syuの日記・気まま旅

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下田歴史散策おわり

2012-03-02 | 気まま旅

「下岡蓮杖」寝姿山ロープウエイ公園内に記念館がある。
横浜開港の談判のために来日したタウンゼント・ハリスの通訳であるヘンリー・ヒュースケンから写真撮影の形式を学んだ.
その後、アメリカの写真家ウンシンと交わり、ウンシンの写真機と蓮杖の絵とを交換し、以来、努力と財産の全てを傾けて写真術の研究。
1862年、40歳で横浜の弁天通に写真館を開業、江戸では前年に鵜飼玉川が写真館を開設。
当初は日本人は写真を撮影すると寿命が縮まるとこれを嫌い、客はいずれも外国人であったが、迷信は次第に消え店は繁盛た。

蓮杖は勤王の志が強く、箱館戦争、台湾出兵などの絵画を描き、作品は遊就館に納められた。
日本における石版印刷業、牛乳搾取業、乗合馬車営業の開祖であるとされる。
1882年、浅草公園第五区に写真館を移したが、その後写真業を廃しキリスト教に入信、信仰生活に入り画筆を楽しみつつ余生を送った。

下田城山公園にある下岡蓮杖の石像
    

幕末期にアメリカの総領事館として使用した寺「玉泉寺」
    

玉泉寺の見取り図


1856年、日米和親条約に基づいて、下田の玉泉寺に我が国最初の領事館が開かれ、総領事としてハリスが着任。
玉泉寺の庭には、星の数が31個の星条旗が掲げられ、ハリス以下10人の人達が生活する。

翌年ハリスは、やっと江戸にいる将軍家定に会うことを許され、大統領からの親書を渡し、貿易を行うための交渉に入るが、朝廷の承認が得られず
調印は延期を重ねている時、イギリス、フランス、両国の軍艦が日本に迫っているとの情報が入り、急遽ポーハタン号の艦上で日米修好条約が調印され、
これによってアメリカとの間で本格的な貿易が始まることになった。

初代総領事として日米条約締結に尽力したタウンゼント・ハリスは、玉泉寺の領事館で3年近くを過ごした。長い鎖国のあとで、下田の人々ともつき合いがない
孤独な日々であった。

庭園にあるロシア水兵の碑 
    

本殿
  

ハリス記念館
    
 


今回で幕末の舞台下田の歴史散策は終了します。記事は資料から引用しました。