@成りたくて成った将軍ではない5代将軍綱吉、綱吉の政策の一つである庶民の為の「生類憐れみの令」は、その時代の庶民の習慣(犬食い)と背景(捨子、捨老親)から「生きるものへの憐れみ」がこの令の発信となった、とある。一方を立てればもう一方が立たず、誹謗中傷的な庶民への「憐れみ」の「逆説」が発信されたことも史実なのだ。現代、政治家の政策はどちらかというと政治家への特典が多く、国民の声を反映した政策が消え失せた、と感じる。
『最悪の将軍』朝井まかて
「概要」徳川綱吉。「犬公方」とも呼ばれた男の知られざる生涯。
赤穂浪士討ち入り、富士山噴火……難局を乗り越えた五代将軍の苦悩と覚悟。
朝井まかての傑作歴史小説 生類憐みの令によって「犬公方」の悪名が今に語り継がれる五代将軍・徳川綱吉。その真の人間像、将軍夫妻の覚悟と煩悶に迫る。民を「政の本」とし、泰平の世を実現せんと改革を断行。抵抗勢力を一掃、生きとし生けるものの命を尊重せよと天下に号令するも、諸藩の紛争に赤穂浪士の討ち入り、大地震と困難が押し寄せ、そして富士山が噴火──。
ー徳川5代将軍、元館林宰相綱吉の人生(4代将軍の弟)
綱吉の結婚は綱吉19歳、京都から輿入れした正室信子は14歳
正室は鷹司左大臣の娘信子、母は桂昌院、妾伝
子供は伝との間にできた2子、徳松(5歳で没)・鶴(27歳で没)
小姓(家老)二人、柳沢保明(後に吉保となる)、家老末端で新参の堀田正俊
「生類憐れみの令」背景は農民の家族では生き残りの為子・老親を捨てていた
犬を喰う習慣が残り、憐れみから捨子、捨親を禁じた(綱吉を「犬公方」と呼んだ)
鷹狩りに犬10万匹年間9万8千両を費やしていたを停止、禁止
ー兄4代将軍の遺言「強気将軍になりて、天下を束ねよ。太平の世を」
市中の庶民・百姓等の暮らし等を率先し調査、前例の囚われない政治を決める
民生と財政(年貢・体制)への見直し、大名等への改易、流罪、免職など決行
喧嘩両成敗:高田藩への改易、家老の切腹、越前藩への閉門処置家老等への流罪
代官への厳しい処置(代官役の世襲制の見直し)商人への目配り
古い大型の軍艦の廃止(安宅丸)
ー綱吉将軍時代の出来事
家老堀田正俊への刃傷事件(稲葉の普請恨み)
赤穂浪士の仇討ち(浅野内匠頭の刃傷事件)
江戸市中での大火事(小石川水戸藩からの出火で両国橋での千七百人の死者)
大火・洪水など浅間山・富士山の大噴火・地震・余震が継続、利根川氾濫
徳川の菩提寺増上寺の延焼で綱吉の姉と娘の位牌が焼失
赤痢と麻疹の江戸流行(綱吉が麻疹により病没)
ー綱吉の変革の意志
「命の重さ軽さだけでなく何を尊ぶかと言う考えも、命を受け継ぐ仕組みも異なる。慈愛の心が「文」であり、その力によって「武」を制し、真の泰平を導く」
「我に邪なし」と死ぬまでこの言葉を告げた
ー綱吉の気になる言葉
「言葉こそ美しゅうなうてはならぬ。人は言葉で物事を整え、思量する。言葉が心を作るのだ。常に言葉が糸となって人と人を結び、関わりを織り成す」
ー綱吉の家老堀田正俊・柳笹吉保の言葉
「主君の過ちを知りつつこれを正さぬこそ不忠なり、阿諛追従なり。いざとなれば一命をかけて献言するは、断固として忠にござりまする」
「強く導かなければ泰平は保てず、なれど人心はしばしばそれについてこられませぬ。さりながら、世人の心におもねれば迎合となり、世は乱れましょう」