。
だが森にある漆の木には限りがあり、取れる漆の量は年ごとに少なくなっていく。


 ある日、兄が来たことのない霧の谷間に出ると、見たことのない淵が目の前に現れた。
兄が採取用に使うナタを、不用意に落としてしまう。
それを取りに淵に潜ると上漆(じょううるし)が大量に集まった、溜まりを見つける。


 その日を境に兄は、森の中を歩くのをやめてしまう。
人が変わったように昼間から酒を飲み出し、ぶらぶらとした暮らしを始めてしまう。
弟が上漆の在り処を聞こうとするが、兄は決して教えようとしない。
ある日、弟はそっと兄の後をつけ、ついに、淵の上漆の在り処をつきとめてしまう。



 「自然が勝手に集めたもので、誰が採ろうと文句はないはずだ」と弟も淵の上漆を
採るようになり、やはり兄と同じく森に入ることを忘れ、ぶらぶらと暮らしはじめる。


 兄は、弟に漆の在り処を知られたことが悔しくてたまらない。
「あれは自分が見つけた漆だ。例え弟でもやりたくない。ただ採るなとは言えない・・・」
考えに考えたすえ、兄は、木から龍の像を、それは必死になって彫り出した。
それを漆のある淵の底へ沈めて、弟が近づけないように細工しょうとした。



 その夜、弟が淵に漆を採りに潜ると、沈めてあった龍の像におおいに驚く。
「兄さんに早く知らせないと・・・」と、命からがら、淵から逃げ出す。
それを遠くからみていた兄は「これで独り占めできる」と笑いながら淵へ潜っていく。
ところが、木彫りの龍は何倍もの大きさの本物の龍になっていて、兄に襲い掛かってきた。
兄も命からがら必死の思いで、淵の底から逃げ帰った。
淵に沈む漆はその後、誰も採る事ができなかったという言い伝えが、この淵に残っている。


 上流にダムの堰堤が出来たため、淵の水量はかつての数分の一と言われている。
それでも蒼蒼とよどむ水には、龍神が棲んでも可笑しくないだけのたたずまいが、いまも有る。
ホタルの里は、龍神の淵から少し離れた場所の湿地帯だ。
浅い水深と、うっそうと岩を覆う水苔と、上流から流れてきた程よく濡れた土の塊が、
ホタルにとって、好都合な環境を生み出す。



 龍神の伝説を聞き終えたるみが、月明かりが届かない漆黒の闇に眼をこらす。
月が消えたわけではないが、うっそうと茂るミズナラの巨木が、月の光をさえぎってしまう。
街灯はおろか、周囲に、人工的に作られた明かりはひとつもない。
ここだけがまったく別の、自然のままといえる暗闇の中だ。
何も見えない空間の中で、中腰の態勢になったるみがホタルを探して必死で目をこらす。


 「落ちるぞ、お前」背後から声をかけると、それほど私が心配なら支えてよと、
るみが細い指を、暗闇の中から俺に向かって差し出してくる。
このあたりの川むらに杉原医師は、毎年、成虫のホタルを放すという。
運が良ければ発光すると言っていたが、4月か半ばの夜の気温は15~6℃ときわめて低い。



 ホタルが活動するのは、気温が高く、月明かりのない曇った日に限定されている。
風のない夜が、もっとも適していると言われている。
日没後、2時間ほどたつと、ホタルが活動しはじめる。
水温は18℃。気温が20℃を超えると、ホタルは活発に飛び始める。


 だが今夜の気温はせいぜい15~6℃と、ホタルが飛ぶには寒すぎる。
真っ暗闇の水辺で観察を続えること、10数分。
中腰のるみを支えるのに俺の腕が疲れた頃、ついに奇跡の瞬間がやってきた。



 水辺に茂る、細い草の葉の陰に、小さな光が点った。
「ホタル・・・」大きな声をあげそうになったるみの口元を、慌てて指でふさぐ。
ホタルは真っ暗闇の空間と、静寂をこよなく愛する、きわめて繊細な昆虫だ。
人の発する大きな声は、ホタルの警戒心を強く呼び起こす。
息をひそめて見つめているるみの目の前で、ホタルが低く、水面上を飛び始めた。


 寒い日のホタルは、水面の近くをゆっくりと低く飛ぶ。
上空に群れて、鮮やかな光の航跡を描きあげるのは、もっと夜の気温が高くなってからだ。



 「光りながら飛翔するのは、オスだけだ。
 メスは光るが、葉の上に居てほとんど空は飛ばない。
 オスは点滅を繰り返しながら、葉の上に居るメスに向かって光で求愛の行動をする。
 オスが一回に飛翔できるのは、20分前後。
 この限られた短い時間の間に、メスと出会うというのは、至難の業だ。
 だから8時前後に一度光ったあと、深夜1時前後にもう一度
 メスを探してオスは、必死に空を飛ぶ」



 「へぇぇ・・・ホタルの発光って、生殖のための求愛行動なんだ。初めて知ったわ。
 今年初めて飛んだホタル君に、うまく相愛の相手が見つかるといいわねぇ。
 あら・・・・」


 るみが、水辺の草の上に小さく点る、もうひとつの光を見つけ出した。
「どうやら、奇跡が起こりそうだぜ」るみの背中へ汗ばんだ手を置くと、「そうね」と
嬉しそうなるみの瞳が下から、俺の顔を、優しく見上げてきた。


(76)へつづく


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