syuの日記・気まま旅

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岡山・吉備津彦神社

2014-05-03 | 気まま旅
中國地方の旅に出ました。まず岡山から。

「桃太郎伝説は古事記から始まる」
桃太郎の神話は日本で一番古い書物の古事記に記してあり、 天地が開けた神代の昔、
イザナギ・イザナミと云う夫婦の神様が現れ日本の国土を造り、またこれを支配する神々をお産みになり、ところが女神はまもなく黄泉という国へ去ってしまわれた。男神は、大変悲しみ後を慕って黄泉の国まで訪ね、女神の居られる所へ入っていきますと、こわ、いかに女神は見るも気味の悪い姿に変っておられましたので男神はびっくりして逃げ出されました。
すると、みにくい姿を見られた女神は怒ってシコメ軍という黄泉の国の鬼共を呼び集めて男神を追いかけて捕えよと命じました。・・・・・。

吉備国・東西南北の交差点「岡山県」へ


岡山と云えば、桃太郎伝説と紫雲丸の沈没事故を思い出していた。
1955年・昭和30年、濃霧の中、紫雲丸と第三宇高丸が衝突、紫雲丸が沈没し168人死亡する事故、これは、当時、国鉄戦後五大事故の一つ、
この事故を契機として、本四架橋(本州四国連絡橋)の構想が具現化していったと云う。

事故は、修学旅行の学生・児童を中心に死者が多数出たため、四国内の人々は大きな衝撃を受けた。
以降数年間は、香川県内の学校の修学旅行の目的地は、宇高航路を利用しないコースに変えていると云う。
惨事は、瀬戸大橋・児島(岡山県)から 坂出(香川県)ルートで、瀬戸内海側は、温暖寡雨で児島半島は最も寡雨地域で塩田業が盛んで乾燥度が高い
山火事も多い地域、が、一方夕凪と晩春の霧も有名で、吉備高原や山間盆地は内陸型気候を示し、中国山地三陸型の日本海気候に近いのか、霧がよく発生私が高校2年時、修学旅行先を話し合っていた時の事件でよく覚えている。
今回は、雨の少ない、新幹線岡山駅から吉備線で「吉備津」へ。
山陽地方東部の岡山県は、東は、兵庫県・西に広島県・北は鳥取県・南に瀬戸内海と四国香川県で中央山地・吉備高原・岡山平野・盆地列が連なっている。その中国山地から吉井川・旭川・高梨川の三大河川が南流して瀬戸内海に注いでいる。
岡山市は、県南部の岡山平原中央の市。旭川西岸小丘に位置しているので名の由来と聞く。
岡山藩31.5万石の城下町である。

六高は昭和20年に戦災に遭って校舎の大半を焼失し、戦後に旧陸軍中部第48部隊跡( 現在の岡山大学津島キャンパス)に移転して新制岡山大学法文学部が、 創立100周年 を記念して平成12年に岡山駅前に建てられた、高ゲタ黒マントの六高生記念像。


「新幹線のぞみ」
東海道・山陽新幹線の全区間を走破する東京駅 - 博多駅間の列車の1174.9 km(これは営業キロで、実キロは1069.7 km)の運行距離は在来線も含めた日本の鉄道の定期旅客列車では、「北斗星」に次ぐ4位の長さである。
充当される車両も東海道・山陽新幹線での新型車登場の度に優先的に充当されており、最高速度も運転開始当初の300系の270km/hから500系・N700系の300km/hまで向上、列車名は一般公募で決定したものとしばしば誤解されるが、JR東海の社内で仮称「スーパーひかり」の本採用を回避すべく別の名称を用意したもので、かつての修学旅行列車の名称だった「きぼう」をアレンジする形での命名ともいわれ、名称決定委員の一人、阿川佐和子が父
作家 阿川弘之氏より「日本国鉄の列車の名前は歴代全て大和言葉でつけられてきた」とのアドバイスを受け、委員会の最後に父の言葉とともに、最有力候補となっていた「希望」を大和言葉にすると「のぞみ」になると進言したものが採用されたと云う。

東京駅16番ホームから
  

「JR岡山駅」は、明治24年、 山陽鉄道 三石駅 - 当駅間の開業と同時開業し旅客・貨物の取扱を開始、 山陽鉄道が倉敷駅まで延伸開業。三好野が駅弁の販売を始めている。明治30年、 荷運夫(後の赤帽)が配置される。明治34年、 三好野が岡山駅支度所(食堂)を開店。
明治37年、 中国鉄道(現:中鉄バス)吉備線が開業し、本線(現在の津山線)と同時に当駅の西端に乗入れ、明治39年、 山陽鉄道が国有化。山陽鉄道の駅は国有鉄道の駅となる。
昭和20年6月29日 - 岡山空襲、本駅舎は火災から免れる。昭和34年、 岡山駅地下三番街開業した。

1975年・昭和50年、 山陽新幹線 当駅 - 博多駅間が開業。

岡山駅から吉備線に乗り換える。

吉井川から旭川へ2大河川    岡山駅から              吉備線へ一の宮で下車
    

吉備線の岡山駅 - 総社駅間は20.4kmで、線路規格が低く非電化・単線であることから所要時間は長くかかる。沿線には吉備津神社や最上稲荷などがあることから、大晦日から元日にかけては初詣客のために終夜運転が行われていると云う。
この終夜運転は戦前の中国鉄道時代から行われていたという。「吉備津」駅下車。

古代吉備国の文化を尋ねる
    

吉備線路を挟んで向かいの神社「吉備津彦神社」(吉備津神社は、この後に紹介しますので間違えないで下さい「彦」が付く方です)

市の西部吉備の中山北東麓に鎮座し、祭神ー吉備津彦命。備中国一の宮。

大吉備津彦命 は、第7代孝霊天皇の皇子。大吉備津日子命とも記し、別名を比古伊佐勢理比古命とも。崇神天皇10年、四道将軍の一人として山陽道に派遣され、若日子建吉備津彦命と協力して吉備を平定した。
その子孫が吉備の国造となり、古代豪族・吉備臣へと発展したとされる。

吉備津彦神社
    

社伝では推古天皇の時代に創建されたとするが、初見の記事は平安後期である。
神体山と仰がれる吉備の中山の裾の、大吉備津彦命の住居跡に社殿が創建されたのが起源と考えられている。

905年から927年にかけて編纂された「延喜式神名帳」には、備前国の名神大社として安仁神社が記載されているが当社の記載はない。
一宮制が確立し名神大社制が消えると、備前国一宮は吉備津彦神社となったとされている。
これは、939年における天慶の乱(藤原純友の乱)の際、安仁神社が純友に味方したことに起因する。
一方で吉備津彦神社の本宮にあたる吉備津神社が、朝廷による藤原純友の乱平定の祈願の御神意著しかったとして940年に一品の神階を授かった。
それに伴い安仁神社は一宮としての地位を失い、備前の吉備津彦神社にその地位を譲る事となったとされる。

    

戦国時代には、日蓮宗を信奉する金川城主・松田元成による焼き討ちに遭い社殿を焼失した。
松田氏滅亡後、宇喜多直家が崇敬し、高松城水攻めの際には羽柴秀吉も武運を祈願したと伝えられている。

江戸時代になると姫路藩主で岡山城主の池田利隆が本社を造営した。
利隆は光政の誕生を期に子安神社を造築した。その後、岡山藩主池田忠雄により本社・拝殿が造営された。
池田綱政が社領300石を寄進したほか本殿を造営し、本殿・渡殿・釣殿・祭文殿・拝殿と連なった社殿が完成した(1697年に完成)。

    

本殿は、三間社流造り、1696年、岡山藩主「池田網政」が再建した。

入母屋造りの本殿


池と中島と背後に赤松の林で構成された庭園があった。

    



重文ー太刀(銘 井上真改、附 糸巻太刀拵)、1678年に岡山藩主・池田綱政が奉納したもの。

県指定文化財は、紙本淡彩神事絵巻・御田植祭の様子を記した絵巻。
1469年-1486年のものとされる。県立博物館で保管、などがある。

    

随神門両側にある常備灯は高さ11.5mの巨大なもの。

  

次回は、秀吉の水攻め「高松城」へ。