獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

朝井まかて『ボタニカ』 その6

2023-10-26 01:34:23 | 読書

これまで見てきたように実際の牧野富太郎とドラマの槙野万太郎にはだいぶ言動に違うところがありました。

そんなこんなで、『ボタニカ』の内容をそのままドラマにしたら、お茶の間の奥様たちの多くは目をそむけたかもしれません。
実際、私がとくとくと本の内容を、妻に話して聞かせると、
「聞くんじゃなかった。恨む」と言われました。

さて、実際の富太郎が、このような男性であったとしても、当時の時代背景を考えると、それほど倫理に反するとはいえないでしょう。
郷里の正妻とは別に、赴任先でお妾さんを囲っていた幕末の志士や明治の有力者はざらにいます。
ちょっと思いつくだけでも、西郷隆盛の愛加那さんとか、吉田松陰の妹を娶った久坂玄瑞の場合は京都の芸妓お辰とか。渋沢栄一にもお妾さんはいたし。

時には、スエの気持ちを考えずに行動する富太郎でしたが、スエと子どもたちに対する愛情は深いものでした。
でも、草花の採集のため、家を空けることが、半端なく多かった。

こんな富太郎ですが、周囲の人から愛されていたのは、ドラマの万太郎と同じです。


思うのですが、ドラマを制作するにあたり、当時の時代背景を詳しく伝えながら正確に人物を描けばいいというものではないでしょう。
そういう意味で、牧野富太郎の本質を失わずに、周囲に好かれるキャラクターという共通点を持った万太郎を描き出した脚本家の腕は素晴らしいと思いました。


鎌倉時代を生きた日蓮を、現代人の目から批判的に評価することはいくらでもできるでしょう。
「四箇格言なんてナンセンス」
「法華経至上主義なんて誤り」
しかし、鎌倉時代を生きた日蓮の本質を抽出し、それを現代人にも受け入れられるように再構築してみせることも必要ではないかと思います。

私はかつて、対話ブログで参加者の質問をきっかけに、レヴィストロースの「構造主義」を持ちだしましたが、構造主義的に言えば、鎌倉時代の日蓮の本質を〈構造〉として取り出すのです。
その時々で、もっとも正しいことは何か、徹底的に調べること。
「智者」にその義が破られれば、あっさりそれを認めること。
正しいことを広めるためには、権力者がいかに弾圧をかけても屈しないこと。
それらを〈構造〉として現代にも活かしていきたい。


私はそう考えます。


獅子風蓮


朝井まかて『ボタニカ』 その5

2023-10-25 01:58:01 | 読書

NHKの朝ドラ「らんまん」、良かったですね。

私の中では、「らんまん」ロスがまだ治っていません。

さて、アメブロでも書きましたが、ドラマの主人公・槙野万太郎は、モデルである牧野富太郎とは少し違っていたようです。

牧野富太郎と槙野万太郎(2023-09-28)


朝井まかて『ボタニカ』という本があります。

『ボタニカ』
日本植物学の父・牧野富太郎愛すべき天才の情熱と波乱の生涯。明治初期の土佐・佐川の山中に、草花に話しかける少年がいた。名は牧野富太郎。小学校中退ながらも独学で植物研究に没頭した富太郎は、「日本人の手で、日本の植物相を明らかにする」ことを志し、上京。東京大学理学部植物学教室に出入りを許されて、新種の発見、研究雑誌の刊行など目覚ましい成果を上げるも、突如として大学を出入り禁止に。私財を惜しみなく注ぎ込んで研究を継続するが、気がつけば莫大な借金に身動きが取れなくなっていた…。貧苦にめげず、恋女房を支えに、不屈の魂で知の種を究め続けた稀代の植物学者を描く、感動の長編小説。

私の敬愛する牧野富太郎先生をモデルにした小説です。

朝井まかて『ボタニカ』の文章を一部引用して、記憶に残しておこうと思います。
今回はその続きです。

興味のある方は、是非書籍を実際に読んでみてください。
とても面白いです。

朝井まかて『ボタニカ』(祥伝社、2022.01)

□1)岸屋の坊(ぼん)
□2)草分け
□3)自由
□4)冬の庭園
□5)ファミリー
□6)彷徨
□7)書(ふみ)読め吾子(わがこ)
□8)帝国大学
■9)草の家
□10)大借金
□11)奇人変人
□12)恋女房
□13)ボタニカ


9)草の家

(つづき)
片目を開くと、池野が覗き込んでいた。
「大丈夫かい」
目瞬きをして、眼鏡の蔓を動かした。見慣れぬ天井だ。鼻を動かせば、なんとも言えぬ臭いだ。
「や、寝てしもうたか。これは失敬した」
胸焼けがしそうだ。すき焼きは大好物だが、宴の後に淀む獣臭さはどうにもいただけない。身勝手なものだと思いながら伸びをすれば、欠伸が洩れる。他に何組もあった客がおらず、女中が迷惑げにこちらを窺いながら卓の片づけをしている。
「あれ、平瀬君は」
「帰ったよ。京都への汽車の時間がある」
「そうか、それは申し訳ないことをした」と立ち上がり、池野と共に廊下へ出た。手水を使ってから玄関に下り立ち、「そういえば」と思い出して帳場の番頭を呼ぶ。
「君、勘定」
「いえ、先に頂戴しております」
さてはと池野を見上げたが、もう玄関外へ出ている。蝦蟇口を懐に仕舞い、「すまんね」と声をかけた。
「君らを祝うつもりで一席設けたのになあ。しかも平瀬君に『増訂草木図説』を献呈したいと思うておったに、そいつも忘れた。講釈師がついに詐欺を働いた」
「違いない」
笑いながら歩く。繁華な浅草の町並みの向こうで、12階建ての塔がそそり立っている。
凌雲閣、12階とも呼ばれる八角形の高塔だ。地上から10階までは赤煉瓦造り、11階と12階は木造で、窓が建物全体で176個もあるらしい。夕暮れともなればすべての電灯がともり、その光は八方を照らしながら公園の大池に落ち、水面(みなも)をもう一つの夜空にする。
だが今は午後3時を過ぎた頃合いで、キンと音を立てそうなほど冬が澄んでいる。ようやく酔いが抜けた。池野が「そうだ」とふいに足を止め、大榎の幹に身を寄せた。枝下で洋鞄を開け、中から薄い冊子を取り出す。
「進呈する」
桔梗が描かれた表紙で、モダンな意匠だ。しかし題は「三越」と、高雅な文字が横に組まれている。三越呉服店が出している冊子のようだ。
「いやあ、なかなか縁がない。帳面で買物をさせてくれるなら、たまには妻子を連れていってやりたいが」
「よせよせ、これ以上、借金を増やすんじゃない。いや、載ってるんだよ、森博士の小説が」
「森博士って、あの」
「そうだ。植物園にお越しになっている森閣下だ。『田楽豆腐』という小説を載せておられる」
「君はよほど、豆腐が好きじゃな」
「豆腐は出てこん」と、池野は怒ったように口を尖らせた。

あれはいつの初夏だったか。
大学の植物園の四阿(あずまや)で、書物を開いている紳士の姿を見かけたことがある。白の大島らしき着物に褐色の帯、頭は無帽で短髪だ。遠目であったので容貌をしかと見ることはかなわなかったが、書物に向かう横顔は額が秀で、カイゼル髭も凜々しいので軍人かと察しをつけた。
富太郎は白衣をつけて苗の木箱を運んでいる最中だった。女の子の声がして、「パッパ」と聞こえた。池の前に張った芝生だ。明るい夏着物の女の子で、小学生にはなっていそうな背丈だ。頭には西洋人形のようなリボンをつけ、瞳をいっぱいに見開いて四阿に向かって駆けた。毬が弾むようだ。
「まりちゃん、いけませんよ。転びますよ」と声がして、芝生の上にうら若い婦人が小さな女の子と共に坐っている。かたわらには西洋の乳母車が置いてあり、どうやらこの人たちは一家で散策に訪れたらしいと気がついた。
四阿の読書人が陸軍軍医総監、森林太郎であることは後に知った。森閣下が鴎外という号を持つ文豪であることは承知していたが、そもそも昨今の小説には親しまぬ方針だ。しかし園丁らが言うには、閣下は植物について造詣が深く、一家での散策のみならず草花の名前を確かめるために植物園を訪れることもあるらしい。
池野成一郎がくれた「三越」に載っていた『田楽豆腐』なる小説は、まさにその植物園行きについて夫人が訊ねるところから始まる。冒頭の数行で、富太郎の中に一家の姿が再び立ち昇った。
パッパと呼ばれてゆっくりと顔を上げた閣下の、なんと寛いでいたことか。読書を中断させられても眉一つ動かすことなく、むしろこの世で最も大切なものを扱う手つきで娘を抱き上げ、膝の上にのせた。父親なるものは世に五万といるが、ああいう微笑み方をする人を富太郎は初めて見た。閣下は池越しの築山の彼方を指さして、娘の耳許で何か囁いていた。あれは樹木の名前を教えていたのだろうか。それとも鳥か雲、風の色だろうか。
まるで白昼の夢か、幻のごとき景だった。夫人と子供たちの佇まいも、初夏の陽射しに揺れる芝草も。
あの時、森閣下だとすぐにわかっても、富太郎はずかずかと近寄ることなどできなかっただろうと思う。本当は、礼を述べるべき一件があった。明治40年に刊行した『増訂草木図説』の一輯草部だ。
基は飯沼慾斎翁の『草木図説』で、これは旧幕時代のものでありながら近代的な図譜の実用性を持っており、江戸本草学の流れを汲む者は皆、この図譜に導かれて学問してきた。ゆえに明治8年、田中芳男と小野職愨は解説を翻刻し、『新訂草木図説』として刊行している。富太郎はその図説にさらに増訂と解説を加え、『増訂草木図説』として生まれ変わらせたのである。今の時代に即して改訂することは、今を生きる学者の使命だ。
ところがオランダダンドクという植物についての項で不明の文言があった。学名は 「Canna patens Rosc.」、旧幕時代に渡来して「カンナインヂカ」と呼ばれていたことを飯沼翁は記し、その後にこう続けている。
――普通ニカンナインヂカノ名ヲ以テ持リ此種ニ称スルハ舌人ノ訛伝ニ出ルナリ
この「舌人」の意味がどうしてもわからなかった。「補」で、本種の原産地は未詳であること、そして本文中の舌人とは古人、あるいは世人を指した語句ではないかと推した。「カンナインヂカ」という名称は、昔の人間、あるいは本草家でない者が訛って言い慣わしてきたものに由来すると翁は述べておられるのだろう、と。
ところが「舌人とは通詞、通訳人のことだ」と教示を受けた。その主が森閣下で、大学を通じての伝言であった。謎を括(くく)っていたリボンが一度に、するりと解けた。 カンナインヂカという名は「蘭人から聞いた通訳人の誤伝である」と、慾斎翁は指摘していたのだ。それは日本人同士でも起きることで、富太郎はどんな土地に足を運んでも古老に会って植物名を教えてもらうようにして久しいが、訛りの強い地方では耳で聞き取るだけではしばしば誤りを生じる。
あの日の感激を久しぶりに思い出した。閣下のおかげを蒙って、明治41年の一輯再版時に「補」の当該箇所を削除することができたのだ。4年後、この11月に至っては、『増訂草木図説』の三輯と四輯の稿をほぼ書き終え、年明け正月に刊行される運びとなっている。
富太郎は文机の上に原稿用紙を広げ、巻末ノ言を記す。
日本の植物名は古来用いられてきた漢名が幾種類もあり、仮名も混用している。科名についてもしかりで、長らく漢字仮名混用の時代を続けてきたためだが、現代の学名は羅(ラテン)語であるのだ。向後、植物名は仮名で表記すべしとの持論を述べ、全巻に通じる人名、たとえば翁が「林氏」と記しているのはリンネ氏のこと、「西氏」はシイボルト氏のことであるなどの注を補足した。そして末尾、舌人についての記述が間違っていたこと、誤りを指摘して正しく教示してくれた「鴎外森先生」への感謝を謹んで述べた。
学問は底知れぬ技芸だ。浅薄な推測で野道を進めば、思わぬ崖道であったりする。しかしこうして、進むべき道標を立ててくれる人もまた現れる。
筆を擱(お)けば、またも深更になっていた。再び「三越」を手に取り、『田楽豆腐』を開く。池野が言った通り豆腐は出てこない。植物園に立ててある植物の名札を、田楽豆腐のような札だと見ているらしい。確かに、竹串に刺したような長方形の札だ。
いつか園丁に聞いたが、植物への造詣が並々ならぬことは文章の折々でも察せられた。自らの手で庭を丹精していることも。主人公の木村は閣下自身なのだろうかと気になって、富太郎はまた冒頭に戻った。台所から夫人に「今何をしていらっしゃるの」と問われて、主人公はこう答える。
蛙(かえる)を呑んでいる最中だ。
エミール・ゾラの言葉を引いたものらしく、作者なるものは、毎朝、新聞で悪口を言われなくては済まないらしい。それをぐっと呑み込むのだという。生きた鮭を丸呑みするつもりで呑み込 むのだ、と。
その条が胸に迫ってきた。まるで池野が今日の富太郎の告白を予測していたかのようだ。
閣下も呑み込んでおられるのか。
僕は今日、いったん呑み込んだ鮭を全部吐き出してしもうた。なんたる小人。
独り笑い、また頁を繰った。小説にも真実はあるらしい。
(以下省略)

 


富太郎先生は、文豪森鴎外とも接点があったのですね。

冒頭に戻った。台所から夫人に「今何をしていらっしゃるの」と問われて、主人公はこう答える。
蛙(かえる)を呑んでいる最中だ。
エミール・ゾラの言葉を引いたものらしく、作者なるものは、毎朝、新聞で悪口を言われなくては済まないらしい。それをぐっと呑み込むのだという。生きた鮭を丸呑みするつもりで呑み込 むのだ、と。
その条が胸に迫ってきた。まるで池野が今日の富太郎の告白を予測していたかのようだ。
閣下も呑み込んでおられるのか。
僕は今日、いったん呑み込んだ鮭を全部吐き出してしもうた。なんたる小人。
独り笑い、また頁を繰った。小説にも真実はあるらしい。

富太郎先生は、鴎外の小説から、心ない批判をかわす術を教わる。

僕は今日、いったん呑み込んだ鮭を全部吐き出してしもうた。なんたる小人。
独り笑い

私も、教訓としたいエピソードです。


獅子風蓮


朝井まかて『ボタニカ』 その4

2023-10-24 01:41:07 | 読書

NHKの朝ドラ「らんまん」、良かったですね。

私の中では、「らんまん」ロスがまだ治っていません。

さて、アメブロでも書きましたが、ドラマの主人公・槙野万太郎は、モデルである牧野富太郎とは少し違っていたようです。

牧野富太郎と槙野万太郎(2023-09-28)


朝井まかて『ボタニカ』という本があります。

『ボタニカ』
日本植物学の父・牧野富太郎愛すべき天才の情熱と波乱の生涯。明治初期の土佐・佐川の山中に、草花に話しかける少年がいた。名は牧野富太郎。小学校中退ながらも独学で植物研究に没頭した富太郎は、「日本人の手で、日本の植物相を明らかにする」ことを志し、上京。東京大学理学部植物学教室に出入りを許されて、新種の発見、研究雑誌の刊行など目覚ましい成果を上げるも、突如として大学を出入り禁止に。私財を惜しみなく注ぎ込んで研究を継続するが、気がつけば莫大な借金に身動きが取れなくなっていた…。貧苦にめげず、恋女房を支えに、不屈の魂で知の種を究め続けた稀代の植物学者を描く、感動の長編小説。

私の敬愛する牧野富太郎先生をモデルにした小説です。

朝井まかて『ボタニカ』の文章を一部引用して、記憶に残しておこうと思います。
今回はその続きです。

興味のある方は、是非書籍を実際に読んでみてください。
とても面白いです。

朝井まかて『ボタニカ』(祥伝社、2022.01)

□1)岸屋の坊(ぼん)
□2)草分け
□3)自由
□4)冬の庭園
□5)ファミリー
□6)彷徨
□7)書(ふみ)読め吾子(わがこ)
□8)帝国大学
■9)草の家
□10)大借金
□11)奇人変人
□12)恋女房
□13)ボタニカ


9)草の家

(つづき)
あくる明治44年、千葉県立園芸専門学校の講師嘱託も依頼された。帝室博物館天産課の嘱託もすでに何年も続けていたので、帝大も併せれば三つの嘱託だ。嘱託身分のまま、12月末に『普通植物検索表』を刊行した。三好学教授との共編で、著作権者は文部省だ。西洋の手帳サイズで、富太郎は以前から携行できる袖珍本型の図鑑を刊行できぬものかとの考えを持っていた。だが文部省が乗り出したのは、2年前に亡くなった箕作佳吉博士が生前、尋常小学理科書の編纂委員長を務めていた際の提言が基になっている。
――小学校の理科の授業で植物について教えようにも、教師自身が植物の名前をよく知らぬのが実情だ。ゆえに子供たちを校外観察に連れ出しても、正しく教えることができぬ。簡易なる植物検索表を編纂し、形状を携帯できるものにすべし。
文部省はこの提言を受け、三好学教授と富太郎に編纂を委嘱したのである。
掲載した草本植物は東京近郊でごく普通に出逢うものの中から約600種を選び、さらに東京近郊の開花時期を標準として月別の掲載とした。2月から11月までを月ごとに区切り、順に植物を紹介するという編集だ。たとえば3月に観察に出れば、花の形と大きさ、葉や根茎の特徴から、これはセツブンソウだと検索でき、生徒に教えられるようになっている。コスミレやアオイスミレ、ソラマメ、そしてバイカオウレンも3月の欄に掲載した。
本来であれば図解も添えるべきなのだ。図さえあれば一目瞭然、間違って生徒に教える危険性も減じられる。しかしその予算も日数もなく、本編は文章のみの解説にとどまった。せめてもの簡便を図るべく、巻末には五十音順の索引と専門用語の解説を付けた。すべてとはいかなかったが線画も添えた。葉の縁の「鋸歯」など、文章だけでは鋸状のギザギザを指しているとは想像の及びにくい術語が多いためだ。
同じ12月末に、東京帝国大学編『大日本植物志』第1巻第4集も刊行した。大学の編纂となっているが、これも富太郎が主になったものだ。当然だ。『大日本植物志』は、この牧野富太郎が人生を賭して為すべき仕事である。
そして年が明けて明治45年、東京帝国大学理科大学講師の辞令を受けた。奇妙なことに、この顛末まで前回と似ていた。嘱託身分から「助手にしてやる」、今回は「講師にしてやる」と糸を垂らされた。意地を張って妻子を飢えさせるわけにはいかない。パクリと口を開けて喰いついた。

7月30日、天皇が崩御、世は大正元年となった。
9月13日には大喪の儀が執り行なわれ、文部省でも奉悼式が行われたので富太郎も参列した。町もようやく自粛の体を解いて冬を迎え、今日はまた小春日和であるので浅草公園界隈も大変な人出だ。
醤油の焼けた甘辛い匂いが、鉄鍋から立ち始めた。さっそく手を伸ばし、牛肉の一切れを箸で摘まみ上げる。牛鍋屋ができてまもない時分は角切りの肉で味噌仕立てであったが、この頃は薄切りの肉に砂糖と醤油で味を作る店が増えた。すき焼きと名づけた店もある。なるほど、表面積でいえば角切りよりも大きいので味がよく絡むのかもしれんと納得しながら舌鼓を打ち、洋杯を傾ける。国産の葡萄酒で赤玉ポートワインという銘柄だ。壽屋という社名の他はすべて英文で表され、意匠も洒落ている。
「牧野君、いつから呑むようになった。君は下戸だったろう」
池野成一郎が豆腐を自身の取皿に移しながら訊いてきた。
「赤玉は甘いき呑みやすいがよ。知っての通り、赤貧洗うが如し舌耕殆ど衣食を給せずの身の上、葡萄酒なんぞ滅多と口にできんがね。しかし今日はあなた方の祝いじゃいか。さ、平瀬君も葱ばかり喰っておらんと」
平瀬作五郎の皿に牛肉を入れてやり、赤玉を注ぐ。髭の剃り跡が青々としていた顎には白いものが増え、少し痩せもしたようだ。だが野武士のごとき風貌は変わりない。池野は休日とあってくだけた洋装だが、さすがは理学博士らしく紳士然とした風姿だ。富太郎はといえば、草臥れた着物に薄い綿入りの羽織、頭は箒木のごとく伸びている。
平瀬が昨日の土曜から所用で上京してきて池野の家に泊まっていると聞いたので、「ぜひに」と誘ったのは富太郎であった。しかし不覚にも、招いた側が1時間以上も遅刻した。いつものごとく夜の更けるにもかまわず著述を続け、標本と書物の隙間に手枕で横になったのが明け方、起きたら約束の時刻が迫っていた。大慌てで小石川の家を飛び出し、人力車を走りに走らせて浅草に辿り着いた。
「いや」と胡坐の膝に手を置き直し、二人に小さく頭を下げる。
「祝いがかくも遅うなったが、おめでとう」
半年前の5月12日、二人は帝国学士院恩賜賞を受けたのである。平瀬は『公孫樹の精虫の発見』、池野は『蘇鉄の精虫の発見』の業績を認められたもので、日本の学術界では最高とされる賞だ。
二人は辞儀を返し、顔を上げた平瀬が目尻にやわらかな皺を寄せた。
「明治から大正へと御世を越えても、私を忘れずにいてくださった。それだけで恐悦至極、有難いですよ」
洋杯を口許に運び、静かに、しみじみとした風情で傾けている。
「今も、中学校で教鞭を執っておられるがでしょう。僕も郷里の小学校で臨時教員をしておったことがありますが、子供は実に面白いものでしたな。あの時分は採集道具にブリキ箱を携えておって、それが歩くたびガチャガチャと鳴るもんで陰で轡虫(クツワムシ)と綽名(あだな)しておったようです。まったく、子供の着想にはかないません」
明治10年のことで、富太郎はまだ16歳だった。
「中学生も同じですよ。教えながら、思いも寄らぬことに気づかされます」
「公孫樹の精虫の発見についても、生徒らは聞きたがるでしょう」
すると平瀬の頬が平たくなり、面持ちが改まった。
「その話はしません」
生真面目な低い声だ。「それはもったいない」と、富太郎は首を傾げる。
「ああも臭い実から種子を取って、仁(さね)を剃刀(かみそり)でスライスし続けたじゃありませんか。生徒らはその過程を聞きたがると思いますがなあ。顕微鏡の中で精虫が蠢くのを初めて目にした件(くだり)など、胸を躍らせて聴き入るは必定ですぞ」
「確かに、君なら大演説を打つだろうな」
池野が揶揄するように言い、「君の講演は全国の植物愛好家に大人気だそうじゃないか」と話柄をこなたに向ける。平瀬はついと片眉を上げた。
「講釈師になれますな」
平瀬君はこうだったと、膝が弾みそうになる。謹厳でありながら、ふとした拍子に可笑しいことをシャボン玉のように吐く。
「なら、今度大学を馘(くび)になったら講釈師にでもなりますかな。いや、実際、植物の講演で全国を巡業しとるようなもんですよ。去年は東京植物同好会なる会も創立され、会長を引き受けさせられました」
富太郎は今年の一月から東京帝国大学理科大学講師を拝命し、大学に復帰を果たした。
ぐつぐつと煮える鍋の中を覗き、箸でつつく。水気が出てか眼鏡が曇ってしかたがない。
「池野君、豆腐しか喰っておらんじゃないか。豆腐がそうも好きだとは知らんかった」
「僕も牛肉が好きだが、君の箸の素早さに負けるのだ」
池野は眉を八の字に下げている。
「それはすまんことをした。僕は育ちがいいものでね」と笑いながら、女中を呼んで牛肉の追加を頼んだ。俸給30円の大学講師にとっては大盤振る舞いだが、今日は他ならぬ二人を祝したい。
「君はまったく健啖家だよ。夜も寝ずに著述をして日中は採集に講演会、それに大学の講義だろう?」
「講義や実習は担当しておらんが、学生らには好きなことを喋りゆう」
大学には腹に据えかねることが多いが、学生と接する時間は愉快だ。彼らの前に立つと、己の持つ知識、経験をすべて捧げたくなる。学生らもまたよく懐いてくる。時には自室で珈琲を振る舞い、植物談義に興じる日もある。やがて夕焼けの赤い陽で窓が染まっても喋り続ける。すると若者の瞳が独特の澄んだ光を帯びて輝く瞬間がある。若草の匂いがする。
「それで、子供もわんさか作る。今、何人だ。しじゅう君の家を訪ねてはいるが、数え上げるのはもう何年も前に放棄した」
「今は七人ある」
そう言うと、平瀬が目を丸くした。
「牧野君も偉いが、奥方も偉いですな」
「さようです」と、富太郎は謙遜などしない。本当は8人だったのだが、今年の2月に生まれた六男の富世があの世へ帰った。乳児脚気と穿孔性中耳炎を患っての死で、この世にいたのは3ヵ月に満たなかった。
「うちの細君は大した女ですよ。出産してまだ3日目という日に起きて、債権者の家まで足を運ぶんだなあ。相手先はいずこであったか、一日がかりの遠方でね。まあ、債権者に頭を下げて向こうがうんといえども差し押さえを待ってくれるだけのことで、借金が消えるわけじゃないが」「今、いくらあるのだ」と、池野が女中から新しい牛肉の皿を受け取った。富太郎は菜箸を持ち直し、鉄鍋にさっそく放り込む。「わからん」と答えた。「二万円くらいにはなっておるかもしれんなあ」
「まったく、君という奴は。禄が30円の男が2万円の借金とは只事ではないぞ。笑いながら言うんじゃない」
その通りだが、嘆いて借金が減るわけでもない。齡51、子供が7人あって、いちばん上の香代はもう21歳だ。何年か前からポツポツと縁談が舞い込んでいるようだが、父親が素浪人の大貧乏では進む話も進まず、壽衛はかなり気を揉んでいたらしい。富太郎がようやく大学に戻り、壽衛が「さあ」と前のめりになったその矢先に天皇の御不例、崩御があり、帝都はしばらく喪に服した。
しかしやがて「大正」を屋号に用いた店が町に溢れるようになり、庶民の間では喪章が流行した。葬儀の行なわれた青山練兵場に向かう葬列のさまを目にして、真似をする者が続出したのだ。小学生になった春世と百世、勝世までが揃って上着の袖に黒布を巻いており、驚いて壽衛に訊ねると「駄菓子屋さんで売っているのですよ。子供向けに。あまりに欲しがって家のお手伝いをするので、根負けしてしまいました」と苦笑した。子供はとかく大人の真似をしたがるものだが、喪章も颯爽と勇ましい姿に映ったのだろうか。
「僕のことはもう、いい。二人の祝いじゃないか。それにしても、今頃、思い出したように学士院恩賜賞を授賞とは、日本は相変わらず遅いね」
欧米の学界を驚嘆させた世界的発見からほぼ15年を経て、ようやく日本でも正式に功績が認 められた恰好なのだ。
「無茶を言うな。賞の創設が去年だぞ。我々は第二回の受賞者だ」
「それは知っとるよ。知っているが、僕はあえて言うのだ。日本人は欧米の学者を闇雲に崇拝するが、いや、この僕もその傾向があるのは認めるが、我が国の先達の偉業も常に忘れておらん。ゆえに旧幕時代の大本草学者、飯沼慾斎先生の『草木図説』を復刻している」
と口にして、思い出した。平瀬への土産のつもりで、『増訂草木図説』の一輯と二輯を用意してあったのだ。すっかり忘れ、とりあえず蝦蟇口を懐に突っ込んで家を飛び出してきた。
「日本人は日本人を不当に低う評価する。同胞の功績には冷淡が過ぎる」
理学博士である池野が此度の賞を受けるのは当然とも言えるが、学士の学位を持たぬ平瀬の受賞は異例中の異例だとされている。実際、当初は平瀬への授賞は予定もされていなかったらしいと耳にした。だがそれを知った池野が「平瀬がもらわないのなら私もお断りする」と突っぱねたらしい。
二人を順に見たが、池野も平瀬も何も言わない。ならば手前が代弁しようと、富太郎は赤玉を注いでぐいと呷(あお)った。
「僕も突っぱねたかったよ。今さら講師の口など要らん、一家が路頭に迷おうとも己一人で研究を続けてみせると言い放って席を立ちたかった。だが、大学の持つ書物を照覧できぬのは辛い。まったく、これほどの痛手は他にないゆえ、折りとうもない我をまたも折った」
己の言葉に昂(たかぶ)ってくる。今も松村教授とは剣呑なままで、廊下ですれ違っても冷たい一瞥を投げられるだけだ。捨てても捨てても帰ってくる犬を見るような目つきだ。
「学問の下では、皆、平等のはずだろう。しかし学位を持たぬ僕は、大学では学者ですらない。まったく、裸にすれば、学者ほどもののわからぬ者はないね。ふだん大きな顔をしておってもいざとなれば陰で妬み嫉み、表で綺麗な弁を述べても心は実に小さい。いや、池野君、あんたは立派な博士だが、あえて言わせてもらう。植物標本を大学に納めぬから私していると非難にかかるが、そっちこそじゃないかと僕は言いたい。目下の者を顎でこき使うて、あれを調べろこれを調べろ、間違うな、論拠を示せ、標本を出せ。学者こそ泥棒だ」
池野はうん、うんとうなずきながら焦げた豆腐を喰い、平瀬は黙って赤玉を呑む。
二人は高潔だ。近代日本の紳士と野武士だ。世俗まみれ借金まみれの凡人が酔っていかに憤慨しようが、決して尻馬には乗ってこない。ゆえにこの二人が相手なら吐き出すことができる。
「なにゆえ、こうも安う扱われる。いつまでも、なんで」
卓を叩いて息まきながら傷口の深さを知った。誰かに疎まれ、鼻紙のごとく扱われるのは、かくも苦しい。しかしそれでも大学にしがみついておらねば生きてゆけぬ。
また卓を叩けば皿が動き、胡坐から突き出した股引の上に箸が落ちた。
平瀬が「私は在野で気楽です」と、白滝を啜った。
「また研究も始めるつもりです」
「ほう。何の研究ですか」と箸を拾いながら顎を上げれば、「マツバランの発生順序らしい」と池野が代わりに答えた。
「紀州に怪物のような男がいる。南方熊楠といってな。なんでも18ヵ国語を操るらしい。ほら、神社の合祀に反対して大運動を起こして、衆議院でも議員が質問に立ったことがあっただろう。民俗学者の柳田國男が南方の考えに共鳴して運動に参加し、各方面に南方の書簡を印刷して配布した」
「僕のところにも届いたよ」
柳田國男は亡くなった矢田部とは縁続きにある。矢田部の没後に妻の末妹と結婚、柳田家の養子に入った。
「平瀬君は、その南方と共同研究するんだそうだ」
そうかと、胡坐を組み直した。
「南方も知っとるよ。以前、僕に同定を頼んできたことがある。和名はキノクニスゲなる植物だ。調べたところ、学名がまだなかった。つまり新種として発表できると踏んだが、あいにく松村教授の採集が先だった」
ゆえにスゲの学名に入ったのは松村の名であり、Minakataは入らなかった。富太郎は「だが」と続けた。
「不思議な男でなあ。『ネイチャー』に論文が掲載されるほどの男がなにゆえわざわざ他人を介して依頼してきたのか。堂々と自身が送ってくりゃいいものを」標本を送ってきた後も手紙を何度かよこし、やはり途方もなく文章が緻密だ。論旨は放埒ともいえる展開を見せ、波紋のごとく果てがない。しかも文章の合間にゆらゆらとキノクニスゲやモミラン、ヤシャビシャクの図が挿入されていたりする。
「変わり者らしいからな。倫敦(ロンドン)を素裸で歩いたとか、今も下半身をむき出して暮らしておるとか、奇行が多いらしい」と池野は言い、平瀬はそれを否定もせず鍋に白滝を放り込む。 ややあって口を開いた。
「南方さんの住居(すまい)にマツバランを植えて、実地検証してもらうんです。私は毎年京都から田辺に出向いて南方さんの報告を受け、生本を京都に持ち帰って解剖検鏡する。まあ、そういう取り決めをしましてね。発生順序の調査研究ですから、なにしろ時がかかります。10年、あるいはそれ以上かかりましょう」
「ということは、資金もかかる」と池野が言えば、平瀬は茶目な目をした。
「恩賜賞の賞金がありますから。賞金が元手です」
「なるほど。最高の使い途じゃないか。いや、平瀬君と南方君なら、また歴史的大発見になること間違いない」
鍋に箸を伸ばしたが、牛肉が残っていない。
なんでじゃろう。この二人と会うと愉しゅうて堪らぬのに、結句は気分が落ち込む羽目になる。なぜだ。
(つづく)


ドラマの中だけではなく、牧野富太郎先生は、池野成一郎(ドラマの波多野泰のモデル)と平瀬作五郎(ドラマの野宮朔太郎のモデル)とは仲が良かったのですね。
やはり、牧野富太郎先生は、人に愛される何かを持っていたのでしょう。

ただ、富太郎は、気を許した仲の二人を前にして、赤玉ポートワインの酔いも手伝って、つい愚痴をこぼしてしまう。

 

私も、大学に残って研究者として進む道は選ばず、一般臨床に進み、開業しました。
地域の子どもたちと周りの家族の健康を守る仕事は、十分にやりがいがあるのですが、ふと偉くなっていった同級生を眩しく思ってしまうことがあります。

富太郎の気持ち、よく分かります。


獅子風蓮


朝井まかて『ボタニカ』 その3

2023-10-23 01:36:50 | 読書

朝井まかて『ボタニカ』 その3

NHKの朝ドラ「らんまん」、良かったですね。

私の中では、「らんまん」ロスがまだ治っていません。

さて、アメブロでも書きましたが、ドラマの主人公・槙野万太郎は、モデルである牧野富太郎とは少し違っていたようです。

牧野富太郎と槙野万太郎(2023-09-28)


朝井まかて『ボタニカ』という本があります。

『ボタニカ』
日本植物学の父・牧野富太郎愛すべき天才の情熱と波乱の生涯。明治初期の土佐・佐川の山中に、草花に話しかける少年がいた。名は牧野富太郎。小学校中退ながらも独学で植物研究に没頭した富太郎は、「日本人の手で、日本の植物相を明らかにする」ことを志し、上京。東京大学理学部植物学教室に出入りを許されて、新種の発見、研究雑誌の刊行など目覚ましい成果を上げるも、突如として大学を出入り禁止に。私財を惜しみなく注ぎ込んで研究を継続するが、気がつけば莫大な借金に身動きが取れなくなっていた…。貧苦にめげず、恋女房を支えに、不屈の魂で知の種を究め続けた稀代の植物学者を描く、感動の長編小説。

私の敬愛する牧野富太郎先生をモデルにした小説です。

朝井まかて『ボタニカ』の文章を一部引用して、記憶に残しておこうと思います。
今回はその続きです。

興味のある方は、是非書籍を実際に読んでみてください。
とても面白いです。

朝井まかて『ボタニカ』(祥伝社、2022.01)

□1)岸屋の坊(ぼん)
□2)草分け
□3)自由
□4)冬の庭園
□5)ファミリー
□6)彷徨
□7)書(ふみ)読め吾子(わがこ)
□8)帝国大学
■9)草の家
□10)大借金
□11)奇人変人
□12)恋女房
□13)ボタニカ


9)草の家
(つづき)

翌4月半ば、学長に呼ばれた。「植物取調」の仕事を嘱託で引き受けぬかとの打診だ。『大日本植物志』が完成していない以上、机上の学問では新種の同定も危うい。野山を踏査し、植物の実際を知悉した者がおらねば、研究は停滞する。
矢田部教授に教室への出入りを禁じられた時と同じ経緯だ。教授に疎まれて遠ざけられるも、「牧野がおらんと不便だ」と周囲から声が上がり、大学の上層部に掛け合う。そして呼び戻される。まったくもって胸糞が悪いが学長からの声がかりだ。富太郎自身、教室の膨大な文献資料がなければ植物分類学者としては苦しい。生活苦もある。ならぬ堪忍をして、嘱託を引き受けた。
ある日のこと、大きな包みが自宅に届いた。和歌山田辺在住の宇井縫蔵という生物研究者からだ。
和歌山は牧野家の遠祖の地である。昔、祖母様に見せられた系図によると、先祖は文禄か慶長の頃に紀州の貴志ノ荘から土佐に入ったらしい。当時の姓は鈴木、岸屋という屋号は在所の貴志にちなんだものだという。ゆえに紀州人からの音信は心なしか慕わしい。
中を開ければ大量の標本が入っていた。だが標本の送り主は宇井縫蔵ではなく、田辺在住の南方熊楠という人物だ。首を傾げながら宇井の添え文に目を通せば、熊楠は富太郎の5歳下、幼い頃より『本草綱目』や『大倭本草』に親しみ、長じて東京大学予備門に入ったものの単身亜米利加に渡るべく日本を出たのが明治19年だという。その地でコンラード・ゲスネルの伝記を読み、熊楠は「日本のゲスネルとならん」と決意したらしい。ゲスネルは瑞西(スイス)の博物学者で、隠花植物の研究家だ。物理学にも通じた博覧強記、多才な人物であることは富太郎も知っている。この男、日本のゲスネルとは、大きく出よったの。
富太郎はクスリと笑い、さらに読み進めれば、明治22年には富太郎のかかわっている 『植物学雑誌』と『日本植物志図篇』を日本から取り寄せて読み、欽仰(きんぎょう)の念を抱いたという。
ほうと、富太郎はますます気をよくし、「より、世界のマキノ」と己に大向こうをかける。
熊楠はやがて新種の緑藻であるピトフォラ・ヴァウシェリオイデスを発見。科学雑誌『ネイチャー』に発表した。さらに玖馬(キューバ)でも新種の地衣類を発見、英吉利(イギリス)に渡って大英博物館の収蔵品を見学するや世界の民俗学、博物学に目を開き、明治26年には『ネイチャー』に「東洋の星座」なる論文を寄稿、大きな反響を呼んだ。
富太郎はもう笑っていなかった。動悸がして、呼吸までが浅くなっている。
とんでもない男がおったもんじゃ。しかも在野に。
熊楠は帰国後、和歌山の那智勝浦で採集に気を入れ、田辺に移り住んだ今も採集に明け暮れているらしい。そのうちの標本がこの荷包みで、富太郎に同定を依頼してきたのだ。熊楠本人からの手紙の封を切れば、6枚もの洋紙の罫紙である。
「なんじゃ、これは」
眼を剥いた。びっしりと細かい字が延々と並んでいる。富太郎も松村に「牛の涎のようだ」と眉を顰められたが、涎どころではない。
顕微鏡の中で蠢く菌のようだ。

(つづく)


牧野富太郎先生は、かの有名な南方熊楠も交流があったのですね。

興味深いです。


獅子風蓮


朝井まかて『ボタニカ』 その2

2023-10-22 01:22:42 | 読書

 

NHKの朝ドラ「らんまん」、良かったですね。

私の中では、「らんまん」ロスがまだ治っていません。

さて、アメブロでも書きましたが、ドラマの主人公・槙野万太郎は、モデルである牧野富太郎とは少し違っていたようです。

牧野富太郎と槙野万太郎(2023-09-28)


朝井まかて『ボタニカ』という本があります。

『ボタニカ』
日本植物学の父・牧野富太郎愛すべき天才の情熱と波乱の生涯。明治初期の土佐・佐川の山中に、草花に話しかける少年がいた。名は牧野富太郎。小学校中退ながらも独学で植物研究に没頭した富太郎は、「日本人の手で、日本の植物相を明らかにする」ことを志し、上京。東京大学理学部植物学教室に出入りを許されて、新種の発見、研究雑誌の刊行など目覚ましい成果を上げるも、突如として大学を出入り禁止に。私財を惜しみなく注ぎ込んで研究を継続するが、気がつけば莫大な借金に身動きが取れなくなっていた…。貧苦にめげず、恋女房を支えに、不屈の魂で知の種を究め続けた稀代の植物学者を描く、感動の長編小説。

私の敬愛する牧野富太郎先生をモデルにした小説です。

朝井まかて『ボタニカ』の文章を一部引用して、記憶に残しておこうと思います。
今回はその続きです。

興味のある方は、是非書籍を実際に読んでみてください。
とても面白いです。

朝井まかて『ボタニカ』(祥伝社、2022.01)

□1)岸屋の坊(ぼん)
□2)草分け
□3)自由
□4)冬の庭園
□5)ファミリー
□6)彷徨
□7)書(ふみ)読め吾子(わがこ)
□8)帝国大学
■9)草の家
□10)大借金
□11)奇人変人
□12)恋女房
□13)ボタニカ


9)草の家
……
「いい記事を頼みます」
互いに握手を交わした。

教授室を訪ねると、外出してしまった後だった。
若者が一人、脇机に残って書類の整理をしている。学生上がりの無給の助手で、父親は製薬会社の重役らしい。洋装も地味に拵えているが相当な上物だ。
「教授、怒っておられたか」
訊くと、顔も上げずに「怒っておられましたよ」と返した。
「明日、大目玉を喰うなあ」
笑い濁したが、相手は洋書を繰っては筆写している。取りつく島もないので立ち去りかけると、「牧野さん」と呼ぶ。振り返ると、若者は席から立ち上がっていた。背の高い男で、圧迫感がある。
「相談でも? 金の相談には乗ってやれんが、いや、君は内福だったか。学問の相談なら、なんでも乗るよ」
「相談ではなく、ご忠告です」
「忠告」と、爪先を回して真正面に立った。
「身のほどを弁えられないと、今に痛い目に遭いますよ」
「身のほどとはまた、たいそうな言種だ」
「僭越、逸脱が過ぎると言うのです。あなたは仮にも、この植物学科の助手ではありませんか。国に雇われている官吏ですよ」
「さよう。下級官吏だが、それがどうした」
「少しは松村教授をお立てになったらどうです。刊行物や論文に教授への謝辞を一文たりとも認めず平気な顔をして、学外の人気取りには熱心だ」
「人気取り?」
「講演会や採集旅行を盛んに開いて、小遣い稼ぎをしているそうじゃありませんか。今日も教授が呼んでおられるというのに、新聞記者の取材で反故にする。あなたは何様のつもりなんです。大学の秩序を乱すのもたいがいにしていただきたい」
「大学の秩序」と繰り返せば、白々としてくる。
「教授、助教授、講師、助手、学生。この上下の階層、師弟関係をあなたはまったく慮外に置いて、論文も好き勝手に発表される」
富太郎は松村教授に「教授」されたことがない。一介の書生が教室に出入りするうち、助手に引き上げてもらっただけだ。ゆえに師弟関係もない。
「それなら注意されたことがあるよ。君はあの雑誌によく出しているが、もう少し自重してはどうか、などとね。おっしゃる意味がわからん」
「いや。そればかりか、教授や助教授の論文にまでケチをつけて憚るところがない」
「ケチとは聞き捨てならんな」と、一歩前に出た。「いいか」と、助手を見返す。
「誤りが明らかである部分を放置して発表すれば、学生はそれを参考にして論文を書く。誤謬が広がるんだぞ。それがいかに怖いことか、君にはわからんのか。たとえ小さな間違いであっても引き継がれて広がって、手がつけられんようになる。誤りがあればすぐに正す。それが学問の良心というものだ。肝に銘じておきたまえ」
若者の胸に向かって、指を突き刺すようにしていた。
「だいいち、人気取りなんぞと蔑んでくれるが、在野との交流がいかにこの分類学に貢献するところが大きいか、わかっておらんことがテーブル・ボタニーだと言うのだ。私の人気があるのは私のせいじゃない。羨ましければ、君も野冊と掘り取り道具を持って野に出たまえ。そしたら少 しはましな論文が書けるようになる」
相手の顔色が変わった。目の下を虫がのたうつように震わせている。
己から喧嘩を売っておいて、なんじゃ、その顔は。
「生活のためでもあるんでしょう。それはお察ししますよ」と若者は吐き捨て、唇を皮肉げに歪めた。「身分不相応な冠木門つきの大きな家に住んでるんじゃ、外稼ぎもしなくてはやっていけませんからね。お子さんも多いらしいし」
「大きな家を借りるのは必要があってのことだ。植物標本と書物で3、4室は塞ぐ」
「あなたは、大学にはろくに標本を持ってこられませんからね。常に私蔵だ」
「私すると言いたいのか」
「そうでしょう」
「大学もこの牧野も、日本植物学の前では一つじゃないか。私は自宅でも仕事をする。 昼夜を問わずだ。手許に標本がなければ論考が止まる。ゆえに家に置いている。君にとやかく言われる筋合いはない」
脇机を叩き、踵を返して教授室を出た。
廊下を蹴るように歩きながら、憤激していた。大学を出たばかりの若造に忠告とやらを受けるとは見下げられたものだ。助手室に戻り、乱暴に扉を閉めた。窓辺の乾草束が驚いたかのように揺れる。
椅子に腰を下ろしても松村教授の顔が込んで、口中が苦くなる。このところ圧迫が激しいのだ。呼びつけられ、手厳しい評を受ける。今日もおそらくそういった用だったのだろう。
『大日本植物志』の解説文だがね。あれはよくないね。気をつけてもらわんと、大学の出版物だ。権威にかかわる。
そんな叱責を受けたことがある。あの若造は弁えがないなどと言うが、自分も人の子だ。いきなり噛みついたりはしない。まさに仰せの大学の権威を守るべく、苦心を重ねて正確を期しておるつもりでありますと、返した。ただ一つの語句を記すのに一晩を費やし、数十の書物を繰って 確認することも珍しくない。
「間違いがあればご教示ください」
「文章が冗長なんだよ。論文の文章は簡潔であること、これが肝要だといつも注意しているだろう」
そう、いつものことだ。教授は内容ではなく、文章を問題視する。
「どの文章かをご指摘いただければ、今後よく心得ます」
「全部だ」と、机の上に開いた『大日本植物志』の見開きを爪の先で弾く。苛立ってか、三角眉も弓形(ゆみなり)だ。
「だいたい、君は調子に乗り過ぎて書き過ぎる。自重したまえ」
事あるごとに自重、自重だ。
なんでじゃろうと、机に両肘をついた。頭を抱える。
矢田部教授といい松村教授といい、なにゆえわしを疎む。二人とも最初は可愛がってくれるのだ。松村など助教授時代に褒め讃えてくれた。自費で刊行した『日本植物志図篇』第1巻第1集についての評だ。
――今日只今、日本帝国内に、本邦植物図志を著すべき人は、牧野富太郎氏一人あるのみ。
専門誌でそんな賛辞を贈ってくれた。当時は独逸留学から帰朝したばかりで植物解剖学を専攻し、分類学にはまだ手を染めていなかった。
今ではすべてを否定しにかかる。
若い助手が口にした「人気取り」云々も、何年も前から仲間内で耳にしていた。
君、ちっとは松村教授の感情を考えて動かんと、牧野は仕事はできますが売名が巧過ぎますと、学長に名指しで非難しておられたらしいぞ。君を罷職(ひしょく)にすべきだと訴えたらしい。
つまらぬ噂のたぐいだろうと、気にも留めていなかった。しかも理科大学の学長は、動物学の教授である箕作佳吉博士だ。かつて富太郎を助手に任命してくれた菊池大麓総長の弟であり、本郷の学舎に用があって学長室を訪ねるといつも温顔で励ましてくれる。
困ったことがあれば、いつでも訪ねてきなさい。
学長は松村教授の訴えに取り合わず、流してくれたのだろうと、今になって気がつく。 しかし今は学長も替わり、箕作博士は病で療養中だ。松村教授はもはや富太郎への敵意を隠そうともせず、冷遇されていると感じることもある。大学の俸給が上がらぬままなのだ。奉職して以来、16年余も据え置かれている。博物館の手当があっても焼石に水で、こうも貧乏をするかと思うほどの逼迫が続き、それを妻子に耐えさせているのは偏に大業への志があるゆえだ。
だが、周囲の誰も彼もが「教授を立てよ」「気を兼ねよ」と、足を引っ張りにかかる。 そんな情実を挟んでおったら、日本の植物学はいつまで経っても進歩できんじゃいか。 己の髪に両手の指を突っ込んで掻き毟った。「ああ」「ああ」と、声を振り絞る。
「上長、先輩、それがなんじゃと言う。そんなものの心情に心を砕いて、学問の何に役立つ」
研究に邁進すればするほど敵視されるとは、なんと息苦しい世界であることか。
窓外は 暮れかかり、植物園に棲む鳥が啼く。

翌日、松村の教授室へ出直した。
「昨日は申し訳ありませんでした」
神妙に頭を下げて顔を上げたが、教授は目も合わせてこない。脇机には昨日の助手が坐しており、書きものをしている。こなたを小馬鹿にしたような笑みを張りつかせ、虚勢めいている。
「ご用があると承っておりましたが」
「牧野君」
「はい」と、居ずまいを正した。昨日の新聞社の取材が気に障ったか、それともまた論文の文章か。
「君を罷職することとなった。3月末日で助手の任を解く。長年、ご苦労だった」
そうか、そういうことかと、松村を見返した。松村はなぜか蒼褪(あおざ)めている。
貧しい学者一匹の息の根を止めただけで、あなたはそんな顔をしゆうがか。返り血を浴びでもしたかのようじゃ。
「お世話になりました」
己の声が遠い。再び辞儀をして、廊下へと出た。
(つづく)

 


東大植物学教室の教授および室員からはかなり冷淡な扱いをされていたのですね。


獅子風蓮