友岡さんが次の本を紹介していました。
『居場所を探して-累犯障害者たち』(長崎新聞社、2012.11)
出所しても居場所がなく犯罪を繰り返す累犯障害者たち。彼らを福祉の手で更生させようと活動する社会福祉事業施設の協力で、現状と解決の道筋を探った。日本新聞協会賞を受賞した長崎新聞の長期連載をまとめた一冊。
さっそく図書館で借りて読んでみました。
一部、引用します。
■第1章 居場所を探して―累犯障害者たち
■第1部「福祉との出合い」
□第2部「司法と福祉のはざまで」
□第3部「あるろうあ者の裁判」
□第4部「塀の向こう側」
□第5部「見放された人」
□第6部「更生への道」
□第7部「課題」
□第2章 変わる
□おわりに
第1部「福祉との出合い」
=2011年7月2日~8月2日掲載=
(つづきです)
2)記憶
いじめと空腹の日々
つらい記憶が、高村正吉(60)=仮名=にはある。
佐賀県の寒村で生まれ育った。8畳1間のあばら家に両親と弟、妹の家族5人で暮らした。川から水をくみ、おけ風呂を沸かすのが日課。破れた風呂敷に、教科書を包んで学校に通った。
小学校時代は特殊学級、今で言う特別支援学級に在籍。父も、母も読み書きはできなかったし、勉強ができなくても、叱られた記憶はない。教師からは「自分の名前ぐらいは書けんといかんぞ」と諭された。
よくいじめられた。父親が在日朝鮮人だったことで「チョーセン」「バカ」とののしられ、石をぶつけられた。頭から血を流して帰ると、母親は黙ってヨモギで止血をしてくれた。母の手は震えていた。いじめられるのも、母が悲しむ姿を見るのも、同じぐらいみじめだった。
小学校を卒業後、佐賀県にある全寮制の知的障害児施設に入所。当時、指導員として高村を受け持った林田悦男(76)が振り返る。
「あのころはまだ『療育手帳』の制度もなかった。社会に出た後、行政とのつながりが途切れ、福祉から置き去りにされた子どももいたのかもしれません」
高村がそうだった。彼に療育手帳が交付され、再び福祉につながるのは何十年も後のことである。
15歳で施設を出て、工事現場や工場で働き始めてからも、さげすまれた。「何でこんなこともできないんだ」と小突かれ、真冬の池に落とされたこともある。長くて半年、短くて1週間。逃げるように職を変えた。
初めて盗みをしたのはそんなころ。福岡県の家具店で住み込みで働き始めてすぐ、店の金を何千円かくすねた。1ヵ月でクビになった。迎えにきた父親を見ると、泣きたい気持ちがこみ上げて「お菓子が食べたかった」と言うのがやっとだった。
それから、2回少年院に入り、成人してからは11回服役。合わせて25年もの歳月を塀の中で過ごした。
「飯が食いたい」「たばこが吸いたい」「パチンコがしたい」。盗む理由はその時々で違ったが、罪悪感はさほどなかった。生きるためにはそうするしかないと考えていた。
厚生労働省の研究班がまとめた累犯障害者に関するこんなデータがある。全国の刑務所で服役している知的障害者の7割が再犯者。3人に1人が3ヵ月以内に再び罪を犯し、刑務所に逆戻りしていた。動機で最も多かったのは「生活苦」。約半数が「帰る場所がない」と答えた。
高村もまた、貧困と孤立から抜け出せずにいた。
(つづく)
【解説】
知的・精神障害があるのに、福祉の支援を受けられず、結果的に犯罪を繰り返す人たち……
福祉の網からこぼれ落ちたこうした「障害者」たちの多くは、社会で孤立し、生活に困窮した挙げ句、罪を重ねている。
福祉の網からこぼれ落ちたこうした「障害者」を支えるのは、法律でしょうか。
制度や組織でしょうか。
ボランティア活動でしょうか。
宗教でしょうか。
友岡さんは、どういうアプローチができると考えていたのでしょう。
獅子風蓮