「日本のポンペイ」と呼ばれる、芦田川下流の中州は、草戸千軒町遺跡で知られている所。
昭和初期に発見され、昭和36年本格的に発掘しだした。「平安時代末期の建物・井戸・溝に続き、室町時代の遺跡が広範囲に出土した。
これは、芦田川1673年の大洪水で完全に埋没したため。
下流域の 福山平野(福山市中心部)古代は、海中あるいは遠浅の浅瀬で、以降の開発により平野となった区域である。
御幸町大字中津原で高屋川が合流、福山市中心街西側を南南西から南南東へ緩やかにカーブを描きながら、福山市神島町付近で瀬戸川が合流し、
以降南南東方向へと進み、芦田川河口堰を経て、河口となり、備後灘へと流れこむ。
また、気候区分は、瀬戸内海式気候に属し、梅雨と台風以外の降雨および降雪が少ない。
流域都市の年間降水量は全国平均の2/3程度であると云う。
「草戸稲荷神社」は、明王院と隣接している草戸の鎮守
祭神は保食神、宇加之魂神、大己貴神の三神であり、境内には二十社近い稲荷神社と八幡神社が末社として祀っている。
この神社は福山市ではもっとも初詣の参拝客が多く、広島県内でも広島護国神社についで2番目に多く毎年概ね40万人以上が訪れると云う。
朱色の太鼓橋
平安時代の807年に、明王院を開基したとされる空海上人が同寺の鎮守として祀ったのが最初とされる。
当初は社殿が芦田川の中州に鎮座していたが、たびたび洪水により流失していた。
1633年に初代備後福山藩主の水野勝成が現在地に再建。
境内 神水舎 入口
本殿部分は片持ち梁に、本殿空中に浮かぶ神社といった感じであった。
本殿の構造材は、RCだが、屋根は檜皮葺きで伝統的な形式にのっとっている。
神木 石鳥居と朱鳥居 拝殿
境内には二十社 近い稲荷神社と八幡神社が末社として祀っている。本殿からの芦田川・福山駅方面と眺望は素晴らしい。
拝殿 草戸山 末社八幡神社
「真言宗見沖山大聖院日光寺」
仁和三年(887年)建立。
金銅製土砂容器は昭和49年、福山市重要文化財に指定された。
長和•草戸新四国八十八ヶ所の1番(現在不明)•2番•88番が祀られていると云う。
日光寺 石段と門楼 鐘楼
境内は、薬医門、鐘堂、本堂、庫裏が。
本堂
江戸時代からの福山の水道は、(旧水道の面影が残る蓮池,護国神社横,妙政寺前などに)
福山の水道の始まりは,遠く昔の今からおよそ390年前の江戸時代の初め、1619年、備後の国の領主となった戦国の武将 水野勝成がこの地域を
福山と名づけ,福山城や城下町を建設したときに,町に飲料水を送るために芦田川から蓮池まで水を引き,そこから木の管や土の管などでそれぞれの家にくばる水源整備の事業を行ったのが始まり。
その長さはおよそ14kmにもおよび,日本の水道の中でも,一般の飲用を主とする水道としては神田上水,近江八幡水道,赤穂水道,中津水道に次ぐ全国で5番目という歴史を持っている。
「旧水道」は,終戦当時まで一部市民の間で使用されている。現在でも蓮池や幹線水路,取水口などに昔の姿をしのばせるものが一部残されているが
草戸街道に、閉鎖したポンプ場。
閉場で無人
「芦田川」は、
広島県東部を流れる芦田川水系の本流で、一級河川。
備後地方を代表する河川で、流路延長86km、流域面積860㎢。1967年(昭和42年)に一級河川に指定されちぇいる。
2012年現在、中国地方一級河川13水系の内「水質ワースト1位」。
1972年度から38年間にわたり更新し続けてきたが、2011年度のみ前年に同値だった「吉井川」がさらに悪化したため、ワーストを脱出する。
ただ翌2012年では吉井川が水質改善したことにより再びワーストとなった。
芦田川に架かる河口大橋
次回は、尾道方面へ。