東京の新名所、ゲートブリッジ完成のニュースを聞き、今回は深川木場から廻ることにした。
地下鉄東西線「門前仲町」下車。江戸の名残をとどめている繁華街「門中」「永代寺仲町」久し振りに歩く。
永代橋と云うと「忠臣蔵」で有名な四十七士が吉良上野介の首を槍の柄にくくりつけて、本所から泉岳寺に行くには隅田川の両国橋から
江戸市中に入るのが一般的だが、そうすると武家屋敷街を通ることなり、十五日は大名・旗本の登城日、不測の事態の起こるのを懸念した内蔵助は、
両国橋を渡らず、そのまま隅田川を南下して町人の街を行き、清澄通り、そして永代橋で隅田川を渡って市中に入り、霊岸島から鉄砲洲に出て、
汐留橋、金杉橋を通り泉岳寺へと入る。
清澄通り高速の下にあったのが富岡橋跡。親柱が残っているが、江戸時代は黒亀橋より西に架かっていて、俗に閻魔堂橋と呼ばれていた。
今の富岡橋と言っても埋め立てられて跡形ないが、その左手先にスーパー赤札堂が見え、その赤札堂があったところが「裾継跡」。
その南、門前仲町の交差点までが「櫓下」跡。今立っている高速下の富岡橋の渡った右手が「網打場」跡になる。
旧富岡橋跡 上に首都高速

江戸当時は神社仏閣と遊廓は隣り合わせのセットで参拝され、お互い持ちつ持たれつの関係にあった。
この八幡宮も江戸中期にはさびれていたのを、境内の中に茶店を置き、遊行させて人を集めたとも言われている。
仙台堀 遊歩道
仙台藩邸の蔵屋敷に米などの特産物を運び入れたことに由来。
「仙台堀」とも呼ばれている。以前は砂町運河(小名木川~横十間川間)、十間川(横十間川~大横川間)、
仙台堀川(大横川~隅田川間)と分けられている。
「仙台堀川親水公園」小名木川と接する桜井橋から区道大門通石住橋付近までの3.6kmの区間。愛称「区民の森」
川橋付近より、桜の季節になると見物客で賑わう。
元禄二年「奥の細道」の旅はこの採茶庵から出立と記載されている。
深川芭蕉庵跡の有名な句、「古池や かはづ飛び込む 水の音」は、深川芭蕉庵1685年の春に詠まれている。
清澄庭園内にある「古池の句」碑は昭和9年に其角堂9代目の晋永湖という神田生まれの俳人が建てたもの、
芭蕉庵改修の際、その敷地が狭いのでこの地に移したと言われている。

「都立清澄庭園・公園」
元禄期の豪商・紀伊國屋文左衛門の屋敷があったと伝えられ、享保年間には下総関宿藩主・久世氏の下屋敷となり、
ある程度の庭園が築かれたと推定されている。
1878年、荒廃していた邸地を三菱財閥創業者の岩崎弥太郎が買い取り、三菱社員の慰安と賓客接待を目的とした庭園の造成に着手。
1880年に竣工し、深川親睦園と命名された。三菱社長の座を継いだ岩崎弥之助は庭園の泉水に隅田川の水を引き込むなど大きく手を加え、
1891年に回遊式築山林泉庭園としての完成。1889年には庭園の西側にジョサイア・コンドル設計による洋館が建てられている。

その後、1923年に発生した関東大震災で庭園は大きな被害を受けて邸宅も焼失したが、図らずも近隣住民の避難場所となり多くの人命が救われた。
それを受けて1924年、三菱3代目社長の岩崎久弥は当時の東京市に庭園の東半分を公園用地として寄贈。
東京市は大正記念館の移築や深川図書館の新館舎建設など整備を進め、1932年に清澄庭園として開園。
1973年に東京都は残る西半分の敷地を購入し、整備を開始し、1977年・昭和52年に開放公園「清澄公園」として追加開園。
清澄公園

「清川橋」交差点、橋のすぐ東側で仙台堀川から大島川西支川が分かれて南流する、橋の西側は清澄排水機場となる。仙台堀川の終点。
清川橋交差点
小津安二郎の生誕地
地下鉄東西線「門前仲町」下車。江戸の名残をとどめている繁華街「門中」「永代寺仲町」久し振りに歩く。
永代橋と云うと「忠臣蔵」で有名な四十七士が吉良上野介の首を槍の柄にくくりつけて、本所から泉岳寺に行くには隅田川の両国橋から
江戸市中に入るのが一般的だが、そうすると武家屋敷街を通ることなり、十五日は大名・旗本の登城日、不測の事態の起こるのを懸念した内蔵助は、
両国橋を渡らず、そのまま隅田川を南下して町人の街を行き、清澄通り、そして永代橋で隅田川を渡って市中に入り、霊岸島から鉄砲洲に出て、
汐留橋、金杉橋を通り泉岳寺へと入る。


清澄通り高速の下にあったのが富岡橋跡。親柱が残っているが、江戸時代は黒亀橋より西に架かっていて、俗に閻魔堂橋と呼ばれていた。
今の富岡橋と言っても埋め立てられて跡形ないが、その左手先にスーパー赤札堂が見え、その赤札堂があったところが「裾継跡」。
その南、門前仲町の交差点までが「櫓下」跡。今立っている高速下の富岡橋の渡った右手が「網打場」跡になる。
旧富岡橋跡 上に首都高速


江戸当時は神社仏閣と遊廓は隣り合わせのセットで参拝され、お互い持ちつ持たれつの関係にあった。
この八幡宮も江戸中期にはさびれていたのを、境内の中に茶店を置き、遊行させて人を集めたとも言われている。
仙台堀 遊歩道


仙台藩邸の蔵屋敷に米などの特産物を運び入れたことに由来。
「仙台堀」とも呼ばれている。以前は砂町運河(小名木川~横十間川間)、十間川(横十間川~大横川間)、
仙台堀川(大横川~隅田川間)と分けられている。
「仙台堀川親水公園」小名木川と接する桜井橋から区道大門通石住橋付近までの3.6kmの区間。愛称「区民の森」
川橋付近より、桜の季節になると見物客で賑わう。
元禄二年「奥の細道」の旅はこの採茶庵から出立と記載されている。
深川芭蕉庵跡の有名な句、「古池や かはづ飛び込む 水の音」は、深川芭蕉庵1685年の春に詠まれている。
清澄庭園内にある「古池の句」碑は昭和9年に其角堂9代目の晋永湖という神田生まれの俳人が建てたもの、
芭蕉庵改修の際、その敷地が狭いのでこの地に移したと言われている。



「都立清澄庭園・公園」
元禄期の豪商・紀伊國屋文左衛門の屋敷があったと伝えられ、享保年間には下総関宿藩主・久世氏の下屋敷となり、
ある程度の庭園が築かれたと推定されている。
1878年、荒廃していた邸地を三菱財閥創業者の岩崎弥太郎が買い取り、三菱社員の慰安と賓客接待を目的とした庭園の造成に着手。
1880年に竣工し、深川親睦園と命名された。三菱社長の座を継いだ岩崎弥之助は庭園の泉水に隅田川の水を引き込むなど大きく手を加え、
1891年に回遊式築山林泉庭園としての完成。1889年には庭園の西側にジョサイア・コンドル設計による洋館が建てられている。


その後、1923年に発生した関東大震災で庭園は大きな被害を受けて邸宅も焼失したが、図らずも近隣住民の避難場所となり多くの人命が救われた。
それを受けて1924年、三菱3代目社長の岩崎久弥は当時の東京市に庭園の東半分を公園用地として寄贈。
東京市は大正記念館の移築や深川図書館の新館舎建設など整備を進め、1932年に清澄庭園として開園。
1973年に東京都は残る西半分の敷地を購入し、整備を開始し、1977年・昭和52年に開放公園「清澄公園」として追加開園。
清澄公園


「清川橋」交差点、橋のすぐ東側で仙台堀川から大島川西支川が分かれて南流する、橋の西側は清澄排水機場となる。仙台堀川の終点。
清川橋交差点


小津安二郎の生誕地
