東海道五十三次興津宿
鰻の寝床が連なる街続き、間口に対し奥行きがあるのは江戸時代の名残で、税金逃れだという。幕府は、宿場以外での宿泊を禁止であったが、
休み茶屋にこっそり泊っていく旅人もいたという。茶屋では、さざえの壺焼きを名物として出していた。
駿河湾の海岸も直ぐで眼下には、工業地帯のクレーンと青く輝く海一面。
山部赤人の歌「田子の浦ゆ打ち出でてみれば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ」に出てくる田子の浦は、かって、この辺りの「さった峠」から海岸を見て
歌われたとも言われている。
「興津」は、江戸時代には興津宿として東海道五十三次の17番目の宿場町として発展し、明治以降は鉄道が開通したことにより、西園寺公望などの元勲の別荘が建ち
、避寒地として全国的にも知られていた。現在、清見潟の海岸寄りは埋め立てられ、清水港の興津埠頭となっている。
東海道17番目の宿場町 興津宿 薄曇り、街と駿河湾
「日蓮宗・理源寺」・山号 祥瑞山。所在 清水区興津中町 開山は身延26世知見院日暹。日像の説法弘通の霊地を追慕して慶長年間に草創された。
安政の地震で厄を被り、20世日修が堂宇の建立を果たした。
寺の裏を沢端川が流れ、その向こうに七面山という山がある。沢端川を身延七面山の春木川になぞらえ、身延の地形に合わせて寺が建立されたとある。
江戸時代の初め頃のことで、当地に疫病が流行し、多数の死者が出たので、村の代表者が身延の七面山を信仰して厄を逃れたという。興津駅より西へ徒歩約3分。
山門 本殿
徳川家康ゆかりのある名刹「清見寺」
奈良時代の創建と伝える。鎌倉時代に禅寺として復興し、足利尊氏や今川義元の帰依を受けて繁栄した。
その頃、徳川家康は今川氏に人質としてあったが、当寺の住職太原雪斎に師事し、当寺で勉強していた。
江戸時代には徳川氏の庇護を受けたほか、東海道の目の前にあることから、朝鮮通信使や琉球使の接待がここで行われた。
広島県福山市鞆町にある福禅寺、岡山県瀬戸内市牛窓町にある本蓮寺と共に朝鮮通信使遺跡として国の史跡に指定されている。庭園も国の名勝に指定。
駿河湾を望む風光明媚な高台にあり、室町時代には雪舟が、明治時代には夏目漱石や高山樗牛、島崎藤村が訪れている。
寺の境内を東海道本線の線路が横切って分断されている。
旧国道一号線入口山門 JR東海道陸橋渡り楼門 歴史を感じる鐘楼
今川義元 1519-60 駿遠の太守、武田、北条と同盟、尾張桶狭間で信長軍に討たれた。服部小平太の槍を受けたが、小平太をなで斬りに。
武田信玄 1521-73 甲斐国の大名 軍隊強化領土拡張、戦場で病死。
白鳳時代、清見関が設けられ、その守護として仏堂が建立された。現在の寺は、江戸時代で再建され、家康公が手植えた梅、秀吉が陣鐘とした
梵鐘と五百羅漢などが健在であった。
彫刻 本殿
境内から見た興津の街 遠方は海、工場のクレーンが 境内には無数の石仏
現在は、田子の浦、清水港も近代的コンビナートになってしまっているので、江戸時代のようには、三保の松原等、見渡せない。東海道線の電車が通過していった。
寺を背に五百羅漢の石仏 釈迦像
西国寺公望1849-1940公爵政治家、戊辰戦争で越後総監参謀、伊藤博文内閣の文部大臣、1906年西国寺内閣組織、明治大学設立 軍部急進派を押さえられなかった。
「坐漁荘」は、明治の元老であった公爵・西園寺公望が1920年興津町(静岡県静岡市清水区)に建てた別邸の名。公望本人は政治の中枢から離れ、興津の地に別邸を建て、「のんびりと魚釣りでもして過ごすつもり」と云う意味を込めて『坐漁荘』と命名、東京市神田区駿河台の私邸から移り住んだ。
「のんびりと過ごしたい」と隠棲生活を望んだ本人の意思と裏腹に、大正から昭和にかけて激動する日本の政治の数々の局面でクローズアップされた舞台となり、
日本政界の中枢人物による興津の坐漁荘詣でが頻繁に行われたと云われる。
門 玄関
1940年に公望が亡くなった後は西園寺家が管理、建屋の老朽化が著しくなったことから1968年に博物館明治村への移築話が纏まり1970年に明治村での移設公開が始まった。
2003年には登録有形文化財に登録され、2012年建物保存のため工事が行われた。現物は、2004年に復元された。「興津坐漁荘」の名称で一般に公開された。
旧国道一号線 庭園 裏庭
西園寺公望が政治家になった契機は伊藤博文の欧州憲法視察団に選ばれたこと。首相を2回経験、2回目は明治最後の首相、1923年元老の勅命を受け(元勲)。
元勲、元老とは天皇に直接意見を言える立場の人。もともと大日本憲法上には元勲、元老の規定がなく、1926年に皇室儀制令により制定されました。
西園寺以降に勅命を受けたものはなく、「最後の元老」として、松方正義死後はただ一人の元老であった。西園寺公望は1940年、この坐漁荘で亡くなっている。
資料展示、洋間 見晴らしの良い客間
江戸無血開城の勝海舟と西郷隆盛の会談は、「望嶽亭」が駿河湾のこの辺では、と探したが判らなった。
小池邸屋敷 昔懐かしい格子戸の家
旧国道一号線の「興津一里塚」「西本陣・東本陣」「身延山道標石塔寺跡」などが街道筋にある。
土間と各部屋 庭園
東海道を旅し弥次喜多を書き上げた
「十返舎一九」滑稽本作家 1785-1831 駿府の下級役人の子、25歳で浄瑠璃作家、38歳で「東海道道中 栗毛」弥次喜多珍道中記刊行
20年間続編刊行された。性格は真面目でコツコツメモ魔であったようだ。
次回は、清水(江尻宿)・三保の松原へ。