「塩山」高さ553mは、塩山市内にある。四方山が訛って塩山になったと云い、武田家と関係が深い街・甲州の鎌倉と呼ばれ、繭の取式では全国三大市場の一つである。
平安時代後期には甲府盆地各地でも荘園が立荘されるが、市域では牧荘が藤木・小屋敷から旧牧丘町域に及ぶ地域に立荘され、平安後期・甲斐源氏の一族安田義定が本拠に勢力を持ち、藤木に放光寺を建立。
安田義定は源頼朝の挙兵に参加して活躍し、安田氏の没落後には古代豪族三枝氏の系譜を引く於曾氏が勢力を持つ。
市域には古寺が多く、鎌倉時代後期の1330年、に牧荘主二階堂貞藤が鎌倉から夢窓疎石を招いて恵林寺を建立。
多くの著名禅僧が入山し甲斐国における臨済禅の中心地となり、1380年、に武田氏の寺領寄進で抜隊得勝が建立した向獄寺と古刹が集中。
江戸初期には幕府直轄領、伊丹氏の徳美藩領や旗本領に属した諸村もある。
1705年、全村が甲府藩領となり、柳沢藩主家時代に分知された甲府新田藩に属する諸村、1724年、甲斐一国が幕府直轄領となり、市域の全村が石和代官支配となる。
生業は市域の地理的特徴から北部諸村は畑作が中心、南部諸村は稲作が中心となったほか、東郡地域で盛んであった養蚕や甲州煙草のひとつである萩原煙草の栽培、柿など果樹栽培も行われた。
萩原山の入会地での山稼ぎが行われ、黒川金山での採掘は近世初頭まで行われた。
市域には、江戸時代に整備された甲州街道が通るほか、青梅往還や秩父往還など武蔵国へ通じる街道が通り、口留番所が置かれたほか、助郷を務める村々もあった。
江戸時代の甲斐国では大規模な一揆も発生しているが、寛政4年の1792年、太枡騒動では市域の諸村でも参加者がおり、天保7年の天保騒動では一揆勢が押し寄せて打ちこわし被害を受けた。

1872年の明治5年、山梨県庁による大小切税法の廃止に対して起こった反対運動である大小切騒動には市域の24か村が参加し、県庁側による鎮圧後に首謀者は断罪された。
1875年、には県令・藤村紫朗の主導した青梅街道(青梅往還)改修工事が行われ、従来の大菩薩峠越えに代わり新たに柳沢峠越えの新道が開発された。
明治期には養蚕業が振興され、明治36年、中央本線の塩山駅が開設されると繭市場として発展し、甲州街道・勝沼宿の宿場町として栄えていた勝沼に代わり東山梨郡の中心となる。
明治14年、林野官民有区分により萩原山が官収されると、養蚕の木材需要があり、乱伐や盗伐など人的要因により林野の荒廃が進む。
明治40年、に発生した大水害では重川流域で堤防が決壊し、甚大な被害が出た。
県は小作地率が高く、養蚕業によって支えられた寄生地主制が成立していたが、大正9年の霜害により起こった七里村の下於曾農民組合の闘争は全県的な小作争議に発展する。
戦後には養蚕が衰退する一方で葡萄など果樹栽培が増加したほか、大菩薩峠など自然資源や武田氏に関係する古刹や史跡など歴史的資源を利用した観光業へ移行。

「慈雲寺」
山梨県甲州市塩山中萩原にある臨済宗妙心寺派の寺院ー山号は天龍山ー本尊は聖観世音菩薩。甲斐百八霊場10番札所。
推定樹齢300年超のイトザクラの巨樹と、樋口一葉の文学碑があることで知られている。



南北朝時代の暦応年間(1338年 - 1342年)に、夢窓疎石が開山となって創建。
夢窓疎石は、甲斐・平塩寺(市川三郷町)で修行した臨済僧で、甲斐では浄居寺(山梨市)や恵林寺(甲州市)などを創建している。
江戸時代末期、当時の住職である白巖和尚により寺内に私塾ー寺小屋、が設けられ近隣の子供たちに開かれた。
1887年の明治20年、に本堂内に学校が開かれ、明治40年、には私立山梨里仁学校となり、その後、市内の千野地区に移転し太平洋戦争終了時まで存続していた。
この寺子屋では樋口一葉の父・則義が学ぶなど、寺院であると同時に教育施設、明治から昭和にかけ地域の人材育成に貢献した寺。



「一葉と塩山」
東京府第二大区一小区内幸町の東京府庁構内(現在の東京都千代田区)の長屋で生まれる。
本名は樋口奈津。父は樋口為之助(則義)、母は古屋家の娘多喜(あやめ)の第五子で、一葉は二女。
姉のふじ、兄に泉太郎、虎之助がおり、後に妹くにが生まれた。
樋口家は甲斐国山梨郡中萩原村重郎原(現ー山梨県甲州市塩山)の長百姓。
祖父の八左衛門は一葉が生まれる前年に死去しているが、学問を好み俳諧や狂歌、漢詩に親しんだ人物で、江戸の御家人真下晩菘(専之丞)から江戸の情報を知り、横浜開港に際しては生糸輸出の事業にも着手している。
一葉は後に「にごりえ」で、八左衛門の教養や反骨精神を主人公お力の祖父に重ねて描いている。
父の則義も農業より学問を好み、さらに多喜との結婚を許されなかったため、駆け落ち同然で江戸に出たという。
則義は蕃書調所勤番であった晩菘を頼って同所使用人となり、1867年、同心株を買い、運良く幕府直参となり、明治維新後には下級役人として士族の身分を得て東京府庁に勤めたが、1876年に免職。
1877年の明治10年、には警視庁の雇となり、明治13年には、勤めのかたわら闇金融、土地家屋の売買に力を入れた。
職権などで入手した情報などをもとに、不動産の売買・斡旋などを副業に生計を立てていたと云う。
一葉が没して26年後の1922年・一葉を偲んで境内に一葉女史碑が建立された。
題額は東宮御学所御用掛杉浦重剛、撰文は芸術院会員幸田成行(露伴)、書は宮中御歌所出仕岡山高蔭によるもの。
石碑の裏側には、佐藤春夫、田山花袋、坪内逍遥、森鴎外、与謝野寛、与謝野晶子など日本を代表する近代文学者の名前が刻まれている。


「大本山向嶽寺」
山号ー塩山と称し、塩ノ山南麓に所在するー臨済宗向嶽寺派の大本山、開山ー抜隊得勝禅師(恵光大円禅師)、
開基はときの守護武田刑部大輔信成。
抜隊禅師は、永和4の1378年、に甲斐に入り、市内竹森の地に草庵を結んだが、1380年、武田信成から寺地の寄進を受け、向嶽庵を命名し創建。
寺名は「富嶽に向かう」からきていると云う。
禅師の門下には俊英が輩出し、武田家歴代、特に晴信の厚い保護を受け、寺領が安堵され法度・禁制が出された。
江戸時代に入るとたびたび火災に遭い、天明6の1786年、大火で仏殿以下を焼失。
近年では大正15年に天明の大火以降再建された大方丈を焼失しているが、復旧事業によりかつての隆盛が甦りつつある。
明治5年に輪番住職制を改め独住制となり、京都南禅寺の所轄となったが、別派独立の大本山となった。
創建以来600年の歴史を持つ当山の有する文化財は国宝以下24件を数える。 (看板資料より)



「塩の山」
平地にポツリとあるので「四方からみえる山:しほうのやま」からきていると云われている。
1380年、年抜隊得勝禅師が向嶽寺(当時は向嶽庵)を開山した際、「しほのやま」に「塩山」の字を充て、音読みである「えんざん」を山号とした。
現在、重要文化財向嶽寺中門に架かる扁額に、抜隊禅師書の「塩山」を見ることができる。
「古今和歌集」に「志ほの山差出の磯にすむ千鳥君が御代をば八千代とそなく」という歌がある。この歌は「賀部」に含まれ、めでたい歌としてよく知られていた。そのため、宮廷歌人にとって塩ノ山と差出の磯(山梨市)は「桃源郷」のような理想郷のごとく扱われ、多くの歌人が好んで引用した地名となりその後の賀部の和歌にたびたび登場することとなった。
さらに室町時代になると、京都から遠く離れたまだ見ぬ理想郷の風景を空想・具現化し、「塩山蒔絵」のように美術工芸品の意匠にまで発展した。
この意匠では、差出の磯は荒波が立つ海辺、塩ノ山は海上に突き出す急峻な岩として表現されている。
全山を覆っているアカマツは天然のもので、学術上価値が高いものである。このアカマツ林をぬってハイキングコースが設けられており、四季折々の風景を楽しめる場となっている。(看板資料より)



天正10年(1582)田野で武田勝頼、信勝が滅んだ後、この向嶽寺の大杉の根元に楯無の鎧が埋められ、その後、徳川家康によって掘り出されて
「菅田天神社」に納められたといわれている。


「秋葉神社」
塩の山の南東に向嶽派の大本山である向嶽寺ーこの向嶽寺の境内に秋葉神社がある。
神社は、元文四の1739年、に始まり、火伏せの神を勧請し、向嶽寺の鎮守として祭られている。



「真下晩菘」 1799ー1875、江戸時代後期の幕臣・明治初期の教育家。
甲斐国山梨郡中萩原村向久保(山梨県甲州市塩山中萩原)に生まれ、父は、百姓の鶴田(益田)仙右衛門。1825年に江戸へ出府し、幕臣小原氏の下僕となり、その後、甲斐国の石和代官所・谷村代官所の手代を経て、1836年に幕臣である真下家の家禄を買い、名を専之丞と改めている。
蕃書調所調役勤番衆、調役肝煎となり、慶応2年の1866年、陸軍奉行並支配となる。
明治維新後は、江戸を離れて武蔵国南多摩郡原町田(東京都町田市)、丹後国久美浜(京都府熊野郡久美浜町)、駿府などへ移り、現在の神奈川県横浜市野毛町で私塾「融貫塾」を開いた。
晩菘の縁戚である原町田の渋谷仙次郎宅には融貫塾の出張所があり、自由民権運動が盛んな多摩地方において多くの民権運動家を輩出した。
晩菘は、上京した甲州人に対しても支援を行って、晩菘と同郷の中萩原村には百姓・「樋口八左衛門」がおり、
八左衛門の孫に女流小説家の「樋口一葉」がいる。


「樋口家ー甲斐国山梨郡中萩原村重郎原(現・山梨県甲州市塩山)の長百姓」
祖父の八左衛門は、一葉が生まれる前年に死去しているが、学問を好み俳諧や狂歌、漢詩に親しんだ人物で、江戸の御家人真下晩菘(専之丞)から江戸の情報を知り、横浜開港に際しては生糸輸出の事業にも着手している。
一葉は後に「にごりえ」で、八左衛門の教養や反骨精神を主人公お力の祖父に重ねて描いている。
父の則義も農業より学問を好み、さらに多喜との結婚を許されなかったため、駆け落ち同然で江戸に出たという。
則義は蕃書調所勤番であった晩菘を頼って同所使用人となり、1867年(慶応3年)には同心株を買い、運良く幕府直参となり、明治維新後には下級役人として士族の身分を得て東京府庁に勤めたが、
1876年の明治9年、に免職。明治10年には警視庁の雇となり、明治13年、には、勤めのかたわら闇金融、土地家屋の売買に力を入れた。
職権などで入手した情報などをもとに、不動産の売買・斡旋などを副業に生計を立てていたと云う。

「高野家住宅」
塩山駅前にある一重三階・切妻造の民家、江戸中期の建造物で甲州民家特有の突き上げ式屋根・棟持柱となっている。
高野家は、村の長百姓を勤め屋敷内地で「薬草・甘草」を栽培し、幕府に納めていたので
「甘草屋敷」

甲州民家特有

江戸時代が忍ばれる



高野家住宅は、重要文化財に指定。
主屋ー巽蔵ー馬屋ー東門ー文庫蔵ー小屋等。宅地 4932.07㎡ー地実棚、裏門、屋敷門



江戸時代初期頃より薬草である甘草の栽培を始め、八代将軍徳川吉宗治世の1720年、徳川幕府の採薬師であった丹羽正伯により同屋敷内の甘草を検分され、その結果幕府御用として栽培と管理が命ぜられ、一反十九歩の甘草園は年貢諸役を免除され、その後同家が栽培する甘草は、
幕府官営の小石川御薬園で栽培するための補給源となり、また薬種として幕府へ上納を行ったと云う。


塩山資料館では、 民俗資料、樋口一葉資料、幕末から明治初期にかけての主屋・附属屋等の屋敷構えと子ども図書館が併設されていた。


次回は、石和方面へ。