「坂本龍馬」の隠れ部屋・桝屋清右衛門宅
1867(慶応3)年、坂本龍馬が率いる海援隊が乗った「いろは丸」と紀州藩の軍艦「明光丸」とが瀬戸内海六島沖で衝突し、「いろは丸」は大破、
鞆港へ曳航される途中宇治島沖で沈没。
その「いろは丸事件」の際、坂本龍馬と海援隊士が宿泊したのが龍馬の隠れ部屋(桝屋清右衛門宅)。
桝屋清右衛門は事件の際に海援隊を支援し、宿舎として提供した。
龍馬は、階段のない2階の隠し部屋に寝泊まりしたと伝えられており、暗殺の危機もかえりみず談判にのぞんだ。市鞆町にある。
駅南口前の「人情酒場」で、昼食ランチ、鶏のから揚げセット¥500でライスお替り自由。これは安い。
昼食も済ませ、商店街をぶらり。駅前の通りを南に歩くと、大きな鳥居、地元を鎮座する神社だから立派な神社と期待。
宮通りの入り口だ。大鳥居の先に、小さな広場、そこに、小さな鳥居と祠がある。
これが「福山神社」。
祭神は、大物主神・大黒さん、事代主神・エビスさん、宇賀御魂神・お稲荷さん、須佐之男命・祇園さんの四神と欲張っている。
江戸時代から近くの入江沿いに別々に鎮座していた、金毘羅社、恵美須社、稲荷社、祇園社を昭和33年に当地に合祀。
平成5年、都市再開発事業により現在の社殿造営。
福が山とある、福の山神社とも言われ親しまれている。
自分の年と名前を告げ、腹の底から 「ありがとうございます」を三回言うのが福山神社のお参りの仕方と云う。(参拝)。
商店街宮通り大鳥居、 公園を兼ねた福山神社
「草戸街道」
舟底板壁は、舟の材料には脂の多い松が用いられ、廃舟になると舟板を家の羽目に張る家が多かった。
「四つ堂」、 備後福山藩には他藩にはない過ぎたるものがあると云う。地域の絆が強い 四つ堂がある、水野勝成の発案で造られたと伝わる。
一里塚にも税金の免除があったように四つ堂に税金がかからず、 南北に走る細い道 元の芦田川の堤防が、家は、石垣を数段築き
土塀で屋敷を囲って水の侵入防いだと。
芦田川に沿った旧草戸道の昔ながらの町並みが
石仏が、道を通る人たちの安全を守るために、300m間隔で設置されていたと伝えられていたと云う。
地蔵堂と石仏
「四ツ堂と観音」四ツ堂の舟形地蔵さん、観音さんは、歴史あり、1829年から祀られている。
「法音寺」の 地蔵さんに、文政七 申秋 (1824年) 尾道石工 丈助 作と刻まれている。
境内には石碑に年号刻まれ、文久二 壬戌歳 四月・・・1862年「壬戌(みずのえいぬ)」。
「真言宗東照山西方院法音寺」
開基は定かでないが、「広島県史」水野記に「古来寺領三拾貫毛利家没収之」とあり、戦国時代以前に開基されていたと思われる。
寺名や御本尊も現在と異なっていたと云う。
法音寺山門 鐘楼 本堂
「明王院」
芦田川西岸、真言宗大覚寺派・山号ー中道山。本尊重要文化財十一面観音立像(最澄作)・807年空海の開基と伝えられている。
1655年福山藩主「水野勝貞」が、明王院と改称している。
石造物群が、日蓮宗石碑、井戸傍の石碑。
国宝の本堂は、鎌倉時代末期「和唐折衷様式」・国宝五重塔は、1348年で全国5番目に古い。
中國観音第8番札所。
山陽花の寺二十四か寺は、17番 円通寺 18番が、「明王院」、19番、西國寺に。
市指定重要文化財
木造南無仏太子像・木造大日如来坐像及び両脇侍(不動明王・愛染明王)坐像・木造五大虚空蔵菩薩懸仏・・木造阿弥陀如来立像・木造不動明王立像
木造不動明王立像・木造制多迦・矜羯羅童子立像・墓石群・明王院鐘楼・七重石層塔・草戸愛宕神社本殿・石層塔残欠他多数ある。
本尊十一面観音像は平安時代前期にさかのぼる作品であり、寺の草創もその頃にさかのぼるものと推定される。中世には門前に草戸千軒町(川底に埋もれた中世遺跡として著名)が栄えた。江戸時代には福山藩主となった水野家・阿部家の庇護の下で繁栄した。
長い石段と山門 歴史を感じる境内
明王院本堂鎌倉時代1321年に建立された仏堂。
和様建築に鎌倉時代以降の新様式である大仏様、禅宗様を加味した折衷様建築の代表例とされている。
内部の外陣に見られる輪垂木を用いたアーチ型の天井は、近世の黄檗宗寺院の建築にしばしば見られるものだが、中世には珍しい。
本堂
明王院五重塔南北朝時代の1348年に建立された純和様の五重塔。
初層内部の四天柱(仏塔の初層内部に立つ4本の柱をさす)、板壁などには極彩色の仏画や文様が描かれている。
相輪の刻銘には、この塔が当時の繁栄した草戸千軒の経済力を背景に、ささやかな民衆の浄財を募って建立されたことが明記されている。
五重塔 鐘楼 本堂
草戸山城本丸跡・中世にこのあたりに勢力を持っていた、渡辺氏の山城。
石仏 福山七福神
次回は、続きで草戸稲荷神社へ。
1867(慶応3)年、坂本龍馬が率いる海援隊が乗った「いろは丸」と紀州藩の軍艦「明光丸」とが瀬戸内海六島沖で衝突し、「いろは丸」は大破、
鞆港へ曳航される途中宇治島沖で沈没。
その「いろは丸事件」の際、坂本龍馬と海援隊士が宿泊したのが龍馬の隠れ部屋(桝屋清右衛門宅)。
桝屋清右衛門は事件の際に海援隊を支援し、宿舎として提供した。
龍馬は、階段のない2階の隠し部屋に寝泊まりしたと伝えられており、暗殺の危機もかえりみず談判にのぞんだ。市鞆町にある。
駅南口前の「人情酒場」で、昼食ランチ、鶏のから揚げセット¥500でライスお替り自由。これは安い。
昼食も済ませ、商店街をぶらり。駅前の通りを南に歩くと、大きな鳥居、地元を鎮座する神社だから立派な神社と期待。
宮通りの入り口だ。大鳥居の先に、小さな広場、そこに、小さな鳥居と祠がある。
これが「福山神社」。
祭神は、大物主神・大黒さん、事代主神・エビスさん、宇賀御魂神・お稲荷さん、須佐之男命・祇園さんの四神と欲張っている。
江戸時代から近くの入江沿いに別々に鎮座していた、金毘羅社、恵美須社、稲荷社、祇園社を昭和33年に当地に合祀。
平成5年、都市再開発事業により現在の社殿造営。
福が山とある、福の山神社とも言われ親しまれている。
自分の年と名前を告げ、腹の底から 「ありがとうございます」を三回言うのが福山神社のお参りの仕方と云う。(参拝)。
商店街宮通り大鳥居、 公園を兼ねた福山神社
「草戸街道」
舟底板壁は、舟の材料には脂の多い松が用いられ、廃舟になると舟板を家の羽目に張る家が多かった。
「四つ堂」、 備後福山藩には他藩にはない過ぎたるものがあると云う。地域の絆が強い 四つ堂がある、水野勝成の発案で造られたと伝わる。
一里塚にも税金の免除があったように四つ堂に税金がかからず、 南北に走る細い道 元の芦田川の堤防が、家は、石垣を数段築き
土塀で屋敷を囲って水の侵入防いだと。
芦田川に沿った旧草戸道の昔ながらの町並みが
石仏が、道を通る人たちの安全を守るために、300m間隔で設置されていたと伝えられていたと云う。
地蔵堂と石仏
「四ツ堂と観音」四ツ堂の舟形地蔵さん、観音さんは、歴史あり、1829年から祀られている。
「法音寺」の 地蔵さんに、文政七 申秋 (1824年) 尾道石工 丈助 作と刻まれている。
境内には石碑に年号刻まれ、文久二 壬戌歳 四月・・・1862年「壬戌(みずのえいぬ)」。
「真言宗東照山西方院法音寺」
開基は定かでないが、「広島県史」水野記に「古来寺領三拾貫毛利家没収之」とあり、戦国時代以前に開基されていたと思われる。
寺名や御本尊も現在と異なっていたと云う。
法音寺山門 鐘楼 本堂
「明王院」
芦田川西岸、真言宗大覚寺派・山号ー中道山。本尊重要文化財十一面観音立像(最澄作)・807年空海の開基と伝えられている。
1655年福山藩主「水野勝貞」が、明王院と改称している。
石造物群が、日蓮宗石碑、井戸傍の石碑。
国宝の本堂は、鎌倉時代末期「和唐折衷様式」・国宝五重塔は、1348年で全国5番目に古い。
中國観音第8番札所。
山陽花の寺二十四か寺は、17番 円通寺 18番が、「明王院」、19番、西國寺に。
市指定重要文化財
木造南無仏太子像・木造大日如来坐像及び両脇侍(不動明王・愛染明王)坐像・木造五大虚空蔵菩薩懸仏・・木造阿弥陀如来立像・木造不動明王立像
木造不動明王立像・木造制多迦・矜羯羅童子立像・墓石群・明王院鐘楼・七重石層塔・草戸愛宕神社本殿・石層塔残欠他多数ある。
本尊十一面観音像は平安時代前期にさかのぼる作品であり、寺の草創もその頃にさかのぼるものと推定される。中世には門前に草戸千軒町(川底に埋もれた中世遺跡として著名)が栄えた。江戸時代には福山藩主となった水野家・阿部家の庇護の下で繁栄した。
長い石段と山門 歴史を感じる境内
明王院本堂鎌倉時代1321年に建立された仏堂。
和様建築に鎌倉時代以降の新様式である大仏様、禅宗様を加味した折衷様建築の代表例とされている。
内部の外陣に見られる輪垂木を用いたアーチ型の天井は、近世の黄檗宗寺院の建築にしばしば見られるものだが、中世には珍しい。
本堂
明王院五重塔南北朝時代の1348年に建立された純和様の五重塔。
初層内部の四天柱(仏塔の初層内部に立つ4本の柱をさす)、板壁などには極彩色の仏画や文様が描かれている。
相輪の刻銘には、この塔が当時の繁栄した草戸千軒の経済力を背景に、ささやかな民衆の浄財を募って建立されたことが明記されている。
五重塔 鐘楼 本堂
草戸山城本丸跡・中世にこのあたりに勢力を持っていた、渡辺氏の山城。
石仏 福山七福神
次回は、続きで草戸稲荷神社へ。