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曽我兄弟の仇討

2013-10-26 | 富士山麓日記

曽我兄弟の伯父「伊藤祐親」は。東国における親平家方豪族として平清盛からの信頼を受け、1159年の平治の乱に敗れて伊豆に配流されてきた源頼朝の監視を任される。
しかし「祐親」が大番役で上洛している間に、娘の八重姫が頼朝と通じ、子・千鶴丸を儲けるまでの仲になってしまう。
「祐親」は、これを知って激怒し、1175年、平家の怒りを恐れ千鶴丸を松川に沈めて殺害、さらに頼朝自身の殺害を図った。
頼朝の乳母・比企尼の三女を妻としていた次男の祐清が頼朝に知らせ、頼朝は夜間馬に乗って熱海の伊豆山神社に逃げ込み、北条時政の館に匿われて事なきを得たという。
「祐親」は、この前後に出家している。

「祐親」の子「河津祐泰」は、遺領争いが原因で、一族の「工藤祐経」に殺される。
「祐泰」の妻は、兄弟の二児を連れて(その時の兄祐成(5歳)弟の時致(3歳))「曽我祐信」と再婚。

曽我兄弟、兄祐成1172-93・弟時致1174-93.


「工藤祐経」は、「吾妻鏡」は、1184年の一ノ谷の戦いで捕虜となり、鎌倉へ護送された「平重衡」を慰める宴席に呼ばれ、鼓を打って今様を歌った記録がある。
祐経は平家の家人であった事から、重衡に同情を寄せていたという。
源範頼率いる平氏討伐軍に加わり、山陽道を遠征し豊後国へ渡る。1186年に静御前が鶴岡八幡宮で舞を舞った際に鼓を打っているという。
1190年の頼朝の上洛では武装した随兵とは異なり、水干や布衣を着して頼朝の側近くに従っている。
1192年、頼朝の征夷大将軍就任の辞令をもたらした勅使に引き出物の馬を渡す名誉な役を担った。
祐経は武功を立てた記録はなく、都に仕えた経験と能力によって頼朝に重用された。

1193年、頼朝は富士の裾野で大規模な巻狩りを行い、祐経も参加している。
巻狩りの最終日の5月深夜、遊女らと共に宿舎で休んでいた所を、曾我祐成・時致兄弟が押し入り、祐経は兄弟の父・河津祐泰の仇として討たれた。
祐経が仲介して御家人となっていた備前国吉備津神社の神官・王藤内も一緒に討たれている。騒動の後、詮議を行った頼朝は曾我時致の助命を考えたが、祐経の子の犬房丸(伊東祐時)が泣いて訴えたため、時致の身柄は引き渡され、梟首されている。



富士市久沢「曽我寺」、

曽我寺は、曽我兄弟の菩提寺。五輪塔の墓2基、供養塔2基、兄弟の像、本堂の中には位牌と木像があるという。
無住の寺で、富士宮の粟倉の重林寺が管理をしているという。

寺入口              身代わり地蔵、塔                 曽我兄弟の墓地
    

カヤとシイは、市指定天然記念物指定
「カヤ」目通り 4.25M 実測値樹高 20.0M 雌株で寺創建当時のものという。
「シイ」目通り 5.0M 目測、樹高 20.0M、、空洞あり。
「イチョウ」目通り 3.3M 実測値、樹高 12.0M。

境内は、古木で茂っている。

天然記念物「シイ」の神木                              文殊菩薩像
    

曽我兄弟の像・富山の人が造ったとある、


「身代わり地蔵尊」が、昔から寺の門前に祀られていて、病気などの身代わりをしてくれると言い伝えられています。
特にイボ、ウルシカブレ、皮膚病などが治る様にお願いして、振り向かないで家まで帰るといつの間にか治ってしまうという言われる。

                  曽我兄弟の位牌、木像がある本堂
毎年命日に当たる5月28日前後に、曽我兄弟を偲び供養祭が行われる。


曽我裕成は22才、時致は20才の春を迎えていました。
兄弟は、曽我を出て、箱根権現で別当と対面などして、巻狩りには、5月25日から参加しましたが、なにせ仕送りの無い身分で食べ物にも事欠く始末でした。
そのため和田義盛、北條時政等縁故を頼って生活していました。裕経の館へも斥候のため行き、夕飯の接待を受けました。
巻狩りも終盤になった5月28日(旧暦。 新暦は6月下旬)に、兄弟はいよいよ本懐を遂げようと覚悟を決めました。
そこで、兄弟は母への形見の品を届けさせるため、団三郎・鬼王を呼び出だしたのでした。本曲にあるように二人はなかなか承服しませんでしたが、なんとか説得し、曽我に帰しました。
そして、深夜雨の中、夕べの宴で前後不覚に遊女と添い寝していた工藤裕経43才を、斬り、彼から貰った刀で留めをさしたのでした。

「謡曲より」

音止の滝手前の曽我橋(この奥に隠れ岩・工藤祐経の墓がある)


頼朝のこの狩は、かなりの規模で、数えることができない程の御家人が参加したと云う。
その中に「曾我祐成・時致」兄弟がおり、この狩の際に、領地争いで殺された父の仇「工藤祐経」を討とうと密談。
ところが滝の音がうるさく、 兄弟は、「滝の音を止めよ」と、神に願い出た。
なんとあれだけの轟音が止み、曽我兄弟はみごと敵を討つことがで、この滝は、そのときから「音止の滝」と呼んだと云う。



「曾我の隠れ岩」は、音止の滝の東側、曾我兄弟が、敵を討つ時に隠れていたという言い伝えが残る「曾我の隠れ岩」がある。

こんもりと小山に
    

雑草が茂っているが手入れはされている
  

兄弟の仇工藤祐経は、頼朝の寵臣でした。その人を討つということは、頼朝を中心とする東国の武家秩序に対する反逆である。
仇討ち成就は死を覚悟しての行動であった。
頼朝は五郎が稀代の勇士であるため助命を考えましたが、祐経の遺児の嘆きを見て、断首による処刑を申し渡します。
彼らが使用した刀は、「箱根神社」に奉納されている。
工藤祐経の墓や兄弟が密談をしたといわれる曽我の隠れ岩や源頼朝の命によって兄弟の霊をなぐさめるための曽我八幡社がある。

彼岸花                                            工藤祐経の墓
     

次回は,田貫湖・陣馬の滝へ。