syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

甲州市石和 笛吹川 信玄堤

2015-09-12 | 気まま旅
「笛吹川」-日本三大急流の富士川水系の一級河川。深沢七郎は、この川を題材に小説「笛吹川」を。

水系ー一級水系 富士川 ・延長ー46.5 km・水源の標高ー2,592 m・流域面積ー1,040 km²・水源ー甲武信ヶ岳・国師ヶ岳など 。
「信玄堤」
国中地方では平野部である甲府盆地を有し、盆地底部は笛吹川と釜無川両河川の氾濫原であったため、古来から大雨による水害が発生する地域で、
安定した定住は困難であった。
信玄堤の所在する甲斐市竜王・竜王新町付近では縄文時代にわずかな定住痕跡が見られ、古墳時代には信玄堤の南方に位置する赤坂台において赤坂台古墳群が造営された。平安時代後期には篠原荘が成立する。
平安時代の927年、に成立した「延喜式」では甲斐国は河内国(大阪府)・伊賀国(三重県)と並び朝廷から「堤防料」が支出されていたと記している。水に関わる伝承として、近世初頭に原本が成立した「甲陽軍鑑」ではかつて甲府盆地が湖であったとする甲斐国湖水伝承を記し、釜無川は支流の御勅使川とともに盆地西部において水害をもたらし、戦国時代から江戸時代初期に信玄堤の築造・御勅使川の治水が行われるまでは両河川とも盛んに流路を変更し、釜無川の東流路は甲府(甲府市)へも水害を及ぼしていた。
甲斐国守護である武田氏は盆地東部を拠点としていたが、戦国時代に国内統一を果たした武田信虎期は甲府に居館を移し武田城下町の整備を行う。
1542年、に信虎を追放し国主となった晴信期の初期には信濃侵攻を本格化している。
川除工事の開始時期は不明であるが、「明治以前日本土木史」では信濃侵攻と平行して天文11年に堤防築造が着工したとされている。
川除場で行われる夏御幸の開始時期が弘治年間であることから、着工時期をそこまでに遡るとする説もあると云う。
笛吹川は、奥秩父山塊の南側を太平洋に向かって下る斜面にある急峻な暴れ川で、広瀬ダムや発電所などで雨量にあわせて流量を調整。
最上川、球磨川とともに日本三大急流のひとつで、地形が急峻なため、梅雨、台風の季節に洪水が起こりやすくなっている。
中でも明治40年、からの大雨で発生した水害は、
笛吹川流域を中心に洪水による被害を引き起こし、笛吹川本流の流路が約7kmに渡って変化。
それまでの笛吹川は甲州街道(現国道411号)、笛吹橋の少し上流付近より西方向に流れ、現在の石和温泉街を西に流れた後、石和町と甲府市の境界を流れる今の「平等川」を経由し、旧中道町の北東部にある白井河原橋付近で現在の笛吹川本流につながっていたが、この洪水による土手決壊及び旧河川敷の土砂堆積により南西方向へ流路を変えた。その結果、多数の農民や住民が新河川流路整備の土地収用のため、農地・住居等の移転を余儀なくされた。現在の笛吹市役所庁舎前や国道20号付近を流れる部分の笛吹川は、100年ほど前までは存在していなかったと云う。



「展望の差出磯大嶽山神社」

祭神ー大山祇神 大雷神 高?神 金比羅神
古来の人々は、山や川や岩など、自然のものを信仰の対象にしている。
「差出の磯」は、山に囲まれた盆地の中で、 海辺の磯に見えたことから信仰され、平安時代の古今和歌集を始め、 松尾芭蕉・与謝野晶子など四十首余りの歌に詠まれ、県では富士山に次ぐ和歌の多い聖地。
海神様の金毘羅神を祀っている。明治19年に大山祇神・大雷神・高
春まつりには一万人以上の人々が訪れ、 山梨市最大のお祭りがある。
       平安時代の古今和歌集
        「しほの山差出の磯に住む千鳥君が御代をば八千代とぞ鳴く」と歌われ、
内陸部でありながら海辺の磯の様に見えたことから古来より聖地として信仰されてきた。
松尾芭蕉や与謝野晶子などを始め40首以上の和歌がが詠まれている。
室町時代の文安5年には甲府盆地で大規模な干ばつが起きた時に、この地で雨乞いの神事をしたところ車軸の如く雨が降り喜んだ人々が塔を寄進した。
表参道の笛吹川沿いの道は旧青梅街道・秩父往還道が交差し賑わっており山梨の主要街道であった。

          県峡東地域最大のお祭りとして知られている「春まつり」
  

「石和・白鬚神社」-猿田彦命 ・猿田彦大神、総本社 琵琶湖畔鳥居 近江の厳島 分社ー

国史に「比良神」と見える神名を指すとされ、元々の祭神は比良山の神であるともいわれる。
人格神が猿田彦命とされた由来は、(不詳)
猿田彦命は水尾神社(高島市拝戸)の縁起「三尾神社本土記」にも見えることから、両社の密接な関係が指摘されるている。
比良山は、社伝では、垂仁天皇(第11代)25年に倭姫命によって社殿が建てられたのが創建であるという(一説に再建)。
また、674年、には、天武天皇の勅旨により「比良明神」の号を賜ったとも伝える。
「比良神」から、元々の祭祀は、「比良山」に対するものであったとする説。
白鬚信仰の多く分布する 武蔵国北部や近江・筑前には渡来人が多いことから、それら渡来人が祖神を祀ったことに始まるという。

(山中に横穴式石室(現・末社岩戸社)が残るほか、山頂には磐座と古墳群が残っているー琵琶湖)

                神殿前には、立派な狛犬が
    

            「医王山・正林寺  浄土宗本願寺派」
    

「七日子神社・日下部の里」
赤ちゃんが生まれて7日目に当たる日 お七夜が行われる。
多くの場合、この日に内祝いを兼ねて赤ちゃんの名前を披露する命名式を行うと云う。この時に振る舞われる粥を「七彦粥」と今でも言う。
神社の由緒書きに依れば「第二十九代欽明天皇(540)の御代、皇后堅塩媛命が御懐妊の御時に天皇は勅命を以て甲斐国に七日子の神
「祭神 木花開耶姫命 大山祇命 彦火火出見尊」を祀られ御神田による貢米を宮中に召された。
皇后御出産に当たり貢米を御粥に炊いて差し上げるといと安らかに皇女を御出産せられた、これは七日子の米粥の御徳と思し召され、御名を豊御食炊く屋媛尊と崇め奉った、この御方が後の方三十三代推古天皇である。
この時摂政の聖徳太子は、神慮を仰ぎ泰幤を厚くされた、以来七日子の米粥の神事は宮中の産養の吉例として行われたことが平安期の長秋記・玉海等に記録されている。
神殿の床下には巨大な磐座(いわくら)があり、その周辺は御砂が敷き詰められている。神社の周辺一帯は石器時代の住居跡が密集し縄文時代より奈良朝に至る文化遺物の伴出により、山梨県の七日子遺跡として史跡指定されている。」と云う。(磐座の確認が出来ないのでいったいどんな物か不明)

    

「県社ー菅田天神社」-祭神 五男三女神・菅原道真ー
山梨県甲州市塩山上於曽にある神社。県中東部、甲府盆地の北東縁に位置している。
塩山は恵林寺や向嶽寺などの古刹が集中し、武田氏の保護を受けた寺社も多い地域。

    

「甲斐国社記寺記」
承和9年の842年、甲斐国司の「藤原伊太勢雄」が勅命により少目飯高浜成に命じて創建。
1004年には、相神に菅原道真を祭っており、これが「菅田天」の由来となっている。
古くから甲斐源氏の鎮守と位置づけられ、特に甲斐武田氏の篤い保護を受け、神主は府中八幡宮への参勤を免除された。
甲府の鬼門にあたることから、武田信光のころ御旗(雲峰寺所蔵)とともに武田氏の家宝として相伝されていた楯無が安置。
鎧は於曽氏が管理し、甲斐国志によれば、1561年、武田信豊から、1564年には板垣信安からそれぞれ社領寄進を受けている。
「国志」によれば、武田氏滅亡に際しては楯無鎧が塩山向嶽寺の杉下に埋められ、後に徳川家康により再び当社に安置されたとする伝承を持つが、
鎧の詳細調査では埋められた形跡は確認されていないと云う。
1583年、徳川氏から社領安堵を受けて、1603年、禁制を下されている(社記による)。
慶長7年と正徳3年には社殿造営が行われ、宝物殿には「楯無」と比定される小桜韋威鎧(国宝)を所蔵。(これは現代に至るまで秘蔵であった)
江戸時代には幕命で甲州の古記録調査を行っていた青木昆陽が見聞し、「甲陽軍鑑」の流行もあり多くの参拝者が往来した。
昭和40年、の火災で社殿を焼失するが、昭和44年(1969年)に復興した。

   「小桜韋威鎧 兜・大袖付」始祖新羅三郎義光以来、甲斐武田家代々の重宝。
    

次回は、都留市・大月市へ。