駿河湾は、日本一の深い海、ここから見る富士山は、日本一高い山、標高差7000mある。
それは、駿河湾トラフの深い谷がある、その下にフイリピン海プレートが沈み込んで、噴火形成火山が「富士山」である。
写真の島が「淡島」で全体が自然公園(マリンパーク)波静かな海水浴場でも知られている。渡るには船で、千鳥観光汽船が運営している。
三津シーパラダイスからいろいろコースが出ている。
伊豆・三津シーパラダイスは、沼津市にある水族館。 伊豆箱根鉄道が運営( 龍宮丸、水族館、 飼育、 ギャラリーなど。
かつては無人島、1940年に第二海軍技術廠の「音響兵器部 淡島臨海実験場」という軍事施設が設置されたが終戦に伴い撤去、
1980年代に東京相和銀行のオーナー「長田庄一」が淡島全体をリゾート開発、1984年に水族館・プール・パターゴルフ場を中心とした
「淡島海洋公園(現あわしまマリンパーク)」が開業した。
リゾートホテルである淡島ホテルが開業し、ホテル従業員が島内に在住しているが、無人島扱いという。
1999年に東京相和銀行は経営破綻したが、マリンパークに関しては運営会社を移転している。
弥生時代の遺跡が発見され、土器が出土し、島の山頂には淡島神社が置かれ、珍しい昆虫なども島内に生息し、散策だけでも楽しめるようになっている。島面積0.165KM2・海線2.2KM.
写真の小さい島「淡島」沼津市
伊豆国、古来、罪人配流の地で、源頼朝や日蓮も流された。平安時代に、駿河守「藤原維景」は、土着して狩野氏を名乗っている。
子孫は、伊東、宇佐美、河津氏として栄えた。
伊豆介とし赴任した「平時方」は、北条(韮山)に土着、その孫「北条時政」は、(蛭が小島に流罪の源頼朝)を助け鎌倉幕府の樹立に貢献した。時政の娘「政子」は、頼朝の妻となり、頼朝死後、尼将軍と称された。
室町時代は、足利政知は、田方群堀越(韮山)に居を構え関東の支配をめぐってしもうさの「古河公方」と対立していた。
足利政知没後、北条早雲が堀越公方を攻め韮山に拠点を置いている。小田原北条氏の基礎を築いた。
韮山の「反射炉」は、1792年ロシア使節団根室に来航し、江戸海洋防衛問題が持ち上がり、幕府老中松平定信は、下田開港場と韮山に
炉が築かれた。
「願成就院」は、伊豆の国市にある、高野山真言宗の寺院。山号は天守君山。境内は国の史跡に指定されている。
仏師運慶の数少ない真作の一つである阿弥陀如来坐像などの仏像を安置する。
願成就院
吾妻鏡によると、1189年に北条政子の父親で鎌倉幕府初代執権であった北条時政が、娘婿の源頼朝の奥州平泉討伐の戦勝祈願のため建立したという。寺に残る運慶作の諸仏はその3年前の1186年から造り始められており、奥州征伐の戦勝祈願のためというよりは、北条氏の氏寺として創建されたものと考えられている。
1236年までの間、願成就院の仏堂、塔などの伽藍造営に関する記事が散見され、北条時政とその子義時、孫の泰時の代にかけて次々に伽藍は拡大したことがわかる。
現境内の北方、住宅地を挟んで500メートルほど離れた位置に礎石などの遺構が確認、同遺構と現境内の間には苑池の跡も見出された。
全盛期には巨大な池とその中の小島を橋でつなぎ、多くの堂宇や塔がそびえ立つ、藤原時代様式の壮大な伽藍を誇る伊豆屈指の大寺院として栄華を誇ったと云う。しかし1491年に北条早雲による動乱で願成就院はほぼ全焼している。
空海 774-835 真言宗開祖 讃岐国に生まれ、四国各地修業して出家、 入唐氏、帰国後嵯峨帝と親交 高野山を賜る。
京都東寺に道場 書は三筆の一人 弘法大師に、伝説、書物多い。
弘法大師像
「仏像」
木造阿弥陀如来坐像、大御堂本尊・国宝 - 鎌倉時代、運慶作。像高142cm。胸前に両手を挙げる説法印の阿弥陀如来像。
平成25年ー不動明王二童子立像、毘沙門天立像を含めた5躯一括で国宝に指定。
木造不動明王二童子立像、大御堂・国宝 像高は不動像が136.8cm、制吒迦童子像が81.8cm、矜羯羅童子像が77.9cmである。
本尊阿弥陀如来の眷属(脇侍)として安置されている。
不動明王像と毘沙門天像(後出)の胎内に納められていた塔婆形銘札(めいさつ)には、「文治2年(1186)5月3日、北条時政の発願により運慶が造り始めた」という趣旨の記載がある。
木造毘沙門天立像、国宝 - 本尊阿弥陀如来の眷属(脇侍)として安置されている。不動明王ニ童子像と同様、胎内に納められていた運慶の名のある塔婆形名札が保存されており、運慶の真作であることが確認されている。
木造地蔵菩薩坐像(重要美術品) - 北条政子七回忌に、北条泰時が願成就院に奉納した地蔵菩薩坐像。
本像は顔が北条政子の顔となっているといわれ、政子地蔵菩薩の通称がある等。
1189年文治5年、北条時政が源頼朝の奥州討伐の戦勝を祈願して建立し、北条三代(時政、義時、泰時)にわたって、次々に堂宇が建立され繁栄を極めたと云う。
伽藍は、奥州平泉の毛越寺を模した構成であったとも云う。
「守山八幡宮」は、北条氏ゆかりの願成就院の後方、守山の中腹にある。
守山八幡宮は、647年、大山祗神を祭神として創建され、907年、宇佐八幡宮の八幡神が勧請され合祀された。
1180年には、源頼朝が源氏再興を祈願して挙兵している。
現在の本殿は、1632年に久能城主「榊原照久」によって造営された建物。
古代、守山八幡宮の建つ北条郷と狩野川の反対側の江間郷は一つの郷で、狩野川を越えた大男山(雄徳山) 山頂に総鎮守があったと云う。
しかし、狩野川の流れが変わり、両郷を分断してしまったため、北条郷は守山の地に遷座し祀ったのだといわれている。
その後、八幡神が合祀され守山八幡と称されるようになった。
「北条氏菩提寺 北条寺」
北条義時 1163-1224 鎌倉幕府二代執権、時政の次男、頼朝死後、13人の合議制のメンバーに、三代将軍源実朝暗殺されると京都から九条
頼経を四代将軍に迎え、武家政権を確立させた。義時は、公家監視の「六波羅探題」は永続している。
北条寺のあるあたりは鎌倉北条氏2代目の義時が若き日に屋敷を構えたところという。
義時の父時政の屋敷は願成就院の近くで、現在では狩野川を隔て対岸であるが、当時は川はもっと東を流れていたため、2つの屋敷は近かったのだそうだ。
大蛇に飲まれて命を落とした我が子を弔うために義時が建立したのがこの北条寺であると伝えるが、実際には南北朝期の創建らしい。
かつては宝城寺と称した。
戦国時代には後北条氏によって保護されたが、秀吉によって焼かれ、その後江戸時代に再建されるも、火事や台風によって古い建物は残っていない。
しかし江戸時代の絵馬が多く残り、かつては盛んに巡礼されていたことが知られる。
鎌倉時代前期の阿弥陀如来坐像と南北朝時代の観音菩薩坐像が安置されている。
本堂 北条家墓地
北條寺は、臨済宗建長寺派の寺院。鎌倉幕府二代執権北条義時の創建と伝えられている。
義時は北条時政の子で江間小四郎と称していた。 境内には、北条義時夫妻の墓がある。
本尊は、源頼朝が源氏再興を祈願したという「木造観世音菩薩坐像」(県重文)。
その他、運慶作と伝わる「木造阿弥陀如来坐像」、義時の姉北条政子の寄進と伝わる「牡丹鳥獣文繍帳」(県重文)がある。
境内に蓮 古い墓塔
次回は、沼津市内方面に。
それは、駿河湾トラフの深い谷がある、その下にフイリピン海プレートが沈み込んで、噴火形成火山が「富士山」である。
写真の島が「淡島」で全体が自然公園(マリンパーク)波静かな海水浴場でも知られている。渡るには船で、千鳥観光汽船が運営している。
三津シーパラダイスからいろいろコースが出ている。
伊豆・三津シーパラダイスは、沼津市にある水族館。 伊豆箱根鉄道が運営( 龍宮丸、水族館、 飼育、 ギャラリーなど。
かつては無人島、1940年に第二海軍技術廠の「音響兵器部 淡島臨海実験場」という軍事施設が設置されたが終戦に伴い撤去、
1980年代に東京相和銀行のオーナー「長田庄一」が淡島全体をリゾート開発、1984年に水族館・プール・パターゴルフ場を中心とした
「淡島海洋公園(現あわしまマリンパーク)」が開業した。
リゾートホテルである淡島ホテルが開業し、ホテル従業員が島内に在住しているが、無人島扱いという。
1999年に東京相和銀行は経営破綻したが、マリンパークに関しては運営会社を移転している。
弥生時代の遺跡が発見され、土器が出土し、島の山頂には淡島神社が置かれ、珍しい昆虫なども島内に生息し、散策だけでも楽しめるようになっている。島面積0.165KM2・海線2.2KM.
写真の小さい島「淡島」沼津市
伊豆国、古来、罪人配流の地で、源頼朝や日蓮も流された。平安時代に、駿河守「藤原維景」は、土着して狩野氏を名乗っている。
子孫は、伊東、宇佐美、河津氏として栄えた。
伊豆介とし赴任した「平時方」は、北条(韮山)に土着、その孫「北条時政」は、(蛭が小島に流罪の源頼朝)を助け鎌倉幕府の樹立に貢献した。時政の娘「政子」は、頼朝の妻となり、頼朝死後、尼将軍と称された。
室町時代は、足利政知は、田方群堀越(韮山)に居を構え関東の支配をめぐってしもうさの「古河公方」と対立していた。
足利政知没後、北条早雲が堀越公方を攻め韮山に拠点を置いている。小田原北条氏の基礎を築いた。
韮山の「反射炉」は、1792年ロシア使節団根室に来航し、江戸海洋防衛問題が持ち上がり、幕府老中松平定信は、下田開港場と韮山に
炉が築かれた。
「願成就院」は、伊豆の国市にある、高野山真言宗の寺院。山号は天守君山。境内は国の史跡に指定されている。
仏師運慶の数少ない真作の一つである阿弥陀如来坐像などの仏像を安置する。
願成就院
吾妻鏡によると、1189年に北条政子の父親で鎌倉幕府初代執権であった北条時政が、娘婿の源頼朝の奥州平泉討伐の戦勝祈願のため建立したという。寺に残る運慶作の諸仏はその3年前の1186年から造り始められており、奥州征伐の戦勝祈願のためというよりは、北条氏の氏寺として創建されたものと考えられている。
1236年までの間、願成就院の仏堂、塔などの伽藍造営に関する記事が散見され、北条時政とその子義時、孫の泰時の代にかけて次々に伽藍は拡大したことがわかる。
現境内の北方、住宅地を挟んで500メートルほど離れた位置に礎石などの遺構が確認、同遺構と現境内の間には苑池の跡も見出された。
全盛期には巨大な池とその中の小島を橋でつなぎ、多くの堂宇や塔がそびえ立つ、藤原時代様式の壮大な伽藍を誇る伊豆屈指の大寺院として栄華を誇ったと云う。しかし1491年に北条早雲による動乱で願成就院はほぼ全焼している。
空海 774-835 真言宗開祖 讃岐国に生まれ、四国各地修業して出家、 入唐氏、帰国後嵯峨帝と親交 高野山を賜る。
京都東寺に道場 書は三筆の一人 弘法大師に、伝説、書物多い。
弘法大師像
「仏像」
木造阿弥陀如来坐像、大御堂本尊・国宝 - 鎌倉時代、運慶作。像高142cm。胸前に両手を挙げる説法印の阿弥陀如来像。
平成25年ー不動明王二童子立像、毘沙門天立像を含めた5躯一括で国宝に指定。
木造不動明王二童子立像、大御堂・国宝 像高は不動像が136.8cm、制吒迦童子像が81.8cm、矜羯羅童子像が77.9cmである。
本尊阿弥陀如来の眷属(脇侍)として安置されている。
不動明王像と毘沙門天像(後出)の胎内に納められていた塔婆形銘札(めいさつ)には、「文治2年(1186)5月3日、北条時政の発願により運慶が造り始めた」という趣旨の記載がある。
木造毘沙門天立像、国宝 - 本尊阿弥陀如来の眷属(脇侍)として安置されている。不動明王ニ童子像と同様、胎内に納められていた運慶の名のある塔婆形名札が保存されており、運慶の真作であることが確認されている。
木造地蔵菩薩坐像(重要美術品) - 北条政子七回忌に、北条泰時が願成就院に奉納した地蔵菩薩坐像。
本像は顔が北条政子の顔となっているといわれ、政子地蔵菩薩の通称がある等。
1189年文治5年、北条時政が源頼朝の奥州討伐の戦勝を祈願して建立し、北条三代(時政、義時、泰時)にわたって、次々に堂宇が建立され繁栄を極めたと云う。
伽藍は、奥州平泉の毛越寺を模した構成であったとも云う。
「守山八幡宮」は、北条氏ゆかりの願成就院の後方、守山の中腹にある。
守山八幡宮は、647年、大山祗神を祭神として創建され、907年、宇佐八幡宮の八幡神が勧請され合祀された。
1180年には、源頼朝が源氏再興を祈願して挙兵している。
現在の本殿は、1632年に久能城主「榊原照久」によって造営された建物。
古代、守山八幡宮の建つ北条郷と狩野川の反対側の江間郷は一つの郷で、狩野川を越えた大男山(雄徳山) 山頂に総鎮守があったと云う。
しかし、狩野川の流れが変わり、両郷を分断してしまったため、北条郷は守山の地に遷座し祀ったのだといわれている。
その後、八幡神が合祀され守山八幡と称されるようになった。
「北条氏菩提寺 北条寺」
北条義時 1163-1224 鎌倉幕府二代執権、時政の次男、頼朝死後、13人の合議制のメンバーに、三代将軍源実朝暗殺されると京都から九条
頼経を四代将軍に迎え、武家政権を確立させた。義時は、公家監視の「六波羅探題」は永続している。
北条寺のあるあたりは鎌倉北条氏2代目の義時が若き日に屋敷を構えたところという。
義時の父時政の屋敷は願成就院の近くで、現在では狩野川を隔て対岸であるが、当時は川はもっと東を流れていたため、2つの屋敷は近かったのだそうだ。
大蛇に飲まれて命を落とした我が子を弔うために義時が建立したのがこの北条寺であると伝えるが、実際には南北朝期の創建らしい。
かつては宝城寺と称した。
戦国時代には後北条氏によって保護されたが、秀吉によって焼かれ、その後江戸時代に再建されるも、火事や台風によって古い建物は残っていない。
しかし江戸時代の絵馬が多く残り、かつては盛んに巡礼されていたことが知られる。
鎌倉時代前期の阿弥陀如来坐像と南北朝時代の観音菩薩坐像が安置されている。
本堂 北条家墓地
北條寺は、臨済宗建長寺派の寺院。鎌倉幕府二代執権北条義時の創建と伝えられている。
義時は北条時政の子で江間小四郎と称していた。 境内には、北条義時夫妻の墓がある。
本尊は、源頼朝が源氏再興を祈願したという「木造観世音菩薩坐像」(県重文)。
その他、運慶作と伝わる「木造阿弥陀如来坐像」、義時の姉北条政子の寄進と伝わる「牡丹鳥獣文繍帳」(県重文)がある。
境内に蓮 古い墓塔
次回は、沼津市内方面に。