つわものたちの夢の跡・Ⅱ
(3)企業の学校へ行く

ふたたび手を伸ばし、すずが勇作の手を握ったのは、片足が水路に落ちた後だった。
「どうせ助けるのなら、いっぺん目で助けてくれればええものを・・・」
勇作が、濡れた靴下と運動靴を乱暴に脱ぎ捨てる。
「まともに落ちたら、全身がずぶ濡れやざ(です)、。
片足を濡らしただけで助かったんだ。うらにもっと感謝せや~」
びしょ濡れの靴と靴下を拾い上げたすずが、自転車のかごへ無造作に放り込む。
「持ってえんでしょ、拭くものなんか」と制服のポケットから、
綺麗に畳んだ木綿のハンカチを取り出す。
「初恋ちゅうと、普通は、もうちょびっとロマンチックなもんやろ。
10月30日といえば、藤村の初恋の日で有名や。
初恋の詩を発表したのが、30日や。
もうすぐその30日がやって来るというのに、うちらのあいだは一向に
ロマンチックにならへんなぁ」
「島崎藤村の初恋?。なんだ、それ・・・」
「まだあげ初(そ)めし前髪の 林檎(りんご)のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛(はなぐし)の 花ある君と思ひけり。
初恋が書かれた明治時代ではの、少女が12、3歳になると肉体的な成熟を迎える。
大人になった印に、それまでの振り分け髪(今で言うオカッパ)から、
額を見せる髪型に変るの。
もうねんねではなく、成人の女であるという世間へのアピールや」
「へぇぇ・・・12、3歳ちゅうと、ウラたちと同じ年頃や。
という事はお前も前髪をあげて、もうすっかり、大人に変身したという事か?」
「阿保っ。明治時代の話や、藤村は。
他にもあるで。恋人たちのロマンチックな記念日は。
2月14日は、女性が男性に告白をするバレンタインデーやろ。
3月14日は、男性がお返しをする、ホワイトデーや。
まだまだ有るで。8月9日は、語呂合わせで、ハグの日。
5月23日ちゅーのは、キスの日や 」
「キスの日?・・・なんやそれ」
「1946年の5月23日。
初めて日本映画に、本格的なキスシーンが登場した日や。
占領軍の命令でハリウッド映画のように、日本もちゃんとしたキスシーンを
映画に取り入れる様にという指導があったんよ。
はたちの青春という映画が封切られた、画期的な日や」
「お前。詰まらん知識ばかり、よう詰め込んでおるなぁ」
「あんたと違って、うらは本を読むもんやで。
あんたも、もうちょびっと勉強せんと、ええ高校へ進学でけんわよ」
「高校へは行かん。
ウラは東京へ行って、企業の技術学校へ入る 」
「えっ・・・東京へ行くの、あんた。
初めて聞いたわ。なんで本日この時まで、あたしに黙っておったんよ」
「日野自動車と言う、トラックをこさえているのぉ、東京の自動車メーカーじゃ。
中卒者を対象に、日野自動車学校と言うのを運営しておる。
そこへ行けば学費は一切かからん。
そのうえ、3年間で高校卒業の資格も取れるちゅうでの。
もう決めたことやざ。 卒業したら、ウラは迷わず東京へ行く」
「初めて聞いたわ。ほんな話・・・・」
「ウラも口にするのは初めてやざ。けどもう、決心をしたことや。
誰が止めても、ウラは、中学を卒業したら東京へ行く。
歌にもあるやろうの。
※♪~テレビも無ェ、ラジオも無ェ、自動車もそれほど走ってねぇ。
ピアノも無ェ、バーも無ぇ、巡査毎日 ぐーるぐるちゅうでの。
ウラらほんな村いやだ、ウラらほんな村いやだ、
東京へ行くだぁ~ってな~♪ 」
(※吉幾三・「俺さ東京へいぐだ」 昭和半ばのヒット曲)
(4)へつづく
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