syuの日記・気まま旅

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清澄庭園と本所霊厳寺

2012-03-07 | syu散歩
深川の名は、江戸時代摂津の開拓者深川八郎右衛門が、深川北西部(亀住、冬木、和倉・・)開拓し、幕府の舟の出入りする隅田川、運河など整備した。

清澄公園、庭園は、三代に渡っている。
*「紀伊国屋文左衛門」1669-1734 勘定奉行萩原重秀・御用人柳沢吉保に取り入り幕府御用達の材木商、江戸大火で巨万の財、
晩年は財産を使い果たしたという。

*「下総関宿藩主久世氏」関宿藩は、下総国(現在の千葉県野田市関宿三軒家)に存在した藩。藩庁は関宿城。 第9代藩主・久世広業の時代に明治維新を迎えた。
1869年の版籍奉還で広業は藩知事となり、1871年の廃藩置県によって関宿藩は廃藩となる。野田の所領は印旛県に併合された。

*「岩崎弥太郎」1834-85 土佐の開国論者吉田東洋を知り、後藤象二郎と交流土佐商会に勤め、九十九商会を興し、三菱商会設立、海運業で郵便、
為替、保険業と広げた。 
 
  

庭園は中島を持つ広い池が中心にあり、ツツジとサツキの植えられた「つつじ山」や池の端を歩けるように石を配置した「磯渡り」などがある。
また、園内には岩崎家が全国から集めたという名石が無数に置かれている。また池には人に慣れた多数のカメがいる。入園料65歳以上¥70

    

「清澄本誓寺」は、浄土宗寺院の本誓寺は当智山重願院、小田原本誓寺六世の文賀が、幕府より1595年八重洲河岸に寺地を拝顔して創建、
太田康資(太田道灌の四代の孫)娘英勝院が開基となったという。
1606年馬喰町上町へ、1682年に現・深川大工町に移転、1699年には徳川綱吉から寺領30石の御朱印状を拝領、江戸時代の浄土宗触頭の一つであったという。
1873年には江戸崎大念寺より檀林号が移り、昭和元年まで檀林格であった。

村田春海  1746年 -1811年は、江戸時代中期から後期にかけての国学者・歌人。本姓は平氏。
通称は平四郎。字は士観。号は織錦斎・琴後翁。賀茂真淵門下で県居学派(県門)四天王のひとりと云われていた。


    

「深川江戸資料館」
館内は、八百屋や米屋、船宿など、備品を含めて下町を忠実に再現されていて興味深い、どの建物も中に入ることが出来て備品を手に取る事も出来る。
船宿の前には川が作られ舟が置いてあったり、火の見櫓が建ててあったりと、立体的に見させる工夫もある。
また猫の鳴き声以外にもあさり売りの声がしていたりして、江戸時代の深川の雰囲気を出している。

    

「本所霊厳寺」山号道本山、浄土宗、阿弥陀如来。
1624年、雄誉霊巌上人の開山により、日本橋・芦原を埋め立てた霊巌島(現在の東京都中央区新川)に創建された。数年後に檀林が設置され、
関東十八檀林の一つ。
1657年、江戸の大半を焼失した明暦の大火により霊巌寺も延焼。境内や周辺で1万人近くの避難民が犠牲になったという。
1658年に徳川幕府の防火対策を重視した都市改造計画の一環として、現在地に移転した。

寺には、松平定信の墓、今治藩主松平家や膳所藩主本多家など大名の墓が多く存在する。
境内には江戸六地蔵の第五番が安置され、幕末江戸の7大火葬場のひとつ、境内除地に火屋があり火葬執行の責任者が置かれた。  
    

徳川家斉 1773-1841 15歳で11代将軍に、田沼意次を排し松平定信を老中首座に据え「寛政の改革」を指導する。
幕府の財政悪化。田沼の怨霊に祟られ頭痛に悩まされる。

高さ2.3mの銅製地蔵                      霊厳寺本堂
  
 
  

次回も本所寺巡り。