獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

東村山市議転落死事件~創価学会側の主張(2)

2023-04-15 01:16:42 | 東村山女性市議転落死事件

JTCの井原武人氏は、山本芳実あるいは佐倉敏明の名前で多数の文章を発表しています。


その中のいくつかは、創価学会、元本部職員の北林芳典氏のホームページ(地湧の電子書庫)のリンクで、読むことができます。

このうちのひとつに、「東村山市議転落事件」のことを言及していましたので、引用したいと思います。

佐倉敏明「創価学会報道に見る 週刊誌のウソと捏造」(エバラオフィス、1996.03)

□はじめに
■第一章〈ドキュメント〉東村山市議転落死の真相
□第二章 オウムと学会を一緒にしたこじつけ報道
□第三章 証人喚問を「魔女狩り」に使う雑誌
□第四章 自民党の広告ページと化した選挙報道
□第五章 すべては宗教法人法を通すために
□第六章〈特別講座〉週刊誌のウソの見抜き方
□あとがき


(つづきです)

発端となった万引き事件

 警察では、この転落死に関しては当初から「事件性は薄い」と発表していたのである。それにはいくつかの理由がある。少々、長くなるが、それを見ていこう。
 一九九五年六月一九日午後三時一五分。東村山駅前の洋品店「スティル」で、朝木市議が万引きをしたという事件があった。そもそもの発端は、この事件だったのだ。
 洋品店「スティル」の女性店主から訴えられた同市議は、創価学会の人間が自分のそっくりさんを使って行った犯行で、これは創価学会の陰謀だと、犯行を否定した。
 ところが、「スティル」の女性店主を筆者が取材したところ、彼女は、
 「うちは創価学会とは何の関係もありません。朝木さんが万引きをしたから訴えたまでのことです」
 と、怒りをあらわにして反論する。しかも、女性店主の説明によると、朝木市議の万引きはそのときが最初ではないそうだ。
 九四年秋頃、店頭に置いてあったセール品のワゴンの中からセーターを盗んだことがあったという。
 最初、朝木市議がワゴンの中をかき回していたので、「あら、朝木さん。セーターでも買ってくれるのかしら?」と思っていたら、その日は物色しただけで帰り、翌日、ふたたび現われた。ワゴンのなかから商品を選んでいるのかなと思ったら、パッとセーターをつかんで、止めてあった自転車の前カゴにそれを入れ、その上にバッグをのせてそのまま立ち去った。
 女性店主は、あまりの出来事に盗まれたということすら実感できないほどであったという。もちろん、今回の万引き事件で、このときのことも警察には話してあるそうだ。
 「スティル」には外からではわからないが、表の庇のところに防犯ミラーが取り付けられている。そのため、店主はレジの前にいながらにして店頭に並べたセール品とお客の様子が見えるようになっている。
 今回の犯行のあった時刻も、駅のほうから朝木市議が来たときに、“セーターの件”もあったので、女性店主は店にいた二人のお客にはかまわず、防犯ミラーを注意深く凝視していた。すると、朝木市議は、店頭のワゴンを物色したあと、ハンガーにかけてあったキュロットとTシャツのセットからTシャツだけをはずして折りたたみ、脇の下にはさんでスタスタと歩き出した。あまりの大胆さに、女性店主は体が震え恐怖さえ覚えたという。
 女性店主は店から飛び出していった。十数メートルのところで追いついて、「店の品物を持っていったでしょう?」と聞くと、朝木市議は「知らないわよ」と犯行を否定し、そのうち朝木市議の脇の下からパサッと盗品のTシャツが落ちた。
 そのすきに朝木市議は隣のイトーヨーカ堂のなかに逃げ込んでしまった。
 「追いかけて捕まえればよかったんでしょうが、そのときは目撃者の存在など眼中にはなく、万引き犯と対峙しているのは自分だけだという気がして、正直、怖かったんです」
 と、女性店主は、そのときの気持ちを語っている。
 ところが気がつくと、側に店にいたお客さんの一人が立っており、「現行犯なんだから、訴えるのなら証人になるわよ」と言ってくれた。また、隣の駐車場から出てきた人も、ちょうどその様子を見ており、そのうえ近くのイトーヨーカ堂の店員も通りかかり、「このまま一緒に交番に行ってあげることはできないが、いつでも証人になってあげますよ」と申し出てくれた。女性店主は意を強くし、万引きで朝木市議を訴えた。
 これに対し、すでに書いたように、朝木市議側は「市議によく似た替え玉を使っての、創価学会による陰謀だ」と主張するのだ。しかし、その点に関して、「スティル」の女性店主は、
 「私も朝木さんも同じ諏訪町で、子どもの小学校の入学式や卒業式には彼女は地元選出議員として出席してましたから、顔はよく覚えています。それに、店内にいて一部始終を見ていて証人になってくれたお客さんも、本町の人で、朝木さんの顔を知っていたのです」
 と、替え玉説を否定している。
 捜査にあたっている東村山署でも、
 「複数の証人が現場で朝木市議を確認しております。そのことを警察としてはたいへん重視しております」
 という見解を示していた。


もろくも崩れたアリバイ工作
 この万引き事件は、最終的には書類送検となった。たとえ二度目とはいえ、ふつうは万引きくらいでは書類送検まではやらないのではないかと思われる。このことに対して、警察では、「アリバイ工作をするなど、きわめて悪質なので送検しました」(前述の千葉副署長)というのである。
 その「アリバイ工作」とは、いったいどういうものなのだろうか。
 犯行時(六月一九日)は、ちょうど市議会開会中であった。警察も、議会の会期が終わるのを待って、朝木市議に出頭を要請した。
 最初、朝木市議は興奮して「学会の陰謀だ。冤罪だ」と主張するだけで、話を聞くことすらまったくできなかった。ところが、数日後、再び呼んだところ、今度は、
 「私にはアリバイがある。その証拠も持っている」
 という。朝木市議が主張するそのアリバイとは、こういうものだ。
 犯行があった日、つまり六月一九日は午前中は議会があり、午後二時頃、銀行に行き、その後二時半から三時半、ちょうど犯行のあった時間は近くのレストラン(「びっくりドンキー」)で支援グループの矢野穂積氏と食事をしていた。したがって、犯行時間の三時一五分に洋品店に行くことは不可能である。
 「店を出た時間が三時半。店のレシートにも同様の時間が入っている」
 と、朝木市議は訴えたという。これが市議の言うとおりであれば、まさに冤罪である。
 警察は、市議の証言をもとに、レストランで裏付け捜査を行った。
 市議が証言したテーブル席(一七番テーブル)で、証言どおり三時半に食事を終えて、お金を支払った客はたしかに記録されていた。
 ところが、その客は市議の言うように男女二人(市議と矢野氏)連れではない。女性客二人だった。
 なぜ、そんなことがわかるのかというと、当日、そのテーブルの係になったウェイトレスが医者に行く予定があり、その時間の客が最後の注文だったのでよく覚えていたのだ。
 また、最近のレストランでよく見かける電卓型の端末機を使う注文票には、注文を受けた時間が記録される。レジでのレシートには、人数、料金支払い時間(店を出る時間)、料金額しか記録されないが……。その注文票に記録されていた入店時間は、午後一時数分だった。
 つまり、朝木市議が自分がいたといったテーブルには、女性客が二人一時過ぎから三時半まで座っていたのである。市議の証言どおり、銀行の防犯カメラには二時一二分に彼女が映っており、銀行に行ったところまでは証明できるが、その後、二時半から三時半まで、そのテーブルに座っていたという証言は辻棲が合わなくなってくる。
 さらに市議の証言では、「食べたのはこの店の日替わりランチで、とてもおいしかったのでよく覚えている」とあった。
 ところが、この日替わりランチは、その日は午前中で売り切れており、市議の口には入らないのである。
 警察では、ここまでアリバイの裏取り捜査を進めたうえで、調書をとるために市議を呼んだ。市議は、前回語ったのと同じことをふたたび詳細に述べ、証拠としてそのレストラン「びっくりドンキー」の“一七番テーブルのレシート”を提出した。警察では、アリバイがすでに崩れていることを告げた。その途端、
 「私はどうなるのでしょう?」
 と、市議は不安を隠すことができずに聞いた。取り調べを担当した係官は、
 「書類は地裁に送検されます」
 と話したという。
 その万引き事件の第一回目の地裁での事情聴収は、九月五日に予定されていた。朝木市議が転落死したのは、その四日前の九月一日だったのである。

 


(つづく)

 


解説】】
「スティル」の女性店主を筆者が取材したところ、彼女は、
 「うちは創価学会とは何の関係もありません。朝木さんが万引きをしたから訴えたまでのことです」
 と、怒りをあらわにして反論する。しかも、女性店主の説明によると、朝木市議の万引きはそのときが最初ではないそうだ。
 九四年秋頃、店頭に置いてあったセール品のワゴンの中からセーターを盗んだことがあったという。
 最初、朝木市議がワゴンの中をかき回していたので、「あら、朝木さん。セーターでも買ってくれるのかしら?」と思っていたら、その日は物色しただけで帰り、翌日、ふたたび現われた。ワゴンのなかから商品を選んでいるのかなと思ったら、パッとセーターをつかんで、止めてあった自転車の前カゴにそれを入れ、その上にバッグをのせてそのまま立ち去った。
 女性店主は、あまりの出来事に盗まれたということすら実感できないほどであったという。もちろん、今回の万引き事件で、このときのことも警察には話してあるそうだ。


警察は「万引きの被疑者となったことを苦にしての自殺」というストーリーを立てていますが、その「万引き事件」について、筆者の主張と乙骨氏の著書での記載には食い違いが見られます。


乙骨正生『怪死―東村山女性市議転落死事件』Ⅱ章 その3

これによると、朝木さんを犯人だとする「スティル」の女性店主の供述には、不自然な点が指摘できるといいます。
95年7月28日号に続いて万引き事件を報道した『週刊朝日』8月4日号記事もそうした雰囲気を伝えている。
「万引きされた店の主人は、本誌の取材に、
『朝木さんの顔はよく知っている。前に来店したときも商品がなくなっていたので、注意して見ていた』
と話した。だが、事件直後に、別の人には、
『自分は朝木さんだとわからなかったが、店にいた客が朝木さんだと教えてくれた』
と話していた、という」
「自分は朝木さんだとわからなかった」となれば、マスコミに対する説明やその後一貫して朝木さんが、“常習”であるかのように話す内容と大きく矛盾をきたすこととなります。

 

この万引き事件をめぐっては、事件発生後、さまざまな奇怪な動きが生じており、単なる万引き事件とはいえない複雑な要素が垣間見えます。

乙骨正生『怪死―東村山女性市議転落死事件』Ⅱ章 その2
まず、第一には、事件をマスコミが察知する前、書類送検前日の7月11日に「東村山在住 健全な社会を願う一市民より」という匿名の怪文書ファックスが、地元のマスコミ各社に出回ったことです。そこにはこうありました。
「東村山市議会議員の朝木明代氏が、市内の女性服販売店で万引きをしたとの事実を確認いたしました。
去る6月、東村山駅東口近くのブティク『スティル東村山店』で、店頭ワゴンに並べられていた商品(女性服)を、朝木氏が万引きをし逃げようとするところを、店員に捕まり、その場で商品を取り上げられたとのこと。事後に、店からは警察に被害届が出されています。(以下省略)
東村山在住 健全な社会を願う一市民より」

第二には、朝木さんが書類送検される当日、東村山署の署長室に公明の木村芳彦市議会副議長が詰めていた事実が、全国紙の地元記者によって目撃されており、本人もこれを認めていることです。
「万引きのうわさを聞いたので確かめただけ。学会が仕組んだなんて、とんでもない」(『週刊朝日』95・7・28)
市議会の副議長を務める公明の古参議員が書類送検する当日、なぜ、署長室に詰めていたのか。
(中略)木村副議長が送検当日に署長室に詰めていた事実は、送検の背後になんらかの政治的圧力があったのではとの疑問を抱かせよう。(中略)
「冤罪と主張する朝木も職を賭しているだろうが、自分もこの事件には、職を賭している」
と力説している。東村山署管内では、警察官が殺された殺人事件が未解決のまま残っているが、そうした重大事件の解決に「職を賭す」ならまだしも、軽微な万引き事件ごときに「職を賭す」とまで発言する真意は那辺にあるのか。朝木さんを罪に仕立てあげなければ、クビになるとでもいうのだろうか。
私も乙骨氏の意見に同意します。


「もろくも崩れたアリバイ工作」の点については、

私と朝木さんは、警察からの呼び出しがあった後に、『びっくりドンキー』を訪れ、食事のときの概要を説明してレシートをもらい、そのレシートを警察に提出しました」
だが、このレシートは、朝木さんのアリバイを証明するものではなかった。朝木さんと矢野氏は勘違いによって、他人のレシートを提出してしまっていたのである。

と乙骨氏の著書には書いてあります。
これが「アリバイ工作」と断定できるかどうか疑問です。

 

獅子風蓮


東村山市議転落死事件~創価学会側の主張(1)(追記あり)

2023-04-14 01:26:39 | 東村山女性市議転落死事件

前回は、学会寄りの主張をするジャーナリストについて書きました。

中でも、公明党から費用の支払いを受けていたJTCの井原武人氏は、山本芳実あるいは佐倉敏明の名前で多数の文章を発表しています。
その中のいくつかは、創価学会、元本部職員の北林芳典氏のホームページ(地湧の電子書庫)のリンクで、読むことができます。

このうちのひとつに、「東村山市議転落事件」のことを言及していましたので、引用したいと思います。

佐倉敏明「創価学会報道に見る 週刊誌のウソと捏造」(エバラオフィス、1996.03)

□はじめに
■第一章〈ドキュメント〉東村山市議転落死の真相
□第二章 オウムと学会を一緒にしたこじつけ報道
□第三章 証人喚問を「魔女狩り」に使う雑誌
□第四章 自民党の広告ページと化した選挙報道
□第五章 すべては宗教法人法を通すために
□第六章〈特別講座〉週刊誌のウソの見抜き方
□あとがき

 


■第一章〈ドキュメント〉東村山市議転落死の真相

 

典型的な「週刊誌報道の犯罪」

 “週刊誌報道の犯罪”の典型ともいえるような報道が、また行われた。東京都下の東村山市女性市議マンション転落死をめぐる一部週刊誌の報道である。
 昨年(九五年)九月一日。東京都下の東村山市で、マンションの六階の踊り場から、同市の女性市議・朝木明代さんが、落ちて死亡するという不幸な出来事があった。
 まだ警察の捜査の段階で、「事故」か、「自殺」か、またなんからの「事件」に巻き込まれた可能性があるのか、何も明白になっていないこの時期に、複数の週刊誌がこの出来事への創価学会との関与を臭わせるような報道を行った。
 なかには、女性市議が創価学会によって殺害されたと断定する見出しを打った週刊誌(『週刊現代』――創価学会は同誌の編集・発行人と朝木市議の夫と娘を名誉毀損で告訴)もあった。
 市議の転落死に創価学会が関与していたのではないかという憶測は、彼女がかねてから反創価学会のリーダーとして、派手な反創価学会運動を展開していたというところから生じている。だが、それだからといって「市議の死」と「創価学会」を結び付けるのはあまりに乱暴で、まして記事はあくまでも憶測であり、そこにはなんら裏付けとなる一つの根拠もない。
 作為的な目的にしたがってマスコミが寄ってたかって学会員を犯人に仕立て上げるばかりか、あろうことか、またまたその週刊誌を“証拠書類”として国会で議員が“恫喝”する事態まで起こった(まさに北海道の交通事故の被害者を加害者とすり替えて報道した『週刊新潮』を手に国会で質問した自民党議員を思い起こさせる)。この一連の女性市議転落死報道は、またもや、はからずもこの国のマスコミと政治家の低俗ぶりを明らかにしたものといえよう。
 その後の警察の捜査で、転落死は「自殺」と発表されたからよかったものの、そうでなければ、煽り立て、騒ぎ立て、罪もない個人・団体を犯人に仕立てていくマスコミ攻勢がまだまだ続いていたに違いない。
 日本に、まっとうなマスコミははたしてあるのだろうか。真のジャーナリズムは存在するのだろうか。こうした報道姿勢に接するたびに、暗澹たる気持ちになるのは筆者一人ではあるまい。偏向報道に狂奔する週刊誌をマスコミと呼ぶことはできない。それは単に他人をおもしろおかしくからかったり、イジメたりして、メシの種にしているゴシップ屋でしかない。
 ともあれ、九五年一二月二二日、警視庁は、朝木市議の転落死を「自殺」と断定した。
 以下に警視庁が自殺と断定した理由を、詳しく紹介しよう。
一、現場の状況
 1 同市議は身長一六〇センチあり、踊り場の防護壁を乗り越えることができる。(自力で防護壁に上がることができる=筆者註)
 2 防護壁の上面に指の擦れた個所が三か所あり、指先方向は階段のほうに向いている。(ぶら下がった痕跡がある=筆者註)
 3 他人から突き落とされた痕跡は認められない。
 4 ビルの外壁すれすれに着地しており、他人からの力が加わっていれば、外壁から離れて遠くに落ちるはずである。
  A 外壁とフェンスの間は六〇センチしかない。
  B 頭にも損傷はない。(頭から落ちたのではなく、ぶら下がった痕跡からも足から落下した=筆者註)
二、発見時の状況
 1 午後一〇時三〇分。ビル一階のハンバーガー店長が「大丈夫ですか?」と声をかけ、さらに「落ちたんですか?」と聞いたところ、同市議は「大丈夫です」と答えた。
 2 午後一〇時三五分。同店長がふたたび「大丈夫ですか?」「痛くないですか?」と声をかけると、「ハイ、大丈夫です」と答えた。さらに「救急車を呼びましょうか?」と聞くと、「いらない」と答えた。
三、遺体・聞き込みによる状況
 1 着衣に争ったときにできる破れや綻びがない。
 2 死亡者の身には争った跡や外傷がない。
 3 現場周辺での不審な人や車の目撃がない。
 警視庁は、以上の理由から、朝木市議の転落死については他人が介在した様子が見受けられないとし、「自殺」と断定したのである。警察の捜査は、これで終了した。
 自殺と結論が出た現在、ふり返ってこの事件をながめてみると、週刊誌の「ウソと捏造」が面白いほどよくわかる。


当初から意図的だった週刊誌記事

 この転落死に関する週刊誌の第一報は、『週刊文春』と『週刊新潮』(ともに九五年九月一四日号)だった。
 『週刊文春』は「反創価学会女性市議の『怪死』」との見出し、『週刊新潮』は「女性市議『転落死』で一気に噴き出た『創価学会』疑惑」という見出しを付け、すでに「事件」の方向を「何者かによる他殺」というイメージ付けを行い、そこに創価学会の関与を執拗なまでに強調している。
 両誌の記事に共通するのは、第一発見者であるマンション一階のハンバーガー・ショップ店長のコメントである。
 店長が、通路に仰向けに倒れている女性を発見し「大丈夫ですか?」と声をかける。すると、「大丈夫です」という返事があった。ここまでは、警察の調べと同じなのだが、問題は次の記述である。
 「『落ちたんですか』
 『……いいえ』
 女性は小さな声でそう言って首を横に振った」(『週刊文春』)
 「こちらが“落ちたんですか”と、聞くと“いいえ”と言う。あとは何を聞いても応答はありませんでした……」(『週刊新潮』)
 両誌によれば、店長の「落ちたんですか」という質問に、女性は「いいえ」と明確に答えていることになる。つまり、ここでこの女性は“落ちた”のではなく、何者かによって“落とされた”ということを暗示させているのだ。
 しかし、先に紹介した警察の発表を見てほしい。
 店長が、「落ちたんですか」と聞いたところ、朝木市議は「大丈夫です」と答えている。そこには決して「いいえ」など同市議が否定した事実は、ない。
 そのことを筆者が再度警察に確認すると、
 「この点については何度も聞きました。『いいえ』とは言っていません。発見者は、(市議が)『ウーン』と唸って首を動かしたので、「落ちたのではない」と言いたいのかなと思ったと言っていました。つまり、あくまでもこの部分は、発見者の印象です」
 という答えが返ってきた。
 さらにおかしいのは、両誌とも、そのあとで店長が「救急車を呼びましようか?」と聞くと「いらない」と答えたという重要な会話にはまったく触れていないことだ。ここに何かの意図が感じられないだろうか。故意に隠しているとさえ思われるのだ。
 救急車を呼ぶことを断わったという事実は、朝木市議の死への覚悟を語りかける。その部分の話を記事にすることで、自殺という線が強調される。それを両誌は嫌ったのだろう。何がなんでも、この事件を「怪死」というイメージに仕立て上げ、そこに創価学会の影を感じさせたいという意図が最初からあったのではないか。
 だからこそ、「落ちたんですか」という店長の質問に、警察での度重なる調べにもなかった「いいえ」という朝木市議の言葉を“捏造”したのだろう。
 週刊誌の取材に応じた東村山署の千葉副署長は、この「救急車」の部分に関して。
 「取材に来られた記者にはきちんと説明しているのに、なぜかその部分を書かないんです。それどころか逆に“怪しい”と強調した書き方が目立ってました」
 と、これらの記事に対する感想を語っていた。警察では、第一発見者であるハンバーガー・ショップ店長と市議のやりとりのなかで、最初からこの救急車の部分を重要視していたのだ。市議が、ハッキリと救急車を断わった事実。他殺、あるいは事故であっても、救急車まで断わるだろうか。「痛い、助けて!」と叫ぶなりして救助を求めるのが自然であろう。
 また、現場の状況は隣が駐車場でその仕切りの低い柵がすぐ近くにある。そのため、六階から放り投げられた場合、どうしても柵の向こうに落ちてしまう。朝木市議は、隣との仕切り柵とマンションの間の狭い場所に落下、それでも柵に右半身をぶつけている。
 もちろん、飛び込んでの自殺なら頭から落ちるはずだし、この場合も放物線を描いて柵の外側に落ちる。いったいどういう状態で落下したのか?
 警察犬、検死官、地方検事、それに担当刑事数人を動員して調べ、五階と六階の階段の手すりの外側に彼女の手の擦った跡があるところから、警察は次のように見ている。
 「一度、自殺しようと手すりの上にあがったが、決心がつかないうちに態勢が崩れた。キャーと叫んで(五階の住人が声を聞いている)思わず手すりにつかまったがズルズル滑って真下に落下した」
 これでは他殺説の出る隙などない。

(つづく)

 


解説
著者の主張は、警察の発表に沿ったものになっています。
ちなみに、創価学会の外郭企業である潮出版社が発行する雑誌『潮』の記事には、ジャーナリストの山本芳実氏の筆になる創価学会側にたって遺族を誹謗する記事が掲載されています。この記事で言及されています。

乙骨正生『怪死―東村山女性市議転落死事件』Ⅴ章 その3

以前の記事に書いたように、山本芳実は本書の著者、佐倉敏明氏の別名ですので、書いている内容は同じです。

さて、本書の今回の記述に関して、乙骨氏の『怪死』での内容と食い違う部分を選び出してみます。

第一発見者であるマンション一階のハンバーガー・ショップ店長のコメントである。
 店長が、通路に仰向けに倒れている女性を発見し「大丈夫ですか?」と声をかける。すると、「大丈夫です」という返事があった。ここまでは、警察の調べと同じなのだが、問題は次の記述である。
 「『落ちたんですか』
 『……いいえ』
 女性は小さな声でそう言って首を横に振った」(『週刊文春』)
 「こちらが“落ちたんですか”と、聞くと“いいえ”と言う。あとは何を聞いても応答はありませんでした……」(『週刊新潮』)
 両誌によれば、店長の「落ちたんですか」という質問に、女性は「いいえ」と明確に答えていることになる。つまり、ここでこの女性は“落ちた”のではなく、何者かによって“落とされた”ということを暗示させているのだ。
 しかし、先に紹介した警察の発表を見てほしい。
 店長が、「落ちたんですか」と聞いたところ、朝木市議は「大丈夫です」と答えている。そこには決して「いいえ」など同市議が否定した事実は、ない。
 そのことを筆者が再度警察に確認すると、
 「この点については何度も聞きました。『いいえ』とは言っていません。発見者は、(市議が)『ウーン』と唸って首を動かしたので、「落ちたのではない」と言いたいのかなと思ったと言っていました。つまり、あくまでもこの部分は、発見者の印象です」
 という答えが返ってきた。

事件発生の経過は、乙骨氏の『怪死』の方が詳しいですね。
乙骨正生『怪死―東村山女性市議転落死事件』Ⅰ章 その2

これによると、第一発見者はアルバイト店員(女子短大生)ですね。
アルバイト店員の報告を受けた「モスパーガー」の店長が、再び現場に赴きます。
当初、酔っぱらいかと思ってい店長は、「大丈夫ですか」と声をかけた。これに対し女性は、「大丈夫です」と答えたという。ところが、よく見るとフェンスが大きく歪んでいることから、店長は、もしかしたら落ちたのかもしれないと思い、「落ちたんですか」と尋ねたところ、女性は首を振りながら「いいえ」と答えたという。

 


両誌とも、そのあとで店長が「救急車を呼びましようか?」と聞くと「いらない」と答えたという重要な会話にはまったく触れていないことだ。ここに何かの意図が感じられないだろうか。故意に隠しているとさえ思われるのだ。
(中略)
警察では、第一発見者であるハンバーガー・ショップ店長と市議のやりとりのなかで、最初からこの救急車の部分を重要視していたのだ。市議が、ハッキリと救急車を断わった事実。他殺、あるいは事故であっても、救急車まで断わるだろうか。「痛い、助けて!」と叫ぶなりして救助を求めるのが自然であろう。


朝木さんが救急車を断った事実はあったのでしょうか。
乙骨氏の『怪死』では次のように書いてあります。
乙骨正生『怪死―東村山女性市議転落死事件』Ⅴ章 その3


これによると、店長は、駐車場の管理人との間で「救急車を呼びましょうか」との会話をかわしたことは認めるが、朝木さんに「救急車を呼びましょうか」と問いかけた事実はないと断言しているとのことです。

両者の意見は食い違います。この点は重要です。

店長に確認すれば、どっちが嘘を言っているのかわかるでしょう。

もっとも、事件後しばらくしてから警察は、第一発見者、第二発見者に、口止めをしているらしいのです。

乙骨正生『怪死―東村山女性市議転落死事件』Ⅴ章 その2

事件後、直子さんは知人の紹介で、第一発見者のアルバイト店員と接触しているが、 その際、アルバイト店員は、警察が自らの捜査結果と符合するよう供述を誘導したこと、また、遺族やマスコミと接触しないよう強要したことを聞いたという。
実際、私をはじめとするマスコミ陣も、第一発見者のアルバイト店員および第二発見者である「モスバーガー」店長に直接取材を試みたが、いずれも拒否され、第二発見者の店長に対する取材は、「モスバーガー」オーナーが取り次ぐという形で行われた。アルバイト店員は接触したマスコミ関係者に対し、取材に応じられない理由を「警察になにもいうなといわれていますので」と答えており、マスコミの接触に極度に脅えていた。遺体を朝木さんだと確認した東村山署の須田係長は、防衛医大病院の滝野医師に対し、マスコミの取材に応じないよう口止めしているが、警察は、第一発見者、第二発見者にも、同様に口止めをしているようなのである。

警察と創価学会の癒着、おそるべし。

 

獅子風蓮

 


PS)
「『落ちたんですか』
 『……いいえ』
 女性は小さな声でそう言って首を横に振った」(『週刊文春』)
正直いつも、事件の最初のこのくだりを読むと、疑問がわくのです。
朝木さんはもし本当に誰かに突き落とされたのなら、どうして「突き落とされた」と言わなかったのか。
もっと言えば、犯人を特定する言葉をどうして発しなかったのか?
おそらくそうとう混乱して、パニック状態にあったのかとも思うのですが、もっと具体的な言葉を残しておいてくれたらという気持ちは残ります。


この記事を書いた後、こんなブログを見つけました。

沖浦克治殺人犯人疑惑は自首して(2023-01-31)

一部引用します。

創価学会に脅迫されて転落された朝木明代市議の無念は晴らしたいですが、瀕死の状況で、朝木明代市議が創価学会の名を出されなかったのは、おそらく沖浦克治氏の言う通り、転落した朝木明代市議を、沖浦克治氏が助けようとしたのを知っていたからで、御本人もどう言っていいのか解らなかったからなのでしょう。そして残念な事に、そのまま御亡くなりなられてしまわれたのです。
もちろん、それでも御無念な事には変わりなく、
(清水氏の文章から引用)

例によって清水大悟氏の文章ですから、慎重にとらえる必要があるとは思います。
でも、こういうことなら、すべてが納得いくのです。
「『落ちたんですか』
 『……いいえ』
 女性は小さな声でそう言って首を横に振った」
このエピソードも納得がいきます。
彼女は、落ちそうになった自分を沖浦克治氏が助けようとしたこと、でも力尽きて転落してしまったことを説明したかったけど、転落のショックで言葉にできなかったのかもしれません。
朝木さんの遺体の腕に内出血の跡があったことも、これで説明がつきます。

ここはやはり、直接沖浦克治氏の話を聞いてみるしかなさそうですね。

是非、これを読んでいただけたら、コメントをください。

 

獅子風蓮


「反・反創価学会本」のいろいろ(2)

2023-04-13 01:41:57 | 創価学会・公明党

「東村山市議転落事件」がらみで、宝島社「池田大作と暴力団」(2012年8月)という本を読んでいたら、こんな記事を見つけました。

 


告発スクープ:

謎の調査会社JTCに流れた公明党の“政党交付金”
__反創価学会勢力潰しの「世論工作」と公明党の隠微な関係!
       高橋篤史(ジャーナリスト)
反創価学会勢力を叩く正体不明の出版活動
その関連会社に、公明党が多額の調査・研究費を投じ続けている。
このような支出は公党に相応しいものなのか?

(つづきです)


正体不明の出版活動 

筆名を使い分ける井原氏はその正体を隠そうとしているのか、それとも何か攪乱を狙っているのか。反創価学会勢力を叩く正体不明の出版活動はエバラオフィスに限らない。90年代後半には「ユニコン企画」なる出版社が現れ、少なくとも2冊の“反・反学会本”を出して、いずこにか消えていった。 
似たようなケースで有名なのが「未来書房」だ。02年12月、東京都立川市内の公団団地に本店登記された未来書房が「稲山三夫」なる著者による『拉拉致被害者と日本人妻を返せ 北朝鮮問題と日本共産党の罪』というタイトルの本を出した。著者、出版社とも無名ながら本は飛ぶように売れ始め、電車の中吊り広告まで大々的に展開された。共産党は「反共謀略本」と反発、『しんぶん赤旗』による追及キャンペーンで反撃に出た。
当時の赤旗報道によると、取次大手の社内文書「創価学会関連ニュース」の中で、焦点の『拉致被害者――』は取り組み強化商品として紹介されていたという。同時進行させた民事訴訟では著者の本名が柳原滋雄氏であることを突き止め、同氏が過去、学会批判勢力を攻撃する執筆活動を行なっていたことも明らかにした。柳原氏は社会民主党の機関紙『社会新報』 の元記者で、96年12月の退社後は外国人の人権問題などに関する記事を雑誌に実名で寄稿していた。そのかたわら、98年頃から「中田光彦」なる筆名を使い、『潮』などで学会護の記事を執筆していたのである。
前出の関係者によると、『拉致被害――』の原稿を未来書房の海野安雄社長のもとに持ち込んだのは、ある出版ブローカーだった。自民党による3000部の買付証明書を携え、『潮』の常連ライターと経理担当者も伴っていたという。ライター上がりの海野社長は、知り合いから出版コードを持つ休眠会社を譲り受けたばかりで、この企画に飛びついた。急ごしらえの編集チームが立ち上がり、彼らが「アカ本」と呼んだ『拉致被害者――』は最終的に3万~4万部ほど売れた。書店にはどこからともなくまとめ買いの注文が相次いだという。
じつはブローカーは2年前にも同じような企画を仕掛けていた。右翼系の「雷韻出版」に企画を持ち込み、共産党叩きの本を出していたのだ。この時も背後では自民党や創価学会の動きが取り沙汰されていた。当時は自公連立政権発足から間もない頃で、共産党に野党票が集まっていた時期だった。


政党交付金が世論工作の資金源に?

かつての言論出版妨害事件に代表されるように、創価学会とメディアとの関係は因縁深い。学会自身は潮出版社など自前メディアの育成を図ってきたが、一方で正体が定かでない不可解な出版活動が周辺では時々見られる。元本部職員の北林芳典氏のように堂々と実名で“反・反学会”の出版活動を行なう例もあるが、それはレアケースだ。
北林氏はかつて山崎元弁護士率いる「山崎師団」のメンバーで、立正佼成会の実質傘下にあった社団法人日本宗教放送協会に身分を秘匿して潜り込み、反創価学会勢力の情報を集めるなど諜報活動に従事していた。90年代以降は学会員向けの葬儀会社「報恩社」を設立して実業家に転身、かたわらで「平安出版」を興すなど出版活動も熱心に行なっている。かつてのボス・山崎元弁護士も攻撃対象だ。
じつは今回の取材では妙なことが起きた。日蓮正宗系のミニコミ誌編集室に井原氏を中傷する怪文書が唐突に寄せられたのだ。
公称827万世帯の創価学会員を受け皿に“反・反学会本”の一大需要があるのは間違いなく、そこに実名、筆名が折り重なった複雑怪異なウラ出版人脈が棲息している。その手法は出版活動としてフェアとはいえないが、彼らの間では利権争いまで起きているのかもしれない。
事務所を訪ねるなど井原氏に取材を試みたが、連絡はとれなかった。個人の携帯電話番号を入手し、かけてみたものの、こちらが「井原さんですか?」と何度も尋ねると、「何言ってんだ!」と言われ、一方的に切れた。
果たして、JTCへの多額の支出は公党に相応しいものなのか。支出にあたっては政党交付金も充当されてきたのだ。公明党にファクスで質問を送ったところ、返ってきたのは「(JTC選定の経緯委託内容などについては)差し控えたい。(多額の支出などについても)問題はない」とのそっけない回答だけだった。

 


解説
著者の本名が柳原滋雄氏であることを突き止め、同氏が過去、学会批判勢力を攻撃する執筆活動を行なっていたことも明らかにした。柳原氏は社会民主党の機関紙『社会新報』 の元記者で、96年12月の退社後は外国人の人権問題などに関する記事を雑誌に実名で寄稿していた。そのかたわら、98年頃から「中田光彦」なる筆名を使い、『潮』などで学会護の記事を執筆していたのである。

柳原滋雄氏はブログを書いており、「東村山市議転落事件」についても積極的に記事をアップしています。
柳原滋雄のホームページ


柳原滋雄氏について、少し調べてみました。

柳原滋雄
経歴
福岡県久留米市生まれ。佐賀県の鳥栖で過ごす。
父親は社会党(社会民主党)員で、少年時代は、社会党の機関紙「社会新報」の配達をして、活動を手伝う事もあった。
1983年早稲田大学法学部入学のため上京。在学中の1985年に、創価学会へ入会。 
1987年同大学卒業後、「“マスコミ底辺”を転々」。
……
1997年1月に独立後、フリーランス。「柳原滋雄WeBサイト」で執筆活動を開始。
「中田光彦」、「稲山三夫」の名義で発行し「日本共産党」や「北朝鮮の拉致問題」などを取り上げた著作もある。
創価学会の信者という事もあり、本人自身が、妙法(自称)のジャーナリストと称しており、主に「第三文明社」や「潮出版社」等に掲載し、また創価学会関連の著作も多いが一方で、第二次安倍政権時に、創価学会の支持母体でもある公明党と共に賛成し成立した「特定秘密の保護に関する法律」に反対しており日本労働組合総評議会(総評)系の『労働情報』編集委員でもある安田浩一等と共に「秘密保護法違憲訴訟を支援する会」の原告の一人として名を連ねていたりもする。
2002年9・11月、2005年3月、創価学会と敵対した元弁護士山崎正友より、著作本の内容等を巡って名誉毀損を理由に提訴されるが、2009年1月、原告死去にともない訴訟終結。
2003年12月、2004年6月、名誉毀損を理由にジャーナリスト乙骨正生らを提訴、2008年終結。
2003年3月、日本共産党より名誉毀損、著作権法違反を理由に提訴され、2004年10月和解成立。
2009年11月、創価学会と敵対した東村山市議会議員矢野穂積より、名誉毀損を理由に提訴され最高裁まで争った末、2013年11月に終結し「敗訴」が確定している。
(Wikipediaより)

「東村山市議転落事件」での裁判では敗訴しているのですね。

創価学会員であるジャーナリスト・柳原滋雄氏の主張には大きなバイアスがかかっていると見た方がいいでしょう。

 

獅子風蓮


「反・反創価学会本」のいろいろ(1)

2023-04-12 01:24:47 | 創価学会・公明党

「東村山市議転落事件」がらみで、宝島社「池田大作と暴力団」(2012年8月)という本を読んでいたら、こんな記事を見つけました。

 


告発スクープ:

謎の調査会社JTCに流れた公明党の“政党交付金”
__反創価学会勢力潰しの「世論工作」と公明党の隠微な関係!
         高橋篤史(ジャーナリスト)
反創価学会勢力を叩く正体不明の出版活動
その関連会社に、公明党が多額の調査・研究費を投じ続けている。
このような支出は公党に相応しいものなのか?

 

公党が7500万円の資金を投じた謎の会社

公明党が調査・研究費を毎年支出し続けている謎の調査会社がある。東京都新宿区の「JTC」なる会社がそれだ。ただ、政治資金収支報告書から分かるのはそれくらいで、インターネット上にホームページは見当たらず、「104」に訊いても電話番号が分からない。支出が始まったのは2006年7月月28日。多い年には総額7463万円余りにも上る。それまで数百万円程度だった公明党の調査・研究費はJTCとの取引開始で激増した。
JTCとはいかなる会社なのか……。
法人登記によると、資本金300万円で設立されたのは06年5月9日。取締役は代表の井原武人氏のみ。目的欄には「各種マーケティング業務」や「世論調査の請負」などが並ぶ。事務所が入るのは、信濃町から徒歩数分、戸田記念国際会館裏手の低層ビルだ。
取材を進めると、井原氏の意外な経歴が浮かび上がってきた。反創価学会勢力を攻撃する出版活動を長年行なってきた人物なのである。手がかりは古い裁判記録の中に残されていた。
1997年に提訴された東村山騒動を巡る民事訴訟において井原氏の名前は登場する。95年9月、創価学会に批判的な東京都東村山市の女性市議がビルから転落死、それを契機に世間の耳目を集めた騒動である。捜査当局は自殺と断定したが、女性市議の支援者らが他殺説を声高に唱え、それに対し『潮』など学会系の雑誌が批判の矢を放った。両者の激しいぶつかり合いは今なお続いている。
件の民事訴訟によると、井原氏は転落死の1週間後、「潮特派記者・江原芳美」の名刺を持ち、現地取材に現れていた。その後、井原氏は別のペンネームである「山本芳実」を使い、『潮』95年11月号に「世間欺く『東村山市議自殺事件』の空騒ぎ」とのタイトルで女性市議派を叩く記事を執筆している。じつは井原氏の創価学会擁護の言論活動はそんな程度ではない。東京・西新宿の雑居ビル6階に「エバラオフィス」なる出版社がある。設立は94年7月。代表取締役は井原氏。ほかに妻と思しき女性が取締役となっている。同社はこれまで少なくとも10冊の書籍を世に送り出した。ただし、出版コードは持たず、流通は中取次会社「星雲社」のルートを利用してきた。実態は編集プロダクションに近い。
第一弾の『法主ファミリーの大悪行 宗門の私物化をこれ以上許すな!』に始まり、刊行書籍には毒々しいタイトルが並ぶ。攻撃対象は日蓮正宗や創価学会に批判的な週刊誌・ライター、それに学会で過去数々の裏工作に携わり脱会後は批判勢力の急先鋒となった山崎正友元弁護士 (故人) など。著者は日蓮正宗からの離脱僧侶やその団体など。マンガの原作を含め最多の5冊を出す「佐倉敏明」なる著者は奥付を見ても略歴が載っていないが、学会周辺の出版事情に詳しい関係者によれば、井原氏の別の筆名だという。 
江原名で88年に出された書籍によると、井原氏は1945年生まれで北海道留萌市の出身。前出の関係者によれば、上京後は女性誌のライターやグラビア雑誌の編集などに携わったようだ。
「日顕法主のスキャンダルか何かを女性誌に書いたら売れたようで、創価学会はカネになると思い、独立したらしい」という。
エバラオフィスの出版方針は明らかに偏向しているが、表向き創価学会との関係は見えない。水面下でつながっているかどうかも不明だ。同社の書籍刊行は05年12月を最後に途絶えた。ほどなくして井原氏はJTCに軸足を移したことになる。そして、学会が支持母体の公明党とすぐに取引が始まった。 
出版活動停止状態だったエバラオフィスは11年8月にドメインを取得してサイトを開設、これまでの刊行物を無料公開する大盤振る舞いだ。


表1)JTCに対する公明党の調査・研究費支出額 調査・研究費

 

表2)公明党の政治資金収支報告に記載された JTCへの支出


(つづく)

 

 


解説
「東村山市議転落事件」を巡っては、学会寄りの主張をするジャーナリストの素性が気になります。
彼らはペンネームを複数使い分けているので、注意が必要です。
公明党から費用の支払いを受けていたJTCの井原武人とは何者なのでしょうか。
彼の別名である佐倉敏明の名前でいくつか著作をものしていますね。

出版活動停止状態だったエバラオフィスは11年8月にドメインを取得してサイトを開設、これまでの刊行物を無料公開する大盤振る舞いだ。

と書いてありますが、エバラオフィスのホームページそのものは見つかりませんでした。

その代わり、創価学会、元本部職員の北林芳典氏のホームページ(地湧の電子書庫)のリンクで、それらを読むことができます。

おそらく、北林芳典氏のホームページで無料で佐倉敏明氏の著作が何冊も読めるということは、佐倉敏明氏の著作は創価学会の中では公共財産のような扱いなのではないかと思います。

 

獅子風蓮


村木厚子『私は負けない』第一部第1章 その5

2023-04-11 01:27:41 | 冤罪

このたび、村木厚子さんの著書『私は負けない-「郵便不正事件」はこうして作られた』(中央公論新社、2013.10)を読み、検察のひどいやり方に激しい憤りを感じました。
是非、広く読んでほしい内容だと思い、著書の一部を紹介したいと思います。

(目次)
□はじめに
第一部
■第1章 まさかの逮捕と20日間の取り調べ
□第2章 164日間の勾留
□第3章 裁判で明らかにされた真相
□第4章 無罪判決、そして……
□終 章 信じられる司法制度を作るために
第二部
・第1章 支え合って進もう
  ◎夫・村木太郎インタビュー
・第2章 ウソの調書はこうして作られた
  ◎上村勉×村木厚子対談(進行…江川紹子)
・第3章 一人の無辜を罰するなかれ
  ◎周防正行監督インタビュー
・おわりに


証拠よりもストーリー

検察のストーリーは、当初、客観的事実とはまったく異なる前提で作られていました。証明書の偽造を指示した動機として、私が企画課長時代に担当した障害者自立支援法案があった、というのです。法案を国会ですんなり通すため、野党の議員にも気を遣い、民主党の石井議員の要請に応じて役人が違法な行為をやった、という構図です。
しかし実際は、証明書が作られた04年6月当時、まだ法案は影も形もありませんでした。この法案は、次のような経緯で出来上がりました。
03年4月に新たな支援費制度が始まりました。障害者自身が自分の受ける福祉サービスを選んだり決めたりできる利用者本位の制度で、使い勝手がよく、非常に評判がよかったのですが、たちまち財源が底をついてしまいました。省内の他の分野で節約をしたり、経費を圧縮して回してもらい、なんとかしのいだのですが、このままの制度を続けられないことは明らかでした。それで、障害者団体にも現状認識を共有してもらい、一緒に議論を重ねて新しい方向を作っていこうということで、初めて会議を開いたのが、04年4月30日です。グランドデザインができたのが10月、法案ができたのは、05年1月に始まる通常国会の直前でした。検察のストーリーでは、倉沢さんが最初に私のところに来られたのは、04年2月ということですが、この時点で、私が法案成立のために、国会議員からの無理な頼みを引き受けた、ということはありえないのです。
それなのに、こともあろうに、04年2月には障害者自立支援法案を巡って国会議員に必死に根回しをしていた、という内容の厚労省職員の調書がいくつも作成されていました。私は、遠藤検事の取り調べの時に、この法案の成立過程を聞かれたので、経緯を説明し、「インターネットで厚労省のホームページに入って、社会保障審議会の障害者部会の議事録を見れば、経緯がよく分かりますから」と教えました。彼はしばらく経ってから、「勉強してだいぶ分かってきました」と言って、障害者自立支援法成立の経緯について改めて調書を取りました。
検察というところは、客観情報よりも調書を重んじる文化があるようで、この調書ができて初めて、「ああ自立支援法は違うのか」というのが分かってきたようです。そうすると、これまでの厚労省職員の調書が間違いになってしまいます。それで、彼らは慌てて関係者の調書を取り直しました。その結果、客観的事実との齟齬はなくなったのですが、今度は、私が違法な行為を敢えて行う動機がなくなってしまったのです。
遠藤検事も國井検事も、手帳や業務日誌に書いてある私の行動について、一つひとつ聞いてきました。20日間の取り調べの中で、もっとも時間を費やしたのがこの点でした。特に、04年2月と3月については、休暇簿や出張の旅行命令なども付き合わせて、細かく調べたようで、「出勤簿なんかと照らし合わせたのですが、正確ですねえ」と言われました。最初は事実関係を確認していると思っていたのですが、途中から、いつなら倉沢氏と会う可能性があるのか、私にアリバイがない時間帯はいつかを探しているということに気づきました。
手帳や日誌を見れば、議員からの依頼事項やそれをどのように処理したのかが全部書いてあります。それを見れば、石井議員や倉沢氏の名前が出ていないことも分かるし、与党の議員からの「ここに補助金をつけてくれ」という依頼を断ったことなども出てきます。補助金がついたかどうかは、裏付けもとれるはずです。そういう対応を続けてきた私が、なぜ野党の議員からの無理な頼みを聞かなければならないのでしょうか。
こういう証拠を見ても、検察は、もしかしたら被疑者の言っていることが本当かもしれない、と考え直すことがないのです。あらゆる証拠は、もっぱら検察のストーリーを裏付けるために使えるか使えないか、という観点で検討され、ストーリーに合わないものは無視されていきました。
勾留満期まであと5日という夜、國井検事が「村木さんには大変ショックなお知らせがあります」と言ってきました。
「起訴を決めました。検事総長まで内諾を得ています」とのことでした。
この時には、すでに私を信じてくださる方たちが、支援する会を作ろうとして動き始めていました。國井検事からは、そのことについて、こう告げられました。
「支援する会ができるようだが、裁判になれば、そうした人たちを巻き込むことになる。否認していると、厳しい刑、実刑を受けることになるが、それでもいいのか」
その後も、國井検事からは、「裁判のことを心配している」と繰り返し言われました。また「弁護士の中には無罪を安請け合いしたり、だます人もいる」とも言われました。否認し続ければ重い刑になるから考え直せ、というわけです。
そして勾留満期の09年7月4日、私は虚偽有印公文書作成・同行使の罪で起訴されたのです。
取り調べは終わりました。拘置所の部屋の壁にはられたカレンダーを見つめながら、「一日終わった」「二日終わった」「(勾留期間の)半分終わった」「あと○日……」と数える日々、本当に壁に穴があくのではと心配する日々でした。精神的にはたしかにきつかったけれど、逮捕されてからも食欲が落ちず、睡眠もちゃんととれていたので、なんとかもったのだと思います。この日の日記には、こう書いてあります。
〈20日間、結果はどうあれ、よくがんばった!! ほめてやろう〉

 


解説
こういう証拠を見ても、検察は、もしかしたら被疑者の言っていることが本当かもしれない、と考え直すことがないのです。あらゆる証拠は、もっぱら検察のストーリーを裏付けるために使えるか使えないか、という観点で検討され、ストーリーに合わないものは無視されていきました。

医者も患者の病状の見立てを誤ることがあります。
当初の誤った見立てに固執して処置が遅くなれば、患者が死んでしまうことがあります。
早い時期で、医者は診断の誤りを認め、正しい診断を下すべくデータを集めたり、専門医の意見を求めたりします。
自分たちの立てた最初のストーリーに固執する検察官は、医者だったらやぶ医者ですね。
患者を死なせてしまいます。
医者は責任を問われますが、検察官個人が責任を問われることはありません。
おかしな組織です。

獅子風蓮