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日光東照宮は、元和3年(1617)徳川初代将軍徳川家康公を御祭神におまつりした神社。家康は、(1542)12月26日三河国岡崎城でご誕生、
幼少より苦労を重ね戦国乱世を平定され、幕藩体制を確立された。世の中に秩序と組織を形成し、学問を勧め産業を興し、江戸時代260年間に
わたる平和と文化の礎を築き、近代日本の発展に多大な貢献をされた。
家康は、元和2年4月17日駿府城で75歳の生涯を終えられ、直ちに久能山に神葬された。そして御遺言により、一年後の元和3年4月15日、
久能山より現在の地に移されおまつりされました。正遷宮は、同年4月17日二代将軍秀忠をはじめ公武参列のもと厳粛に行われ、ここに東照社として鎮座。
その後(1645)宮号を賜り、東照宮と呼ばれるようになった。
現在のおもな社殿群は、三代将軍家光によって、寛永13年(1636)に造替されたものです。
さすが東照宮 広い参道
五重塔
「天海」
~1643 東叡山寛永寺創建、家康の側近、天台宗僧、陸奥高田出身。比叡山、三井寺で修行、江戸崎不動院、仙波喜多院、後、
家康に召されて幕閣に、幕命で比叡山復興、家康の葬儀を司り、上野山に東叡山寛永寺を建て徳川家の廟所として自ら開山諡号は、慈眼大師。
天海の進言・政策は全て採用されている。家康は、天海を生きた仏で、出会いが遅すぎたと悔やんだ、家康死の6年前、家康の神号をめぐり、
金地院崇伝と争い勝って日光山を再興させ家康の改葬を行った。四柱推命を取り入れていた。
東武日光駅前119号線から神橋の見える位置に、天海の銅像
御神水 鐘楼
有名な陽明門
「伊達正宗」1567-1636 独眼竜東北仙台の猛者、藩主。関ヶ原の戦いで東軍に与し62万石大名に、南蛮貿易を計画し支倉を
ヨーロッパへ派遣させ、
スペイン国王に同盟を求めた。天下を狙ったと云われている。自分の像には両目を添えるよう遺言していた。
伊達正宗(仙台藩)が寄進した燈籠
彫刻、金の細工が素晴らしい「陽明門」
日光東照宮の象徴的な建築である陽明門は(1635)に建てられもので、三間一戸、八脚楼門、入母屋、四方軒唐破風、銅瓦葺きの楼門建築です。
陽明門の名称の由来は京都御所にある十二門の東の正門が陽明門と呼ばれているところから授かったとされ、正面唐破風下には(
1617)に
後陽成天皇から賜った「東照宮大権現」の額が掲げられています。陽明門には当時の技術の最高峰がつぎ込まれ彫刻の数は508体にのぼり、
軒下には金と極彩色に彩られた麒麟、その下には白色の竜、さらに下が子供達の透かし彫りが施されている。
1層目には獅子や子供達が彫り込まれ、1日中見てても飽きない事から"日暮門"の別称。
柱は全部で12本あり胡粉が塗られ、グリ紋という渦巻状の地紋と鳥獣、草花が彫られてい。特に裏側の左手2番目の柱は"魔除けの逆柱"と呼ばれ
グリ紋の向きが逆で、"完成した瞬間から崩壊が始まる。"という古事からわざと未完成の部分を残しているそうです。日光東照宮陽明門は国宝。
家康は人徳者、武田勝頼の首を丁寧に供養した。これを知った武田の旧臣たちは、家康の態度に感謝し、後に奉公し抜群の働きをしたとある。鯛の天ぷらを食し食中りの死とあるが、一説では大阪の役ですでに死んでいたとも言われている。
家康6歳の時、物まねをする珍鳥を貰うが、「この鳥、自分がない、人間も器用な者知恵がない、己を持たぬ鳥、大将の玩具にふさわしくない」と云って突き返しと云う。
日光東照宮で有名な「眠り猫」の彫刻は、
陽明門をくぐり右に行くと奥社に通じる道にかかる門にある彫刻です。
この奥社に行くには別途で520円かかります。 神楽殿と祈祷殿の間の通路手前で料金を支払い奥社の手前にある坂下の回廊頭上のところで
上を見上げると有名な「眠り猫」の彫刻がある。小さな彫刻。なぜ眠り猫の彫刻があるのかと言うと日溜まりで気持ち良さそうに眠っている姿が
日光を象徴するものだとか、徳川家康の墓に行く手前にあるため、ネズミ1匹通さない・・という意味がある・・とか言われているそうです。
日光東照宮は、元和3年(1617)徳川初代将軍徳川家康公を御祭神におまつりした神社。家康は、(1542)12月26日三河国岡崎城でご誕生、
幼少より苦労を重ね戦国乱世を平定され、幕藩体制を確立された。世の中に秩序と組織を形成し、学問を勧め産業を興し、江戸時代260年間に
わたる平和と文化の礎を築き、近代日本の発展に多大な貢献をされた。
家康は、元和2年4月17日駿府城で75歳の生涯を終えられ、直ちに久能山に神葬された。そして御遺言により、一年後の元和3年4月15日、
久能山より現在の地に移されおまつりされました。正遷宮は、同年4月17日二代将軍秀忠をはじめ公武参列のもと厳粛に行われ、ここに東照社として鎮座。
その後(1645)宮号を賜り、東照宮と呼ばれるようになった。
現在のおもな社殿群は、三代将軍家光によって、寛永13年(1636)に造替されたものです。
さすが東照宮 広い参道
五重塔
「天海」
~1643 東叡山寛永寺創建、家康の側近、天台宗僧、陸奥高田出身。比叡山、三井寺で修行、江戸崎不動院、仙波喜多院、後、
家康に召されて幕閣に、幕命で比叡山復興、家康の葬儀を司り、上野山に東叡山寛永寺を建て徳川家の廟所として自ら開山諡号は、慈眼大師。
天海の進言・政策は全て採用されている。家康は、天海を生きた仏で、出会いが遅すぎたと悔やんだ、家康死の6年前、家康の神号をめぐり、
金地院崇伝と争い勝って日光山を再興させ家康の改葬を行った。四柱推命を取り入れていた。
東武日光駅前119号線から神橋の見える位置に、天海の銅像
御神水 鐘楼
有名な陽明門
「伊達正宗」1567-1636 独眼竜東北仙台の猛者、藩主。関ヶ原の戦いで東軍に与し62万石大名に、南蛮貿易を計画し支倉を
ヨーロッパへ派遣させ、
スペイン国王に同盟を求めた。天下を狙ったと云われている。自分の像には両目を添えるよう遺言していた。
伊達正宗(仙台藩)が寄進した燈籠
彫刻、金の細工が素晴らしい「陽明門」
日光東照宮の象徴的な建築である陽明門は(1635)に建てられもので、三間一戸、八脚楼門、入母屋、四方軒唐破風、銅瓦葺きの楼門建築です。
陽明門の名称の由来は京都御所にある十二門の東の正門が陽明門と呼ばれているところから授かったとされ、正面唐破風下には(
1617)に
後陽成天皇から賜った「東照宮大権現」の額が掲げられています。陽明門には当時の技術の最高峰がつぎ込まれ彫刻の数は508体にのぼり、
軒下には金と極彩色に彩られた麒麟、その下には白色の竜、さらに下が子供達の透かし彫りが施されている。
1層目には獅子や子供達が彫り込まれ、1日中見てても飽きない事から"日暮門"の別称。
柱は全部で12本あり胡粉が塗られ、グリ紋という渦巻状の地紋と鳥獣、草花が彫られてい。特に裏側の左手2番目の柱は"魔除けの逆柱"と呼ばれ
グリ紋の向きが逆で、"完成した瞬間から崩壊が始まる。"という古事からわざと未完成の部分を残しているそうです。日光東照宮陽明門は国宝。
家康は人徳者、武田勝頼の首を丁寧に供養した。これを知った武田の旧臣たちは、家康の態度に感謝し、後に奉公し抜群の働きをしたとある。鯛の天ぷらを食し食中りの死とあるが、一説では大阪の役ですでに死んでいたとも言われている。
家康6歳の時、物まねをする珍鳥を貰うが、「この鳥、自分がない、人間も器用な者知恵がない、己を持たぬ鳥、大将の玩具にふさわしくない」と云って突き返しと云う。
日光東照宮で有名な「眠り猫」の彫刻は、
陽明門をくぐり右に行くと奥社に通じる道にかかる門にある彫刻です。
この奥社に行くには別途で520円かかります。 神楽殿と祈祷殿の間の通路手前で料金を支払い奥社の手前にある坂下の回廊頭上のところで
上を見上げると有名な「眠り猫」の彫刻がある。小さな彫刻。なぜ眠り猫の彫刻があるのかと言うと日溜まりで気持ち良さそうに眠っている姿が
日光を象徴するものだとか、徳川家康の墓に行く手前にあるため、ネズミ1匹通さない・・という意味がある・・とか言われているそうです。