落合順平 作品集

現代小説の部屋。

東京電力集金人 (74)竜の住む淵

2014-09-05 13:04:02 | 現代小説
東京電力集金人 (74)竜の住む淵



 大人たちに見送られ、俺たちは簗の館を後にする。
浴衣姿のるみからは、相変わらず、いい匂いが漂い続けている。
洗い立ての髪の匂いでもないし、ときどき使っている香水の匂いとも違う香りだ。
「なんの香りなの、それ?」と耳元に問いかけても、るみは上げた髪を軽く揺らし、
ふふふと笑って、いっこうに香りの正体を明かそうとしない。


 簗から龍神の淵まで、500メートルあまりの遊歩道が整備されている。
遊歩道を進むと、昼間なら巨大なダムの堰堤が、目の前に壁のようにそそりたってくる。
だが月の明るさしかないいまの時間帯では、山間の陰にどんよりとよどんだ黒い塊が、
横たわっている雰囲気だけを、遠くにかすかに感じるだけだ。


 ホタルの里へつづく道は、来るたびに整備がすすんでいる。
カラコロと鳴るるみの下駄でも、楽に、普通に歩くことが出来る。
組長が断言していた通り、連休前の遊歩道には、まったくといっていいほど人影がない。
数歩離れていた俺たちの距離が上流へ歩むにつれて、真近になってきた。
椎の巨木を過ぎた木陰のあたりで、るみの浴衣の肩が、ついに俺の左の肩へ触れてきた。


 何気なく動かしている団扇のせいで、るみからまたあの甘い匂いが漂ってきた。
ふわりとるみが袖を降った時、ひときわ大きく、甘い香りが俺の鼻先をかすめていった。
「袖に秘めた、匂い香かな?」浴衣へ顏を寄せた瞬間、るみの白い指が、俺の頬を本気で叩いた。
「馬鹿。なに発情してんのさ!このドスケベ」るみが慌てて、浴衣の襟をかき寄せる。



 「痛いなぁ。隠すなよ、お前のほうから俺を誘っているくせに!」



 断っておくが、いきなり自制心を失ったわけじゃない。
甘い香りに誘われてアクセルを思わず踏んでしまった、たまたまの運転ミスのようなものだ。
鼻をくすぐり続ける何とも言えない微香のために、俺のブレーキが故障してしまっただけのことだ。
だが衝動と言うアクセルを、すでに全開で踏んでしまった俺がそこに居るのも、また事実だ。
肩に回した俺の右手が、すぐにるみの背中へ回り、そのまま帯を越えて尻の位置まで落ちていく。
「馬鹿。何を考えているのさ。やめなさいよ、ド助べ!」
反撃のるみの平手打ちが、ふたたび俺の右頬に飛んできた。
鈍い平手打ちの衝撃に、ようやく自分自身を取り戻した俺が、そこに居た・・・・



「洗い立ての湯上りの髪。素肌に着る、降ろしたての真あたらしい浴衣。
 袖に忍ばせたほのかに甘い、誘惑のコロンの香り。
 うふっ。物の見事に当てはまってしまいましたねぇ、太一にも。
 男心をくすぐって、その気にさせてしまう、必殺の3つのアイテムだそうです。
 焦んないでよ、太一。
 ホタル見物が終ったら、別室の隠れ屋で一晩ゆっくり過ごしてもいいそうです」


 「一晩ゆっくり過ごす?。どういう意味だ、それはいったい・・・・」


 「太一が事務所へ戻ったころ、先輩からお母さんへ電話が入りました。
 余計な口出しをしたが、俺はやっぱり、るみを東北へ帰したほうがいいという提案です。
 何のことだか思い当たるでしょう、あなたには。
 電話を切った後で、お母さんから問い詰められました。
 生まれ育った町へ帰りたいという意志が、あなたには有るのかって」


 「それで・・・君は、どんな風におふくろに答えたの?」



 「できれば、帰りたいと答えました。
 そしたらお母さん。いきなりあちこちに電話をかけはじめたの。
 杉原医師にかけたあと、岡本組長へ電話を入れて、最後にここの簗の女将さんに電話をしました。
 わたしが呆然と見ている前で、わたしたちのための壮行会の準備が、
 あっという間に、出来あがってしまいました」


 「なんだ。俺たちを送り出すための宴を、大人たちが寄って集って準備をしたというわけか。
 道理で展開がうまく運びすぎていると思った」



 「太一は私が、浪江の町へ帰ることに賛成してくれるの?」


 「もう先輩から、クラウンのカギは預かっちまったから、今更やめるわけにはいかないだろう。
 なんだ、そういう意味じゃないのか。君が聞きたいことは」


 「私が故郷へ戻ったまま、浪江の町から離れたくないと言ったら、太一、
 あんたは、いったいどうするつもりなの?」


 「先のことなんか、だれにもわからない。
 君が望むのなら、俺も東北に住むことを考えてもいいさ。
 その先にいったい何が有るのかわからないが、俺は君が生まれた育ったという浪江の町を、
 じかにこの目で、確かめてみたいと、いまは考えている」


 「そうね。その先で考えればいいことだもんね、私たちのこれから先のことは」



 ねぇ、それよりも、気になることが有るのとるみが、俺の背中へやわらかく指を置く。
龍神の淵まで、あと100メートルあまり。
急に深くなってきた木立の気配に、るみが顏を近くに寄せてくる。
道幅が狭くなり、少しだけ登りの勾配が強くなるこのあたりから、森の静寂は深くなる。
漆を採って生計を立てていたという仲の良い兄弟にふさわしい環境が、このあたりから
すこしづつだが、濃厚な闇とともに漂ってくる。


(75)へつづく


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