「村社 一宮浅間神社」は、八代郡市川三郷町にある神社。
西尾連湖を下った所に鎮座地、高田集落の南方、神社は古くは単に「一宮」や、「一ノ宮明神」「市川一の宮」などと称されている。
主祭神は、木花咲耶姫命。
富士山・864年貞観大噴火、300年前の宝永大噴火。

社伝によれば景行天皇朝の創祀、「日本三代実録」に864年の富士山の大噴火を受けてその神の神意を慰めるため、翌865年に勅命によって甲斐国八代郡に創建され、官社に列されるとともに祝と祢宜が置かれたという「浅間明神の祠」に相当し、「延喜式神名帳」に載せる
甲斐国八代郡の名神大社「浅間神社」であり、「一宮」の古称も甲斐国の一宮とされたことに因むものであるという。
甲斐国一宮は通説として笛吹市浅間神社に当てられているので「一宮」の称も鎮座地である旧市川郷のそれであると考えられる。
924年に御正体山に対する里宮であった現社地へ遷座、山上の旧址には山宮として山祇社を奉斎し、「甲斐国社記・寺記」によると、
924年、1167年 - 1168年、1186年、1382年、の社殿造営が知られる他、神領地30町(およそ3,600坪)を有し、社家12人が所属していたという
神社前 太鼓橋 楼門



武田氏が甲斐国内の神社の神官を対象に府中八幡社へ勤番を命じたが、その1561年の「府中八幡社勤番帳(武田氏番帳)」の45番に「一の宮の祢き(祢宜)」と見える「一の宮」が当神社の事と考えられている。
1582年に徳川家康が甲斐に入国、神社に布陣したと伝え、一時荒廃したが、その後再興され、1603年には徳川四奉行の黒印で市河高田村(現高田)中に1石6斗5升の社領と神官の屋敷分として260坪が安堵されたり、家康からも狩衣や太刀が寄進されたという。
1649年には、将軍徳川家光から改めて1石6斗余の朱印領が安堵されるとともに社領内の竹木山林や神主屋敷等は諸役免除の除地とされ、それらは江戸時代を通して維持された。
明治初め(19世紀中頃)に村社に列した。
本殿

山梨百名山、標高1279m 「蛭ヶ岳」登山は、往復約3時間 初心でも安心して登れる。
山頂、富士山、南アルプス、八ヶ岳が一望 、「四尾連湖」を見渡す事ができる。
蛭ヶ岳中腹、四尾連湖手前「浄身石」湧水


「浄身石」は、 四尾連地区入口の道路わきに湧水が流れ、この清水を貯えた池のほとりにある。
石は乳児によく似た形をしていて、長さ1.2mの大石。
木花咲耶姫が富士山の噴火を逃れてここに来た時、陣痛がおこり無事出産し、この浄身石に座して身を浄めたと伝えられている。有形文化財
冷水が滾々と



「四尾連湖県立自然公園」、湖面標高880m、周囲1.2km、最大水深13mの小規模なカルデラ湖である。
江戸時代には富士講における富士八海のひとつとして、富士五湖(山中湖、河口湖、西湖、精進湖、本栖湖)の5湖及び、泉水湖、明見湖、(富士吉田市)とともに数えられていた。
四尾連の湖名は地元に伝わる湖の神が「尾崎龍王」という龍神であり、4つの尾を連ねた竜が住んでいるという言い伝えであることが由来であり、湖にほど近い小字名も四尾連である。
雨乞い信仰の湖としても知られ、牛馬骨を投げ込んだ祈雨祈願が行われていたという。流入する河川も、流出する河川もない内陸湖である。
四尾連湖畔 湖面


キャンプ場が一軒ある。山登りは、蛾ヶ岳登山、足を延ばして蛾ヶ岳~三方分山~富士五湖・精進湖までの縦走が出来る。
緑に囲まれたキャンプ場


市川大門は、10世紀、甲斐国において唯一荘園公領制の確立以前に立荘された市河荘が成立し、町域は荘域の南端に位置。
平安時代には常陸国から源義清・清光親子が同荘に配流され、甲府盆地各地に土着して勢力を広げる甲斐源氏の勢力基盤となるが、町域には平塩岡の伝義清屋敷跡や平塩寺跡など武田氏に由来する史跡があり、同じく義清伝承の残る甲府市南部から中央市・昭和町にかけての地域とともに市河荘の中枢と考えられる。
近世には5か村が成立し、八代郡西郡筋に属する。全村が幕府直轄領、甲府藩領を経て、1724年に甲斐一国が再び直轄領化されると在方は、
三分代官支配となり、町域は市川代官支配となる。
町域には駿州往還の宿場と富士川舟運の黒沢河岸が存在し、物流・交通の拠点となる。
市川大門方面下界曇 蛭ヶ岳頂上


古くは市川郷と称して、紙を漉くことを業とした伝統的な和紙(市川紙)の産地である。
中世、源義清が荘司として土着し、「甲斐源氏」の発祥地、江戸時代の後半には幕府の代官が置かれ、約8万石の所領の統括がなされた。
明治以降も郡役所が置かれ、地方中都市として、和紙生産の町として栄え、製紙業者は明治時代約370戸を数えたと云う。
第二次世界大戦後は障子紙、和紙、市川花火の生産のほか、メリヤス製造業、自動車部品工場などもでき、工業生産は多彩化している。
大門大橋 三郷町


ここは、絶景であるが残念ながら今日は、曇り空、
ぼちぼち紅葉が 山は秋に


「中道往還」は、古代から甲駿最短の交通路として機能し、中世から近世に六十六部廻国納経所中世となった円楽寺や、龍華院などの寺院が創建され、甲斐における修験仏教の根拠地となった。
中道往還は軍道でもあったため、戦国時代には守護武田氏において武田信縄と弟の油川信恵が争った際に、駿河国今川氏の支援を受けた信恵は上曾根の勝山城に拠り抵抗しており、しばしば今川氏に奪還されて侵攻拠点とされた。武田家滅亡後の遺領を巡って発生した天正壬午の乱においても徳川家康が勝山城を足がかりにしている。
河内路や若彦路の整備で中道往還の重要性は下がり、近世には米麦栽培のほか養蚕や木綿など商品作物の生産が行われた。近代には身延線の開通もあり打撃を受けるが、果樹栽培(桃など)や養豚などに力を入れている地域、中央道甲府南ICに近い。
山間の三郷・六郷町・身延


「笛吹川」名前の由来となる、「伝説」がある。時代は武田勝頼が天目山にて自害する直前、笛吹権三郎というものがいた。
一つの仏体を背負って旅に出た父親の後を追い、捜しながらこの地にたどり着き、権三郎母子は、仏体を得はするものの父親の姿はすでになし。二人はこの地にとどまり、母親は笛の音を大変好んだ、ところが、母親はふちに落ち流れてなくなってしまう。
権三郎は、母を慕い、川を上下しながら笛を吹きすまし、吹きすまし、彼もついには、川に流れてしまった・・・。
笛吹川が、富士川に合流し、駿河湾に。
合流付近の富士川

「富士川」は、山梨県北西部を流れる 釜無川を上流とし、県北東部を流れる 笛吹川が甲州盆地で合流され南流して静岡県駿河湾に注ぐ一級河川で日本三急流の一つ、長さ128km。
「富士川大橋」は、南巨摩郡増穂町と西八代郡市川大門町を結ぶことを目的として、1998年(平成10年)に開通した。
釜無川と笛吹川との合流点よりすぐ南に位置していることから、橋長が606mと富士川に架かる道路橋としては,最も長い。
一級河川の富士川に、河口湖まで45.7km。

中央高速甲府南ICへ。