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長浜城と北条水軍

2013-09-28 | 富士山麓日記
「長浜城」

駿河湾奥部の内浦湾に面したこの城は、室町時代から北条氏に仕えていた大川氏が居城としていた。
その後武田氏が狩野川沿いに三枚橋城(のちの沼津城と同地)を築城したため、水路を絶たれた北条氏が1579年頃、北条水軍の基地として改修したとされる。
武田水軍との幾多の戦いの際の発進基地ともなっており、1580年には千本浜沖で、後に駿河湾海戦と呼ばれる大規模な海戦も起こっている。
そして、1590年、豊臣水軍の侵攻の際は土侍が敗走、一戦も交えず陥落した。
築城時期、終焉時期の明確な記録は不明である。



北条早雲は、伊豆国と小田原を本拠に、次第に独立して戦国大名化し、関東へ本格的に進出を始める。
道寸は藤頼を保護してこれと争うが、早雲は山内上杉家と対抗するために1498年、上杉朝良・三浦道寸に対して同盟を提案する。
話し合いの結果、顕定が守護職であった伊豆を2分する(早雲が伊豆半島を、道寸が伊豆諸島を領有する)事で和解が成立した。

1512年、ついに早雲は兵を挙げ岡崎城に攻撃を開始。
敵せずと見た道寸は弟・道香の守る住吉城(現逗子市)に退却し、抵抗を続けた。
しかし道香も戦死。道寸はさらに新井城へ退却し、扇谷上杉家へ援軍を要請する。しかし、援軍に向かった太田資康(太田道灌の子で道寸の娘婿)も北条勢に迎撃されて討ち死に。
道寸・荒次郎父子は三浦半島の新井城に籠城、北条軍がこれを包囲、、、、。

「駿河湾海戦」武田水軍・北条水軍幾多の海戦。
今川氏が衰退した1560年以降、駿河への侵攻を始めた武田信玄は、駿東をめぐって小田原北条氏と激しく争いました。
駿東は武田氏の手に落ちますが、北条氏も戸倉城(清水町)を前線基地とし、武田方と対峙します。
海のない甲斐の武田氏は駿河を手に入れるために、旧今川水軍から引き継いだ伊丹氏・岡部氏をはじめ、伊勢からは向井氏・小浜氏といった船大将を招き入れて水軍を組織しました。
1580年には、北条氏と武田氏両水軍による「駿河湾海戦」が起こりす。
静岡県内の武田水軍の城として江尻城・袋城(静岡市清水区)、持舟城(静岡市駿河区)が知られている。

    

一方北条水軍は、伊勢新九盛時(北条早雲)が伊豆を平定した時からの在地武士である富永氏(土肥)、高橋氏(雲見=くもみ)、松下氏(三津=みと)、鈴木氏(江梨)らが中核となっていました。それに加え、早雲によって滅ぼされた三浦氏の遺臣を取り込んで組織した三浦水軍や、船大将として熊野から招かれた梶原景宗らを併せて北条水軍が組織されていきました。
駿河湾において武田氏とは何度となく海戦を交えましたが、1582年武田氏滅亡後は豊臣勢の脅威にさらされていきます。
そして1590年、長宗我部元親・九鬼嘉隆・脇坂安治らが率いる豊臣連合軍の大船団がついに下田を取り囲みます。
水軍に力を注いでいた小田原北条氏ですが、この強大な豊臣軍勢にはとても太刀打ちできません。
駿河湾から伊豆へと、豊臣勢は陸と海から北条氏の拠点をことごとくつぶしつつ小田原へと迫ったのでした。

                     湾内
  

1590年、豊臣勢との決戦態勢のためか、後北条水軍は小田原に集結、水軍が撤収した長浜城には土豪「大川兵庫」が立て籠もったという。
豊臣水軍が迫ると、「大川兵庫」らは抗する術もなく一戦も交えず敗走したと伝えられている。
その後、大川氏は網元として内浦の漁業を支配し、江戸期には韮山代官の小代官をつとめて幕末に至ったという。

無縁墓地                      海岸線から見た城山                     航空写真
    

「光明寺」長浜城の近くの寺、鎌倉の「光明寺」の末寺と思われる。
鎌倉光明寺は、創建年不明、15世紀頃、鎌倉三十三観音18番、 鎌倉二十四地蔵22番、 東国花の寺百ヶ寺 鎌倉2番。
浄土宗大本山 光明寺、山号を天照山、本尊は阿弥陀如来。
北条経時、開山とある。13世紀〜14世紀にかけての歴史はあまり定かでないが、室町時代には中興開山とされる祐崇上人-1509年によって復興

城山階段                                               光明寺
    

古い供養塔・地蔵・石仏。

        本堂                                お地蔵さん
  

伊豆三津方面に。