落合順平 作品集

現代小説の部屋。

東京電力集金人 (73)竜の淵 

2014-09-04 11:02:43 | 現代小説
東京電力集金人 (73)竜の淵 



 
 「お支度が整いました」と女将が、宴たけなわの座敷へ戻ってきた。
見れば女将も、いつのまにか、真新しい浴衣に袖を通している。


 こちらの座敷の男2人はとっくの昔に、ほろ酔いの域を超えている。
最初のうちは「楽しみだのう、若い娘の変身した様子が」などと興味を示していたが、
待ち時間が30分を過ぎた頃から、ひたすら飲むことだけに没頭し始めた。
涼しさよりも、肌寒ささえ感じさせる今夜の陽気が、2人の飲みっぷりにさらに拍車をかけた。
それでも「お待ちどうさま」とるみが現れた瞬間には、さすがに2人の盃が止まった。



 初めて見る、るみの浴衣姿には、なんともいえぬ若さと色香が漂っている。
黒地に咲く大輪の花のあでやかさが、まず目に飛び込んで来た。
1300年の歴史を持つ桐生織りの繊細な帯も、浴衣に負けず劣らず美しい。
だが麗しいのは、どうやら、浴衣のせいばかりではないようだ。
髪をすっかり上げたるみのうなじが、まるで白い宝石のように照明の下で輝いている。


 「驚いたねぇ。ほんとにこの子がるみちゃんかい。
 へぇぇ。馬子にも衣装というが、ものの見事なまでに変身を遂げるもんだねぇ。
 世間を手玉に取る老練な女狐(めぎつね)と、愛想の悪いタヌキの2匹の手にかかると、
 こうも女は、生まれ変わるものなのか・・・実に、別嬪だねぇ、。」


 「あら、言ってくれますねぇ殿方たちは。
 それでは伺いますが、いったいどちらが女狐で、どちらが愛想の悪いタヌキなのですか。
 ことと次第によっては勘弁いたしませんよ。まったくぅ。口が悪いんだから」



 浴衣に着替えてきたおふくろが男2人の前で、はらりと袖をはだけてすごみを見せる。
その瞬間ちらりとのぞいたおふくろの白い腕から、岡本組長が、なぜか慌てて目を背ける。
「た、民ちゃん、袖をたくし上げるのだけは反則だ。頼むから俺を挑発しないでくれ。
そんな真っ白い腕を見せられたら、気分が、あっという間にまた学生時代に逆戻りしちまう。
まったく悪女のままだな、お前さんは。俺の弱みを実に良く知っている・・・」
分かったよ、俺が悪かったと岡本組長が、おふくろに向かって日本酒の盃を差し出す。


 「機嫌を直して、呑み直しといこう。
 民ちゃんどころか女将まで、風呂で磨いてきたうえに、目にも鮮やかな浴衣姿だ。
 これ以上の酒の肴はあるもんか。
 ホタルなんか、もうどうでもいいや。こうなったらとことん飲み明かそうぜ」


 「あいよ、望むところさ。そういうわけだ、太一。
 あたしたちは此処で呑み直しをするから、あんたはるみちゃんを連れて、
 川原へホタルを見にいっといで。場所は知っているよねぇ。
 ダムまで1キロくらいの、竜の淵のそばだからね」と、おふくろが俺の顔を見上げる。



 竜の淵と言うのは、ここから15分ほど上流へ歩いたところにある小さな淵のことだ。
だが、竜が住めるほどの広さは、最初から此処には無い。
それでも不思議なことに、はるか昔から、此処には竜の言い伝えが残っている。
「竜の淵って?」と、るみが俺の近くへ顔を寄ってきた。
るみの動きにつられてほんのりとした香りが、俺の顔の真近くへ漂ってきた。



 「おいおい、お前ら。俺たちの目の前でラブラブするのは、ちょっと待て。
 今の時期なら、上流へ向かう道は無人のはずだ。
 ホタルの本格的な季節になれば、あちこちに人の目が有るが、今頃は閑散としている。
 ラブラブするなら、人目のない遊歩道の真ん中でやれ。
 ただし、大胆に本番なんぞに及ぶんじゃないぞ。龍神が起こって暴れはじめるからな。
 せいぜいキスくらいで我慢するんだぞ、分かったな、お前たち。
 じゃ、気をつけて、とっとといけ」


 早く邪魔者は立ち去れとばかりに、岡本組長が乱暴に両方の手のひらを振る。
「若い2人に、そこまでそんな風に邪険に言わなくても」と、女将が組長を目でたしなめる。
「構うもんか。俺は、幸せそうな若い2人を見ると、こころの底から虫唾(むしず)がはしる。
いいから、とっととホタル見学に行って来い。
たぶん今頃は、杉原が丹精込めて育てた成虫が、淡い光を発している頃だ。
桐生川によみがえった俺たちのホタルが、4月26日に光るという、快挙を成し遂げる日だぜ。
ちゃんと確認して来いよ。お前さんたちは、快挙の瞬間の生き証人になるんだからな」



 「あら。みなさんはいかないのですか?。快挙のホタルを見に?」

 るみの問いかけに、岡本組長が首を横に振る。



 「馬鹿野郎。若者の倖せな瞬間を、いい大人たちは邪魔をしないものだ。
 いいから、遠慮しないで2人で行け。
 誰にも邪魔されず、杉原が育てた今年始めてのホタルの姿を満喫して来い。
 俺たちに遠慮することはない。
 もう少し飲んだら、此処に居る乳母桜どもを連れて、街に出かけてとことん飲む予定だからな。
 ということは、ここは間もなく無人の館になる。
 明日の朝になったら、2日酔い女将に、自宅まで送ってもらえばいいさ。
 じゃあな、気を付けて行くんだぜ。夜道の中を龍神の渕まで」



(74)へつづく


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