「ちょぼ」は小さい意。
江戸時代、かわいらしい少女につけた名。または、かわいいおぼこ娘。
江戸の後期、京都・大坂の揚屋・茶屋などで、遊女・芸者の供や、
呼び迎えなどをした15、6歳までの少女をさす。
おちょぼ 第133話 引退しておくれやす
「佳つ乃(かつの)姐さん、お願いどすから引退をしておくれやす。
ウチ。姐さんの名前に泥なんぞ塗りません。
必死に頑張りぬいてみせます。
きっと姐さん以上の芸妓に、必ず育って見せますぅ。
サラの、たった一度のお願いどす。
姐さんの佳つ乃(かつの)の名前を、ウチに譲ってください」
「サラ。血迷ったか、
舞妓としてデビューもしておらんくせに、祇園のトップの名前を譲ってくれと
無理難題を言うにも、限度がある。
いくらお前の頼みとはいえ、とうてい叶う願い事ではないわ!」
サラが、これ以上は下げようがないほど畳に、頭をこすりつける。
駒子は言葉を失ったまま、ただ茫然と口を開けている。
似顔絵師は、突然巻き起こった途方もない話の展開に、頭の中を整理するため、
冷静を取り戻すことに必死だ。
そんな中。理事長が、顔を真っ赤にして立ち上がる。
「何を言っておるのか、わかっておるのかサラ。
佳つ乃(かつの)といえば、祇園甲部で人気のいちにを争う芸妓だ。
トップに立つ芸妓を失うという事は、その日から贔屓の客が激減することを意味する。
一部どころか、祇園全体がピンチに陥ることは、火を見るよりも明らかだ。
舞妓の修行中のお前が、佳つ乃(かつの)の損失をカバーできるとでも思っておるのか。
思い上がりもはなはだしい。まったくもって話にならん。
佳つ乃(かつの)の意見を聞かずとも、俺がこの場で却下する。
せっかくの祝いの膳だというのに、お前のたわごとで雰囲気がぶち壊しになった。
正月早々、めでたい席を、混乱させた責任は重いぞ。
わかっているんだろうな。駆け出しとはいえ、そのくらいのことは」
しかしサラは反論をしょうとしない。
「お願いします」を繰り返すだけで、頭を畳にこすりつけたままピクリとも動かない。
「よろしおす。よろこんで佳つ乃(かつの)の名前を譲ります」
佳つ乃(かつの)の涼しい目が、理事長の真っ赤な顔を見上げる。
「ゆ、譲る・・・・お前まで、何てことを言い出すんだ!
お前もサラも、いったいなにを血迷っておる。
譲るも何も、お前の名前が消えてしまえば、祇園甲部の勢いに急ブレーキがかかる・・・
そうなることは、当のお前が一番よく理解しているはずだ。
今のお前は、高嶺に咲く絶頂期の華だ。
女としても美しさのてっぺんに居る。
いま引退するなんて、とんでもない話だ。
置屋の女将が許しても、祇園を応援するおおきに財団の理事長として
おまえさんの引退だけは、石にかじりついても、絶対に阻止をしてみせる!」
「理事長はん。祇園をささえておるのは、ウチだけやおへん。
100人ちかい芸妓さんと、10人を超える舞妓がおます。
ウチひとりが欠けたところで、それほど事態が急変するとは思えまへん。
ただし。名前を譲るからには、ウチにもひとつだけ、条件がおます」
「ほ、本気か、佳つ乃(かつの)。
お前は祇園を代表する芸妓として、絶頂期のど真ん中におるんだぞ。
いま引退する必要なんか、ないだろう。
結婚することは出来ないが、内縁関係なら別に問題は無い。
事情を隠したまま、似顔絵師と仮りの所帯くらいなら、持つことが出来る。
あと5年とは言わん、せめて3年は頑張ってくれ。
絶頂期のいま。評判の高いお前さんを引退させるのは、あまりにも惜しすぎる」
「理事長はん。
サラを責めんといてください、サラに罪はありません。
名前を譲ると決めたのは、ウチ自身が、たったいま決めたことどす」
「本気で引退するのか、お前は。絶頂期のこの時期に・・・
分かった。
で、条件と言うのはなんだ、名前を譲るための条件と言うのは・・・」
「サラ。あんた死ぬ気で、この先の3か月間、舞いの稽古に励みなさい。
お師匠さんの許可が出て、置屋のお母さんが舞妓としての店出しを認めてくれたら、
あんたの望み通り、ウチは名前を譲ります。
ただし。正式に譲るのは、4月の『都をどり』が終ってからどす。
舞妓の佳つ乃(かつの)と、芸妓の佳つ乃(かつの)が、
都をどりの舞台をつとめます。
無事につとめおえた千秋楽の日、あたらしい佳つ乃(かつの)を誕生させます。
サラ。これがあんたに名前を譲るための、ウチからの条件や。
舞ってくれるんやろな。ウチの名前を譲るかどうかをきめるための、都をどりを。
死ぬ気で、舞台を頑張りぬくんやで。
それがでけたら、ウチは喜んであんたに、佳つ乃(かつの)の名前を譲ります」
佳つ乃(かつの)の涼しい瞳が、畳に張り付いたままブルブルと振るえている
サラの背中を静かに見つめる。
第134話につづく
落合順平の、過去の作品集は、こちら