syuの日記・気まま旅

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門前町と深川めし

2012-03-08 | syu散歩
深川・木場と云えば、堀と木材と辰巳芸者、江戸三名所の盛り場であった。今でも下町情緒の多く残っている街である。
「辰巳芸者」は、気風がよくて情に厚く、芸は売っても色は売らない心意気が自慢という。

「深川七福神」は、富岡八幡宮(恵比寿神)・弁天堂(弁財天)・心行寺(福禄寿)・円珠寺(大黒天)・龍光院(毘沙門)
深川稲荷(布袋尊)・神明宮(寿老人)。

「長専寺」は、浄土宗、法然上人を宗祖とする鎌倉時代に開かれた浄土信仰、日本仏教を「他力」と「自力」二分する思想を構築した。

長専寺入口
  

江戸資料館前に「佃煮魚保」の深川あさり専門店が。昔よく食べた深川めしは、アサリのすまし汁を米飯に掛けたものである。
気の短い江戸っ子の漁師が手軽に食べるために考案されたと聞く。深川が代表格で、「深川めし」と呼ばれている。
近年はアサリの味噌汁を掛けたものも深川めしと呼ぶらしい。


  

滝沢馬琴 1767-1848 読本作家、旗本用人5男、24歳で山東京伝入門し時代物発表、作家の収入では生活できず様々な副業をして
履物屋未亡人の入り婿に、副業から抜け出せたのは40代、「里見八犬伝」は74才で失明し息子の嫁が代筆した。


  

「深川寺町」1658年の「明暦の大火」で焼失した浄土宗霊巌寺が、隅田川を隔てた深川の地に移転された。同じ年日連宗浄心寺が創設され、
1832年浄土宗雲光院がやはり焼失のため移転されてくると、次々に多くの寺院が深川に建立されるようになり閑寂な寺町を形成した。
霊巌寺塔頭成等院には、豪商紀伊国文左衛門の墓がある。

深川寺町 日蓮宗の寺が多い街
  

「円珠院」深川七福神大黒天は、旗本永見甲斐守の娘、お寄の方が起立しのち、円珠院殿妙献日寄大姉の法名で、1730年に此の寺に葬られ、
1720年に画かれた大黒天の掛軸があり、木造の大黒天が安置、境内に石造の破顔大黒天が安置されている。江戸時代から、
深川の大黒天として有名。

「円珠院」深川七福神大黒天
  

「浄心寺」日蓮宗寺院は、法苑山。日義上人が深川に草庵を営んでいたところ。
四代将軍川家綱の乳母三沢局の帰依を得、三沢局の遺命により新寺を建立しようとしたものの、日義上人も亡くなってしまい、日義上人に
託された日通上人が浄心寺を創建、日義上人を開山としたという。
川家綱から寺領100石の御朱印状を拝領、1753年、身延山の祖師像・七両天女像の出開帳が浄心寺でおこなわれ、その後も数度あり、
身延山の弘通所と呼ばれた他、将軍家より十万石の格式を許された、江戸十祖師の随一といわれた名刹。

浄心寺
    


「法乗院ゑんま堂」は、1629年に創建され、開山は覚誉憎正、本山は十一面観音で有名な大和長谷寺。
弘法大師四国八十八ヶ所霊場の写し霊場として、江戸時代中期の宝永年間(1751-64)に江戸に設けられた御府内八十八ヶ所の第74番目札所であり、
江戸三えんま「深川ゑんま堂」として古くから人々に親しまれてきた。
江戸の時代には、正面に通じる道にゑんま堂橋が架けられ、現在の清澄通りがなかった当時は、深川の中心道だったと伝えられている。
  

長光山・陽岳寺」の伏見義民について
天明の大飢饉1783年頃、山城国伏見奉行小堀政方は幾多の悪政を重ね、このため伏見住民は塗炭の苦しみにあえいだ。
文珠九助、丸屋九兵衛、麹伝兵衛らは幕府に直訴を企てひそかに江戸に入ったが、伝兵衛は小堀が放った捕吏に殺され、
ようやく逃れた九助と九兵衛は直訴に成功して小堀は罷免されたが、両名は1788年獄死した。
三名の遺体はそれぞれ陽岳寺に引き取られ、厚く葬られたが、これはかれら三名が江戸にあって直訴をうかがっている間、
当寺に庇護され、援助を受けたからであると云われている。

  

次回は富岡八幡宮方面へ。