甲斐大和駅は、甲州市大和町初鹿野にある、JR・中央本線の駅。
開業当初の駅名は初鹿野、1903年の明治36年に大月駅から当駅までの開通により開業した古い駅。
当駅止りから甲府駅までが延伸となったため今は、中間駅。駅開業当時、この駅は東山梨郡初鹿野村にあったと云う。
初鹿野村はその後、1941年の昭和16年、付近の村々と合併し大和村となった。52年後の平成5年、に現在の甲斐大和駅へ改称された。
平成17年、大和村は附近の市町と合併して「甲州市」。
駅一帯は、国中地方と郡内地方との境に近い山間部。日川渓谷によって出来た小さな平地。長大トンネルの間にはさまれて駅は位置。
東は、笹子駅の付近まで笹子トンネル (中央本線)と新笹子トンネル、西は短い鶴瀬トンネルをはさんで勝沼ぶどう郷駅の手前まで殆どが
新深沢トンネルと新大日影トンネルとなっている。
「武田勝頼一族が自害した天目山」
駅北東にあり、「景徳院ー武田氏ゆかりの史跡が。
「武田勝頼」 1546-82 天目山に散った名門武田家の御曹子、信玄の4男・母ー諏訪頼重の娘
初めは、諏訪氏を称し、信濃国「高遠城」にいたが、世嗣となり信玄死後家督を相続した。「長篠の戦」大敗後家臣達の離反が相次ぐ。
天正10年、織田信長軍の大軍に攻め込まれて、ここ天目山で自害した。
偉大な父、武田信玄の後を継いだ勝頼は、老臣に侮られぬよう積極果敢に近郊へ攻め込み、信玄も落とせななかった「遠州国・高天神城」を落とし
これに慢心し、重臣の反対を押し切って「三河国・長篠に進出ー織田・徳川鉄砲隊に大敗、多くの宿将を死なせてしまう。
以降家臣の信頼を失った勝頼は没落の一途を辿っていく、勝頼の首級を見た織田信長は、悪態をついて、足で蹴っ飛ばした云う。
甲斐大和駅前広場に、武田勝頼公の像が

「滝川一益」 1525-86 忍者出身、織田家重臣・四天王の一人
近江豪族一勝の子、伊勢攻略の功で北伊勢5郡を拝領・武田征伐で先鋒・上野国と信濃国2郡を与えられる。関東管領任命
信長没後、北条氏直に敗れ、秀吉に。その後、出家し越前へ。
武田征伐大功国持大名だが「自分が欲しいのは国ではなく名物茶器「珠光小茄子」だ。遠国(群馬県)配されて残念、都で茶を楽しめない、地獄だ」
と悲しんだと云う。
「勝頼撤退」木曾義昌に敗北した武田勝頼は諏訪での反抗を放棄し逃亡、1000の兵と共に新府城に撤退した。
勝頼を追う織田信忠は高遠城陥落の翌日、本陣を諏訪に進め、武田氏の庇護下にあった諏訪大社を焼き払い、木曾義昌は信濃の要衝である
深志城の攻略に向う。武田氏一族の「穴山梅雪」が「徳川家康」に通じ、織田側に寝返った。
家康は、梅雪を案内役として甲斐に侵攻を開始。
織田信長は安土城を出発、揖斐川に到達し、ここで嫡男・信忠から「仁科盛信」の首が届き、これを長良川の河原に晒したと云う。
「信長公記」に拠れば、3月3日に勝頼は新府城を放棄し、郡内の小山田信茂を頼り逃れる。「甲陽軍鑑」に拠れば、勝頼嫡男の信勝は新府城における籠城を主張したが、これに対し信濃の国衆・「真田昌幸」が上野岩櫃城(群馬県吾妻郡東吾妻町)へ逃れることを提案したが、勝頼側近の長坂光堅が
信茂の岩殿城(大月市賑岡町)へ逃れるべきと主張したという。
一方、「甲乱記」では信勝・昌幸の提案を記さず、勝頼が信茂に対して郡内へ逃れることを諮問したとと云う。
「岩殿城」は、都留郡北部に位置し小山田氏の詰城とされているが、小山田氏の本拠である谷村(都留市谷村)とは距離があるため、小山田氏の城と見るか武田氏の城と見るかで議論がある。
天目山の戦いが。

武田征伐ー1582年3月11日 ・場所:天目山付近 ・結果は、織田軍の辛勝
交戦勢力ー織田軍(滝川一益)3~4千。 武田軍指導者は、 武田勝頼・武田信勝。43人程

織田信忠は甲府に入り、一条蔵人の私宅に陣を構えて勝頼の一門・親類や重臣を探し出して、これを全て処刑した。
この時に処刑されたのは一条信龍・諏訪頼豊・武田信廉などである(一条信龍については信長公記の誤記)。
新府城を放棄した勝頼とその嫡男の信勝一行は郡内を目指すが、その途上で小山田信茂の離反に遭う。
「甲陽軍鑑」では勝頼一行は鶴瀬(甲州市大和町)において7日間逗留し信茂の迎えを待ったが、3月9日夜に信茂は郡内への入り口を封鎖し、
勝頼一行を木戸から招き入れると見せかけて鉄砲を打ちかけたという。
「理慶尼記」では信茂の離反を3月7日とし、郡内への入り口を封鎖した地を笹子峠(大月市)としている。
一方、「甲乱記」では信茂が離反した日付を記さず、勝頼は柏尾(甲州市勝沼町)から駒飼(甲州市大和町)へ移動する途中で
信茂離反を知ったとしている。
勝頼と信勝は岩殿行きを断念、勝頼主従らは武田氏の先祖が自害した天目山(甲州市大和町)を目指して逃亡した。
3月11日、家康と穴山梅雪は信忠に面会し、今後についての相談を行った。同日、勝頼一行は天目山の目前にある田野の地で滝川一益隊に対峙する。
勝頼の家臣土屋昌恒・小宮山友晴らが奮戦し、土屋昌恒は「片手千人斬り」の異名を残すほどの活躍を見せた。
安倍勝宝も敵陣に切り込み戦死、勝頼最後の戦となった「田野の四郎作・鳥居畑」では、信長の大軍を僅かな手勢で奮闘撃退。
勝頼、信勝父子・桂林院殿は自害し、長坂光堅、土屋昌恒・秋山親久兄弟、秋山紀伊守、大熊朝秀らも殉死した(跡部勝資も殉死したとする説もあるが、諏訪防衛戦で戦死したとも。
「甲陽軍鑑」が記載の長坂・跡部逃亡説は史実に反する)。
これにより清和源氏新羅三郎義光以来の名門・甲斐武田氏嫡流は滅亡した。
勝頼は跡継ぎの信勝が元服(鎧着の式)を済ませていなかったことから、急いで陣中にあった「小桜韋威鎧」(国宝。武田家代々の家督の証とされ大切に保管されてきた。)を着せ、そのあと父子で自刃したという話が残っている。
その後、鎧は家臣に託され、向嶽寺の庭に埋められたが、後年徳川家康が入国した際に掘り出させ、再び菅田天神社に納められた。勝頼父子の首級は京都に送られ長谷川宗仁によって一条大路の辻で梟首された。

1582年3月11日、
武田勝頼に従っていた僅かな家臣が織田信長の数千の軍と戦ったのが鳥居畑古戦場.
同日、武田勝頼の勘気を被って蟄居させられていた「小宮山内膳」が勝頼のために駆け付け奮戦したのが
「四郎作古戦場」

鳥居畑古戦場は、「景徳院」の前にある下り坂を50m位歩いた場所、
四郎作古戦場はそこから更に50m程歩いた場所にある。

JR甲斐大和駅から登山コースに、湯の沢峠~大鹿峠がある。
湯の沢峠ー左・黒岳(1987m)-石丸峠へ。右・大蔵高丸をえて米背負峠ー大鹿峠に出る。
展望が素晴らしい、富士山・南アルプス・白根三山、北岳・間ノ岳・農鳥岳・八ツ岳・金峰山などが望める。

「北条夫人・桂林院(法号)」
家康をけん制のために、勝頼は、北条と同盟を結ぶ決意をし、その証しとしての政略結婚の相手が北条夫人。父・信玄以来の重臣の高坂弾正昌信は、
「この結婚で、勝頼さんは、氏政(氏康の息子で第4代・北条当主)さんの妹婿・・・ここ3年ほど心配でたまらんかったけど、やっと安心して眠れるわ~」と、大喜び、この結婚は、周囲に望まれた結婚。
結婚1年後、あの越後(新潟県)の上杉謙信が急死、その後継者争いとして勃発したのが、「御館の乱」。
謙信の養子として迎えられていた謙信の甥の「上杉景勝」と、同盟の証しとして北条氏から養子に入っていた「上杉景虎」、その北条から養子に入った
景虎が、先代・氏康の息子、北条夫人の10歳年上の兄である。勝頼ははじめ、この景虎を応援する立場をとる。
しかし、拠点である春日山城を占拠した景勝側は、そこにある巨額の軍資金に物を言わせての再三の交渉し。
やがて、勝頼は、自らの妹・菊姫と景勝との結婚を承諾し、同盟を結んでしまいます。
「御館の乱」は、景勝の勝利に終わり、景虎は自害。北条と武田の同盟関係は崩れ落ち、敵同士となる。
自分の夫と兄が戦闘状態に。武田勝頼は、夫人に実家に戻るように勧めている。
キッパリとそれを断ったのは、北条夫人・彼女。すでに武田の女として生きる決意を固めていた。
その2年後の 1581年、勝頼は、隣国との要所であった高天神城ー静岡県掛川市、を家康に奪われてしまいます。
高天神城は、勝頼の誇り、武田の勢いを裏付けるシンボル的な存在。
その城を落とされた事によって、勝頼にも、そして武田の家臣たちの中にも動揺が走り、この頃から、武田に見切りをつけて寝返る者が多くなってきますが、新しく建築した新符城・山梨県韮崎市に家族&家臣とともに移り住む。
金銀珠玉に飾られた豪華絢爛な城は、城郭を造らなかった信玄から脱皮するような甲斐(山梨県)初の本格的な城郭でしたが、その引越しからわずか1ヶ月後の正月、信濃福島城主の木曽義昌が寝返ります。この寝返りは、武田方に大きな痛手となる。
この木曽義昌の妻は、勝頼の妹・真理姫(真龍院)。戦国の世のならいとは言え、身内まで寝返りがある。
離反は後を絶たないが、北条夫人は、その揺るぎない心を見せつけてくれます。
県にある武田八幡宮には、その年の2月19日の日づけで、北条夫人が夫・勝頼の武運を祈って捧げた自筆の願文が残っている。
次回は、武田勝頼の菩提寺、景徳院へ。
開業当初の駅名は初鹿野、1903年の明治36年に大月駅から当駅までの開通により開業した古い駅。
当駅止りから甲府駅までが延伸となったため今は、中間駅。駅開業当時、この駅は東山梨郡初鹿野村にあったと云う。
初鹿野村はその後、1941年の昭和16年、付近の村々と合併し大和村となった。52年後の平成5年、に現在の甲斐大和駅へ改称された。
平成17年、大和村は附近の市町と合併して「甲州市」。
駅一帯は、国中地方と郡内地方との境に近い山間部。日川渓谷によって出来た小さな平地。長大トンネルの間にはさまれて駅は位置。
東は、笹子駅の付近まで笹子トンネル (中央本線)と新笹子トンネル、西は短い鶴瀬トンネルをはさんで勝沼ぶどう郷駅の手前まで殆どが
新深沢トンネルと新大日影トンネルとなっている。
「武田勝頼一族が自害した天目山」
駅北東にあり、「景徳院ー武田氏ゆかりの史跡が。
「武田勝頼」 1546-82 天目山に散った名門武田家の御曹子、信玄の4男・母ー諏訪頼重の娘
初めは、諏訪氏を称し、信濃国「高遠城」にいたが、世嗣となり信玄死後家督を相続した。「長篠の戦」大敗後家臣達の離反が相次ぐ。
天正10年、織田信長軍の大軍に攻め込まれて、ここ天目山で自害した。
偉大な父、武田信玄の後を継いだ勝頼は、老臣に侮られぬよう積極果敢に近郊へ攻め込み、信玄も落とせななかった「遠州国・高天神城」を落とし
これに慢心し、重臣の反対を押し切って「三河国・長篠に進出ー織田・徳川鉄砲隊に大敗、多くの宿将を死なせてしまう。
以降家臣の信頼を失った勝頼は没落の一途を辿っていく、勝頼の首級を見た織田信長は、悪態をついて、足で蹴っ飛ばした云う。
甲斐大和駅前広場に、武田勝頼公の像が

「滝川一益」 1525-86 忍者出身、織田家重臣・四天王の一人
近江豪族一勝の子、伊勢攻略の功で北伊勢5郡を拝領・武田征伐で先鋒・上野国と信濃国2郡を与えられる。関東管領任命
信長没後、北条氏直に敗れ、秀吉に。その後、出家し越前へ。
武田征伐大功国持大名だが「自分が欲しいのは国ではなく名物茶器「珠光小茄子」だ。遠国(群馬県)配されて残念、都で茶を楽しめない、地獄だ」
と悲しんだと云う。
「勝頼撤退」木曾義昌に敗北した武田勝頼は諏訪での反抗を放棄し逃亡、1000の兵と共に新府城に撤退した。
勝頼を追う織田信忠は高遠城陥落の翌日、本陣を諏訪に進め、武田氏の庇護下にあった諏訪大社を焼き払い、木曾義昌は信濃の要衝である
深志城の攻略に向う。武田氏一族の「穴山梅雪」が「徳川家康」に通じ、織田側に寝返った。
家康は、梅雪を案内役として甲斐に侵攻を開始。
織田信長は安土城を出発、揖斐川に到達し、ここで嫡男・信忠から「仁科盛信」の首が届き、これを長良川の河原に晒したと云う。
「信長公記」に拠れば、3月3日に勝頼は新府城を放棄し、郡内の小山田信茂を頼り逃れる。「甲陽軍鑑」に拠れば、勝頼嫡男の信勝は新府城における籠城を主張したが、これに対し信濃の国衆・「真田昌幸」が上野岩櫃城(群馬県吾妻郡東吾妻町)へ逃れることを提案したが、勝頼側近の長坂光堅が
信茂の岩殿城(大月市賑岡町)へ逃れるべきと主張したという。
一方、「甲乱記」では信勝・昌幸の提案を記さず、勝頼が信茂に対して郡内へ逃れることを諮問したとと云う。
「岩殿城」は、都留郡北部に位置し小山田氏の詰城とされているが、小山田氏の本拠である谷村(都留市谷村)とは距離があるため、小山田氏の城と見るか武田氏の城と見るかで議論がある。
天目山の戦いが。

武田征伐ー1582年3月11日 ・場所:天目山付近 ・結果は、織田軍の辛勝
交戦勢力ー織田軍(滝川一益)3~4千。 武田軍指導者は、 武田勝頼・武田信勝。43人程

織田信忠は甲府に入り、一条蔵人の私宅に陣を構えて勝頼の一門・親類や重臣を探し出して、これを全て処刑した。
この時に処刑されたのは一条信龍・諏訪頼豊・武田信廉などである(一条信龍については信長公記の誤記)。
新府城を放棄した勝頼とその嫡男の信勝一行は郡内を目指すが、その途上で小山田信茂の離反に遭う。
「甲陽軍鑑」では勝頼一行は鶴瀬(甲州市大和町)において7日間逗留し信茂の迎えを待ったが、3月9日夜に信茂は郡内への入り口を封鎖し、
勝頼一行を木戸から招き入れると見せかけて鉄砲を打ちかけたという。
「理慶尼記」では信茂の離反を3月7日とし、郡内への入り口を封鎖した地を笹子峠(大月市)としている。
一方、「甲乱記」では信茂が離反した日付を記さず、勝頼は柏尾(甲州市勝沼町)から駒飼(甲州市大和町)へ移動する途中で
信茂離反を知ったとしている。
勝頼と信勝は岩殿行きを断念、勝頼主従らは武田氏の先祖が自害した天目山(甲州市大和町)を目指して逃亡した。
3月11日、家康と穴山梅雪は信忠に面会し、今後についての相談を行った。同日、勝頼一行は天目山の目前にある田野の地で滝川一益隊に対峙する。
勝頼の家臣土屋昌恒・小宮山友晴らが奮戦し、土屋昌恒は「片手千人斬り」の異名を残すほどの活躍を見せた。
安倍勝宝も敵陣に切り込み戦死、勝頼最後の戦となった「田野の四郎作・鳥居畑」では、信長の大軍を僅かな手勢で奮闘撃退。
勝頼、信勝父子・桂林院殿は自害し、長坂光堅、土屋昌恒・秋山親久兄弟、秋山紀伊守、大熊朝秀らも殉死した(跡部勝資も殉死したとする説もあるが、諏訪防衛戦で戦死したとも。
「甲陽軍鑑」が記載の長坂・跡部逃亡説は史実に反する)。
これにより清和源氏新羅三郎義光以来の名門・甲斐武田氏嫡流は滅亡した。
勝頼は跡継ぎの信勝が元服(鎧着の式)を済ませていなかったことから、急いで陣中にあった「小桜韋威鎧」(国宝。武田家代々の家督の証とされ大切に保管されてきた。)を着せ、そのあと父子で自刃したという話が残っている。
その後、鎧は家臣に託され、向嶽寺の庭に埋められたが、後年徳川家康が入国した際に掘り出させ、再び菅田天神社に納められた。勝頼父子の首級は京都に送られ長谷川宗仁によって一条大路の辻で梟首された。

1582年3月11日、
武田勝頼に従っていた僅かな家臣が織田信長の数千の軍と戦ったのが鳥居畑古戦場.
同日、武田勝頼の勘気を被って蟄居させられていた「小宮山内膳」が勝頼のために駆け付け奮戦したのが
「四郎作古戦場」

鳥居畑古戦場は、「景徳院」の前にある下り坂を50m位歩いた場所、
四郎作古戦場はそこから更に50m程歩いた場所にある。

JR甲斐大和駅から登山コースに、湯の沢峠~大鹿峠がある。
湯の沢峠ー左・黒岳(1987m)-石丸峠へ。右・大蔵高丸をえて米背負峠ー大鹿峠に出る。
展望が素晴らしい、富士山・南アルプス・白根三山、北岳・間ノ岳・農鳥岳・八ツ岳・金峰山などが望める。

「北条夫人・桂林院(法号)」
家康をけん制のために、勝頼は、北条と同盟を結ぶ決意をし、その証しとしての政略結婚の相手が北条夫人。父・信玄以来の重臣の高坂弾正昌信は、
「この結婚で、勝頼さんは、氏政(氏康の息子で第4代・北条当主)さんの妹婿・・・ここ3年ほど心配でたまらんかったけど、やっと安心して眠れるわ~」と、大喜び、この結婚は、周囲に望まれた結婚。
結婚1年後、あの越後(新潟県)の上杉謙信が急死、その後継者争いとして勃発したのが、「御館の乱」。
謙信の養子として迎えられていた謙信の甥の「上杉景勝」と、同盟の証しとして北条氏から養子に入っていた「上杉景虎」、その北条から養子に入った
景虎が、先代・氏康の息子、北条夫人の10歳年上の兄である。勝頼ははじめ、この景虎を応援する立場をとる。
しかし、拠点である春日山城を占拠した景勝側は、そこにある巨額の軍資金に物を言わせての再三の交渉し。
やがて、勝頼は、自らの妹・菊姫と景勝との結婚を承諾し、同盟を結んでしまいます。
「御館の乱」は、景勝の勝利に終わり、景虎は自害。北条と武田の同盟関係は崩れ落ち、敵同士となる。
自分の夫と兄が戦闘状態に。武田勝頼は、夫人に実家に戻るように勧めている。
キッパリとそれを断ったのは、北条夫人・彼女。すでに武田の女として生きる決意を固めていた。
その2年後の 1581年、勝頼は、隣国との要所であった高天神城ー静岡県掛川市、を家康に奪われてしまいます。
高天神城は、勝頼の誇り、武田の勢いを裏付けるシンボル的な存在。
その城を落とされた事によって、勝頼にも、そして武田の家臣たちの中にも動揺が走り、この頃から、武田に見切りをつけて寝返る者が多くなってきますが、新しく建築した新符城・山梨県韮崎市に家族&家臣とともに移り住む。
金銀珠玉に飾られた豪華絢爛な城は、城郭を造らなかった信玄から脱皮するような甲斐(山梨県)初の本格的な城郭でしたが、その引越しからわずか1ヶ月後の正月、信濃福島城主の木曽義昌が寝返ります。この寝返りは、武田方に大きな痛手となる。
この木曽義昌の妻は、勝頼の妹・真理姫(真龍院)。戦国の世のならいとは言え、身内まで寝返りがある。
離反は後を絶たないが、北条夫人は、その揺るぎない心を見せつけてくれます。
県にある武田八幡宮には、その年の2月19日の日づけで、北条夫人が夫・勝頼の武運を祈って捧げた自筆の願文が残っている。
次回は、武田勝頼の菩提寺、景徳院へ。