syuの日記・気まま旅

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景徳院 武田家終焉の地

2015-09-24 | 気まま旅
                              「武田慕情」ー作詩 いではく・ 作曲 遠藤実・ 編曲 一京建輔
            夕日に染まる 甲斐の山
            こだます鐘に 春おぼろ
            戦いくれた つわものの
            大和ごころを 知るように
            舞い散る花は 山桜
                        苔むす森に 蝉しぐれ
                       夢うたかたの まぼろしか
                       しずかに眠る 勝頼の
                       無念の涙を 惜しむよに
                       天目山の 夜半の雨
                                 山狭深く せせらぎは
                                 紅葉をうつす 流れ帯
                                 人馬のひびき 歴史は過ぎ
                                 田野の河原に 月の影
                                 武田の里は 今しずか


                     武田慕情 碑


「景徳寺」ー甲州市大和町田野・山号ー天童山 ・曹洞宗の寺・本尊ー釈迦如来・創建年ー天正10年の1583年・開基ー徳川家康、
拈橋チョウ(人偏+長)因(開山)・別称ー田野寺・札所等ー甲斐百八霊場19番

                山門(県指定有形文化財)
    

天正10年の1583年、3月ー甲斐国国主武田勝頼は
織田信長・徳川家康連合軍の侵攻により甲府から移転した本拠であった新府城(韮崎市)を捨て「大月・岩殿城」家臣の郡内領主小山田信茂を頼り落ちのびるが、小山田信茂の謀反に遭い天目山へと敗走し、名門の武田氏はここで、滅亡。
信長が横死して無主状態となった甲斐は最終的に徳川家康が領するが、家康は同年7月に勝頼と家臣ら殉死者の菩提を弔うため、田野郷一円を寺領として寄進し、寺院を創建。
広厳院(笛吹市)から武田家臣小宮山内膳の弟である「7世拈橋チョウ(人偏+長)因」を招き、
1589年、には伽藍が完成した。「国志」・「景徳院文書」による)。
家康はこの他にも武田遺臣を保護しているが、無主となり緊張状態にあった甲斐国における領民懐柔政策でもあったとも指摘される。
江戸時代には住職不在状態となり衰退し、1624年 - 1644年、に広厳院から住職が招かれ再興されているが、旧武田氏家臣の幕臣の要求により、
下総総寧寺の末寺とされたという。「1830年 - 1844年、火災が生じて主要伽藍を焼失し、1844年 - 1848年、明治時代にも火災が生じている」
武田軍の残党は、家康に感謝し、徳川軍として関ヶ原の戦い等で大いに働いたと云う。

    天正16年,境内に諸堂を備えていたが焼失し、山門のみ。当時の面影を残す。(看板資料)
    

「景徳院」
当主武田勝頼、北条夫人、嫡男信勝が自刃し、侍卒ら約50人が殉死の地。
境内には勝頼ら3名の影像と殉難家臣の位牌、遺品などを納める甲将殿・勝頼の墓所・甲将殿前には勝頼らが自刃した場所といわれる生涯石がある。
境内南寄り傾斜地の石仏3体は没頭地蔵といわれて、勝頼らの首の無い遺体を埋めた場所と伝われる。
戦国の世、悲運に散った武田家終焉地、境内全体が武田家滅亡の歴史舞台で、今にしのぶ。(大和村の文化財)

    

武田勝頼公、武田家累代の重宝旗(日の丸の御旗)を大松の根本に立て、盾無鎧を世子信勝公に着用させ、かん甲の礼を(看板資料)

県指定史跡「武田勝頼の墓」保存修復中に、勝頼の戒名などを記した大量の経石が発見.
江戸時代中期に供養が行われたことが判った。地下には埋納施設が存在する可能性が指摘され、本格的な発掘調査が.
    

黒髪のみだれたる世ぞはてしなき思いに消ゆる露の玉の緒ー勝頼

おぼろなる月もほのかに雲かすみはれてゆくえの西の山の端ー北条夫人

                  勝頼・北条夫人生害石
    

3月11日-滝川一益が情報を聞きつけ、滝川益重・篠岡右衛門に命じて包囲。
逃れがたいことを悟った、勝頼は自刃して果てた。

武田勝頼ー37歳・北条夫人ー19歳
甲斐国曹洞宗総本山・中山広厳院の住職・拈橋の兄は、謹慎の身にも関わらず武田家に殉じた小宮山内膳友晴といわれ、拈橋は田野に入り、敵味方の死体が累々としているなか、刀の中子に姓名を朱書きしている武田の家臣に戒名をつけていったと云う。
勝頼親子の遺骸は、陣を張った高台の中腹に埋葬し、後に地元の人々が首の無い三体の地蔵尊を安置、「没頭地蔵」と呼ばれ、境内の一画に祀られている。
        
    

「武家の妻」
は、「内を治める」家内の管理、それは、食事の準備、被服の生産など、家族だけでなく家臣の生活にも気を配り、大切なのは、子供の教育だった。
戦国時代の妻たちは、「自分の意思にそぐわない政略結婚をさせられた不幸な存在」と考えられ、戦国時代のこと、ライバルの妹や娘を妻に迎えるのは、
人質として最適であったと思う。
斎藤道三の娘で信長の妻となった濃姫や、浅井長政の妻となり、その後柴田勝家に嫁入りした信長の妹のお市の方、豊臣秀頼のもとへ嫁いだ家康の孫娘・千姫など数多い。
武田勝頼の北条夫人は、暖かい小田原から、雪の深い寒い甲州の御坂峠を通り嫁入りし、最後まで勝頼と共に生きた北条夫人。
歴史人物の中でも一番知りたい女性の一人といえる。
政治の道具代わりに使われていたことから考えても、戦国時代の女性はさぞ地位が低かったと思いがちであるが、北条夫人を知り、決してそうではなかったと思える。
妻の権利は色々と保障されていて、大名の妻たちが後家になった場合などは、子供への財産分与が確定した際に、後家にも一定の財産が配分された。また、まだ小さな子供が跡を継いだ場合には、後家は「大方どの」と呼ばれ重要な後見人となっている。



次回は、勝沼方面へ。