syuの日記・気まま旅

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大菩薩峠

2015-09-18 | 気まま旅
笹子峠は、県東部で大月市と大和村の境の峠、国中地方・甲府盆地ー郡内地方・県南東部を結んだ、甲州街道の難所である。
峠の下には、県道日影笹子線隧道(旧国道20号)が通り、JR中央本線笹子トンネルがある。
現在は、国道新笹子トンネル・中央高速笹子トンネルと上下5本の道になっている。中央高速笹子トンネル内で天井版が落下し大事故があった。
笹子峠と云えば、「矢立ちの杉」がある。2代歌川広重・葛飾北斎が描いた巨樹(天然記念物)。

蔵元「笹一酒造」 大月市笹子町吉久保ー銘柄ー笹一。


「酒の話」
酒母ー麹と蒸米と水に酵母を加え酵母を増殖させたのが酒母。
速醸酒母は、最初から乳酸を添加・最近の汚染を防ぎ、酵母のみを増殖させる方法(生酛できるのに半分の日数で済む)温度管理が重要に。

            山梨県の蔵元数23家あったが、(平成2~3年頃)
    

           「矢立ちの杉」歌ー杉良太郎 作詞・作曲大地 良
                  絹雨が降り足が止まる
                  虹が出て まるで夢の中
                  目の前に そびえる千年の杉
                  旅人よ 少し休んでいないかと
                  語りかけてくる ここは、甲州笹子峠黒野田村
                  矢立ちの杉の物語、、、、。

樹高28m、根回り14.8m幹が損傷し、空洞が、 樹齢1千年におよぶ甲州街道笹子峠の「杉の大樹」
上九一色村の「精進の大杉」につぐ県下第二位の名木と云う。( 県の天然記念物)

鎌倉時代、源頼朝が富士の巻狩りで矢を立てた物語や、500年前には武田氏の里から岩殿城に出向した武士達が
「岩殿山で国みれば国恋し矢立の杉がみえ候」などとうたわれ既に名木であったことが伺える。
戦陣に向かう武士達はこの山中巨木の生い茂る中に超然として他の大木を従えて立ち、強い生命力をー大杉を神霊と仰いだー

      戦勝・無事を大杉の前で凱旋できることを祈って一番矢を射立てたといわれる。
    

「大和村」
織田・徳川軍に敗れた武田勝頼が最期を遂げた武田家終焉の地、竜門峡近くの「天童山・景徳院」には一族の墓がひっそりと佇み、
甲斐国主武田家の悲しい歴史を今に。
                     大菩薩峠


「甲州市交流保養センター・ 大菩薩の湯」
展望の素晴らしい露天風呂がある。
重川の清冽な流れの音が温泉で暖まった心に爽やかなここち良さをあたえ、大菩薩嶺の裾野に湧出した高アルカリ性泉・ 水素イオン濃度10.05が測定。
マイルドで貴重な名湯。
地元の農産物や加工品の直売コーナーや農村と都市住民との交流を深めるための広場もあり、都心から近い。

   

「小説・大菩薩峠」ー中里介山作の長編時代小説ー
1913年~1941年に都新聞・毎日新聞・読売新聞などに連載された41巻にのぼる未完の一大巨編。
幕末が舞台で、虚無にとりつかれた剣士・机竜之助を主人公とし、甲州大菩薩峠に始まる彼の旅の遍歴と周囲の人々の様々な生き様を描く。
連載は約30年にわたり、話は幕末から明治に入らずに架空の世界へと迷い込み、作者の死とともに未完に終わった。
作者は「大乗小説」と呼び、仏教思想に基づいて人間の業を描こうとした。
世界最長を目指して執筆された時代小説で、大衆小説の先駆けとされる不朽の傑作である。
最長時代小説は山岡荘八作の「徳川家康」。
同時代では菊池寛、谷崎潤一郎、泉鏡花、芥川龍之介らが賞賛し、中谷博は文学史上において大衆文学の母胎と位置付けた。
戦後にも安岡章太郎「果てもない道中記」をはじめ数多くの研究や評論が展開されている。
 
    

大菩薩峠ー
幕末の安政5年、江戸から西に三十里離れた甲州裏街道(青梅街道)の大菩薩峠で、一人の老巡礼が武士机竜之助に意味もなく斬殺。
老巡礼の孫娘お松は、通りがかった盗賊裏宿の七兵衛に助けられ、養育される。
竜之助は、峠のふもとの武州沢井村の沢井道場の若師範であった。
甲源一刀流の師範宇津木文之丞は御岳神社の奉納試合で竜之助と立ち会うことになっていたが、その内縁の妻お浜は妹と偽って竜之助を訪ね、試合に負けてくれと懇願する。
竜之助は拒絶し、与八にかどわかさせて、お浜の操を犯してしまう。あげくに竜之助は試合で文之丞を惨殺し、お浜を連れて江戸へ出奔した。
文之丞の弟の兵馬は仇を討つべく竜之助の後を追う。
四年後の江戸で竜之助と兵馬は互いの素性を知らずに試合を行い、引き分ける。
翌年、兵馬から果し状を受け取った竜之助は、悪縁のお浜を諍いの末に切り捨て、兵馬との試合をすっぽかし、新選組に居場所を求めて京都へ向かう。
しかし、竜之助は、近藤と芹沢の争いで揺れる新選組をよそに、遊郭の里島原で狂乱し、またも失踪する。
その後、三輪の宝蔵院流の槍術を伝えるという植田丹後守の道場に身を寄せた竜之助は心中者の生き残りで亡き妻お浜に生き写しのお豊に惹かれる。
しかし、竜之助は成り行きで天誅組の変に参加し、十津川郷に敗走する途中、泊まっていた山小屋で追っ手の放った爆弾が爆発し失明してしまう。
竜神村でお豊と再会した竜之助は、お豊と逃亡。竜之助の世話のために苦しい生活を強いられたお豊が自害したと間の山の芸人お君から聞かされた
竜之助は、東海道に旅立ち、山の娘たちに助けられ療養するが、ふとしたきっかけで甲府に赴き、夜毎に辻斬りを仕出かしだす。
その後、竜之助は八幡村へ、江戸へと流れるが行き着く先で夜毎に辻斬りを仕出かしだし、慶応3年秋、白骨温泉に赴く。
小説は四散した登場人物全員の旅路を詳細に描いていく。数多の登場人物は慶応3年秋の日本各地をいつまでもいつまでも彷徨い続ける。(未完)



大菩薩峠の映画は、日活(稲垣監督)・東映(渡辺監督)(内田監督)・大映(三隅監督)・東宝(岡本監督)がある。



大菩薩峠は、江戸時代までは武蔵国と甲斐国を結ぶ甲州道中の裏街道であった。
青梅街道の重要な峠として利用され、青梅街道の最大の難所でもあった。
峠を越えると街道は北都留郡丹波山村を通過する丹波山通と小菅村を通過する小菅道に分かれ、武州川野村(現在の東京都西多摩郡奥多摩町)で再び合流

峠より以西では、両村からの米や塩、木材など物資の輸送にも利用された。現在の峠は近年に認定されたものであり、江戸時代からの街道としての旧峠は賽の河原という地名で残っている。
1878年の明治11年、青梅街道は県令藤村紫朗の主導した道路改修により柳沢峠を開削した新ルートに変更され、現在は柳沢峠にその役目を譲っている。



「小説家、中里介山」
西多摩郡羽村、に精米業者の次男として生まれ、玉川上水の取水堰にほど近い多摩川畔の水車小屋で生まれたと伝えられる。
生家は自由民権運動で三多摩壮士と呼ばれた人びとの根拠地で、民権運動の気風が色濃く残る土地で、長兄は早世しており、少年時代に農家であったが、父の代で離農したため土地を失い、不遇の時代を過ごした。
1898年の明治31年、西多摩尋常高等小学校を卒業後に上京し、日本橋浪花電話交換局での電話交換手や母校の代用教員の職に就き、一家を支えた。
この時期に松村介石に傾倒し、号の「介山」も松村にあやかるものだという。

生活信条は、青年時代から独身を貫くと決心をしていたと云う。
27歳の時勤務先の都新聞社で独身会を結成し機関誌「独身」を発行している。
好男子であったので女性には大変もてたというが終生妻は娶らなかった。
評論家北嶋広敏によれば幼少のころ味わった家庭の暗さがトラウマになっているからという。
介山の言「女遊びは構わない、それは魂を傷つけぬから。恋はいけない、魂を傷つけるから」。
晩年まで簡素でストイックな生活を貫いた。「大菩薩峠」がベストセラーになって得た印税は事業につぎ込み、本人は菜食を中心とする粗食で、住まいは六畳間一間しかなかったと云う。



山梨県甲州市塩山上萩原と北都留郡小菅村鞍部の境にある(標高1,897m)
峠から稜線を北へ辿れば大菩薩嶺がある。国中方面からは、萩原越や大菩薩越、青梅通とも称された。

                      峠入口ー黒門
    

「裂石山・雲峰寺」ー甲州市塩山上荻原ー
            臨済宗妙心寺派の寺院で、本尊・十一面観音像(裂石観音)
  

笛吹川支流の「重川上流部」、青梅往還を大菩薩峠へ向かう登山道沿いに立地。
元は、天台宗寺院、745年、に行基が大石が裂け一夜にして生えた萩木から本尊の十一面観音を彫刻し、開山したと伝えられている。
室町時代には恵林寺住職の絶海中津が観音堂改修の浄財勧募を行っており「絶海録」
この頃には恵林寺末寺として臨済宗に改修していたものと考えられている。
戦国期には甲府(甲府市)が甲斐守護武田氏の本拠となるが、雲峰寺は甲府の鬼門に位置するため、「甲斐国志」に拠れば武田氏の祈願所となった。
天文年間に火災に遭い、紹謹禅師の尽力と甲斐守護武田信虎・晴信(信玄)の支援により復興、1558年、晴信は住職芳書記室に武運長久祈願を命じている。
「御旗」-1582年、武田勝頼が一族とともに天目山の戦いで滅亡した時、武田家の家宝である 「日の丸の御旗」 「孫子の旗」 「諏訪神号旗」 などを
山伝いに運んだといわれ、寺宝として保存され現在も宝物殿 に。近世には徳川氏から寺領安堵を受けている寺。
   
    

重要文化財ー本堂・庫裏・書院・仁王門

          開基は、行基  甲斐108霊場の11番寺
    

次回は、武田勝頼・北条夫人他の眠る「景徳寺」へ。