「広島県・福山市」福山駅下車
県南東部、県下二番目の都市、福山城(定興寺別称、蝙蝠山)の「蝙」が訛って「こうやま」「ふくやま」のどの説がある。
芦田川河口に開け、「水野勝成・福山藩10万石」の城下町で、ワタ造り「木綿織物・塩・イグサ畳表。鍛冶細工」などが盛んであった。
現在は、瀬戸内工業地帯で埋め立てられ拠点都市の公害問題が。琴・下駄でも知られている。
JR福山駅は、新幹線は「のぞみ」や「さくら」が停車するほか、陸路では駅南北口より長距離高速バスが多数設定されており、広島県東部と岡山県井笠地方を抱合する広域都市圏のターミナル駅である。
また、西瀬戸自動車道を経由し、芸予諸島の島々や愛媛県松山市、今治市行きの高速バスも発着しているため、本州から四国への乗換え駅としての機能も併せ持つ、都市型駅である。
新幹線の窓から見える福山城と緑の杜
田中翁の快心作の「五浦釣人」像が「福山駅南口バスタミナール広場」
平櫛田中氏 1872-1979 「福山市名誉市民」 1944年東京芸術大教授・1954年文化功労章・1962年文化勲章。
東京から五浦に住を構えた「岡倉天心先生」の師に対する報恩の気持ちが込められた「五浦釣人像」。
南口タミナールに「岡倉天心像」
駅北口広場駐車場に、福山城の「物見櫓」石垣跡の一部。
福山城北口駅前商店街を東に1.5kmほど歩くと
「福山城」
福山駅前、常興寺山の丘陵を利用した山城。1622年、備後領主「水野勝成」が築城した。
京都伏見城の遺構が多数移築している。水野氏ー松平氏ー阿部氏の居城、昭和20年の戦災で天守閣焼失している。
66年市制50年記念で復原され、博物館が出来ている。
伏見城遺構ー伏見櫓・筋鉄御門など。
水野勝成が備後領主に
「水野 勝成」は、1564-1651 戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。三河刈谷藩主、大和郡山藩主を経て備後福山藩の初代藩主となる。
高天神城の戦い・ 天正壬午の乱・ 小牧・長久手の戦い・ 九州転戦・ 関ヶ原の戦い・ 三河刈谷藩主・ 大坂の陣・ 大和郡山藩主・ 初代福山藩主。
水野家・菩提寺に参拝
水野氏時代
福山藩は幕府が毛利氏などの中国筋の有力外様大名に対する「西国の鎮衛」として水野勝成に備後地方を与えたことに端を発する藩で、明治維新まで歴代有力な譜代大名が配された。
関ヶ原の戦い以降、後に福山藩となる備後国は安芸国と共に福島正則によって領有(49万8千石)されていた。しかし、正則は有名な広島城無断修築の咎で1619年に改易となり、領地は分割され、安芸及び備後北部・西部は浅野長晟(42万石)に与えられ、備後南部には徳川家康の従兄弟で大坂の陣では後藤基次を破るなど卓越した戦歴を持つ水野勝成が、大和国郡山藩(6万石)から4万石の加増を受けて10万石で入封することになった。
領地構成は備後国の深津郡、安那郡、沼隈郡 神石郡 品治郡 葦田郡、備中国の小田郡、後月郡のそれぞれ大半であった。
現在の行政区分では福山市全域と尾道市の東部、府中市全域、三次市や庄原市の南部、笠岡市や井原市の西部、神石高原町の大半である。
勝成は入封と同時に福山城と城下町の建設に着手し、福山城は4年近い歳月を費やし1622年に完成した。また、勝成は新田開発や灌漑事業、産業育成を行うなど領内の経営に努め藩政の基礎を築いた。
1626年には勝成の従四位下昇進により福山藩領は相模国愛甲郡厚木村(現在の神奈川県厚木市)に飛び地1000石の加増を受け計10万1000石となった。
1638年の島原の乱において、勝成及び子の勝俊、孫の勝貞率いる福山藩兵約6000人は、幕府上使を除き九州の大名以外で唯一幕府軍に参戦した。
1639年に勝成は隠居したが、その後も隠居料(2万石)のほとんどを新田開発や用水路の整備に費やしたという。
1651年の勝成の死後、勝俊、勝貞、勝種と続くが勝成の政策は基本的に踏襲され福山藩は着々と発展を遂げていき、藩成立当初に農民全体の7割以上であった小作民もほぼ0となった(この間に石高は約3万石増加した)。
1697年、勝種の急死により生後間もなくで跡を継いだ5代・勝岑が1698年、に僅か2歳で死去し水野家は改易となった。
これに対し一部の藩士や領民は水野家の存続を求めて福山城に籠城する動きを見せるが、家臣の説得により間もなく静まったという。
水野氏は名門の故で勝成の孫・水野勝長が能登国西谷藩1万石に取り立てられ家名は存続している。
天領時代、水野家の断絶により福山藩領は一時天領となり幕府から代官三人が派遣された。
代官所は城下東端の三吉町に置かれ(三吉陣屋)、福山城の城番は讃岐国丸亀藩の藩主京極高或(縫殿)が務めた。
同時に幕府は厚木村を除く領内全地域の検地(元禄検地)を命じ岡山藩から検地団約2400人が送り込まれ、水野時代の増産や検地の厳格化、尺度の変更による面積の水増しなどより福山藩の石高は約15万石と査定されたと云う。
この検地以前の石高は約13万2800石だったので実質的には平均で約10%の増税に。
福井駅北口を出ると「福井城」堀と石垣と大噴水が
1710年、阿部正邦が下野国宇都宮藩より10万石で入封する。
その後、正福、正右、正倫、正精、正寧と続くがその殆どが江戸住まいで福山に帰城することも希であったと云う。
阿部氏の時代は危機的な財政難が続いたこともあり、1730年には本丸御殿の奥向部分が江戸藩邸に移され、1750年には、二の丸下段の城米蔵が取り壊されるなど、必要性の薄まった施設は撤去されている。
築城時、1622年は、野上村常興寺山に福山城に「水野勝成入城」本丸2,624坪 二之丸8,809坪 三之丸31,931坪 小丸山7,180坪
内堀3,259坪 外堀20,163坪 沼(小丸山裏)3,500坪の城と云う。
赤穂城や松前城など福山城より後に築かれたものもあるが、慶 長期から続く近世城郭の体系に含まれる大規模な新規築城では最後。
元禄13年・1700年 松平忠雅が入封する。1710年 阿部正邦が入封する。1730年 本丸御殿の奥居間が撤去される。1750年 二の丸城米蔵の大半が撤去。
慶応元年・1865年 櫛形櫓、槍櫓、鉄砲櫓が焼失する。1868年 福山城開城。1871年 廃藩置県。明治6年・1873年 福山城廃城、施設の売却が始まる。
明治8年・1875年 本丸が「福山公園」となる。東側に階段が敷設される。1884年 福山公園が広島県に移管される。1888年月見櫓跡に「葦陽館」建設。
昔、桜開花時期に、車中から福山駅の、ソメイヨシノ、サトザクラ、ヤマザクラなど、約500本のサクラと名城福山城を思い出している。
早朝の為、博物館など開いていませんでした。
「博物館」天守閣内部・歴代藩主遺品資料と考古、歴史資料などを収蔵展示している。
5・10月の福井城公園風物詩は、77万本のバラと10月の菊花展
次回は、市内の芦田川方面に。