約1500万年前に海底に堆積した火山灰を多く含む砂が固まった「伊奈砂岩層」。
伊奈砂岩層の岩石は、加工しやすく、石材として優秀だったために室町時代から江戸時代後期までの数百年にわたり膨大な量が採石され
「伊奈石」の名で流通した。
伊奈石の主要産品は石臼で「臼は伊奈石 新町小麦 ひけばひくほど 粉が出る」という臼ひき歌は多摩各地の民俗調査で記録されている。
石臼の制作は多くの失敗を伴うものだったらしく、横沢入の山中や横沢川の河原には石臼を作りかけて失敗し、放棄されたものが数多く見られる。
中央湿地の、十字路から東へ向かって横沢川を渡る橋の土台の石垣にはこうした「石臼未成品」がいくつも組み込まれ、磨り面と受け皿部分が一体となった独特の形態から、茶臼を作ろうとしたものと推定できると云う。
「矢穴跡」が
「矢」とは鉄製のクサビで、あらかじめノミで開けた穴にクサビを差し込み、ゲンノウで矢の頭を強く叩くことによって岩を割る。
こうして、今は無い岩のこちら側の部分が採石され、江戸へ。
割られた岩盤と採った石材の双方に切り出し後、矢穴が残る。石工は矢の並ぶ面の上に立って作業していたと思われる。(秋川河原沿いにある)
JR武蔵五日市駅終着駅の上り(JR青梅線拝島駅に向かって)。
武蔵増戸ー武蔵引田ー秋川ー東秋留ー熊川ー拝島(武蔵五日市線)
武蔵五日市駅から武蔵増戸駅約6km・時間約1時間30分ー里山と古刹を散策



「秋留郷」
豊かな水と自然の中に早くから文化がひらけ、縄文時代から古墳時代の考古学研究史に残る遺跡が多く発掘。
平安時代の「日本三代実録・延喜式」に記載されている神社、大悲願寺の「木造伝阿弥陀如来及脇侍千手観世音菩薩・勢至菩薩坐像」もこの時代の終わりごろに作られたと考えられている。
武蔵国は、代表的な馬の産地で、四つの勅使牧の一つ小川牧は、小川郷(秋川・平井川流域)を中心にした牧で、鎌倉時代、この地域は秋留郷と呼ばれ、武蔵七党のうち西党に属する小川氏、二宮氏、小宮氏、平山氏などが鎌倉幕府の御家人として活躍している。
室町時代になると、武蔵総社六所宮随一の大社である「二宮神社」は、小川大明神と呼ばれ、戦国時代の終わりごろからは、伊奈と五日市に
「市」が開かれ、炭などが盛んに取引、江戸時代になると木材は、秋川・多摩川を筏で流し江戸に送っています。
江戸時代末期には炭の年産が20万俵、筏は3000枚を数え、絹糸を泥染めした黒八丈は、柔らかく深い艶のあることから帯や着物の衿などに珍重、
別名「五日市」と呼ばれた。
江戸時代の集落は、秋川・平井川の段丘面や草花丘陵縁辺などに点在し、現在もその多くが市域の字名として残る32か村となって明治時代に。



「正光寺」
秋川流域で唯一、浄土宗の流れをくむ時宗の寺院。
1305年、二祖他阿真教上人が当地に巡化の際開創されたものと伝えられている。
伽藍は、過去2度に渡り焼失しているが、現在の本堂は平成14年に建設。
本尊は、阿弥陀如来立像(脇に観音、勢至菩薩を従える)、(江戸の大仏師法橋光清ー1681年作)



慶安2年の1649年、武田松姫尼(武田信玄の娘)の縁故から第3代将軍徳川家光より寺領16石5斗を受領して明治維新まで継続されたと云う。
弁財天・インド神話で、河川の女神。
音楽・弁舌・財福・智慧の徳があり、吉祥天とともに信仰され、ヒンズー教に取り入れられ、日本では財福の神として弁財天と書かれるようになった。
武蔵五日市七福神の弁財天



横沢入町に入る。
都あきる野市のほぼ中央部、JR五日市線 の武蔵増戸駅と武蔵五日市駅の中間辺りの線路の北側、南に秋川を見下ろす丘陵地里山。
市は、この里山に住宅開発を中止。
幅の広い谷戸を雑木山(五日市丘陵)が囲み、東南の入口部分から北西の分水嶺まで約1㎞、全体で65ヘクタールある。
有史以来、排水を出す人工物が上流・尾根上に造られなかったために、汚れのない湧水が年間を通して谷戸を潤し、多様な生物を育んでいると云う。
休日のたびに自然愛好家のグループが観察会に訪れ、春はセリ摘み、初夏はホタル見物、秋には紅葉狩りに、都心から1時間足らずで自然に触れることのできる「緑のオアシス」として、親しまれている。残してほしい。
中央の谷戸と五つの支谷は昭和40年代までは谷の奥まで棚田が営まれていたが、地形上の制約から大型機械を導入できない効率の悪さや後継者難から、徐々に放棄されて休耕田となり、もっとも早くに水田をやめたところにはヤナギが茂っている。最後までやっていた農家も2年前から米作りをやめ、今、横沢入には一筆の田圃もないと云う。



「大悲願寺」-1695年再建ー
五日市駅東約1km 真言宗寺

寺伝によると創建は1191年。
武蔵国平山(東京都日野市平山)の武将「平山季重」が醍醐寺三宝院の僧を招いて開山としたとされる。
江戸時代には江戸幕府から朱印状を与えられていた。
1794年に観音堂を建立。1824年から1827年にかけては観音堂内陣に欄間彫刻や向拝を追加。1834年から1842年にかけても彫刻や飾り板を観音堂内陣に
追加したことがわかっていると云う。
屋根を茅葺きから本瓦葺きに、本堂が都有形文化財・1995年、観音堂が西多摩郡五日市町の有形文化財指定を受ける。
金色山・吉祥院「大悲願寺」



「重要文化財・(国指定)」
木造伝阿弥陀如来及脇侍(千手観世音菩薩・勢至菩薩)坐像
「都指定文化財」
本堂・大般若経写本・大悲願寺文書等。
東国花の寺百ヶ寺東京10番寺



「あきる野市指定文化財」
中門・楼門・観音堂・懐中仏・六角宝幢式経筒・梵鐘・如環版木活字並びに活版本・棟札・井戸枠
山門天上画 石仏 観音堂



東国花の寺 埼玉一番ー清泰山 西善寺ー 臨済宗南禅寺派・本尊 十一面観世音菩薩/阿弥陀三尊で紅葉。
埼玉県秩父市横瀬町、秩父三十四観音霊場 八番でもある。関東地区に花の寺百ヶ寺が
9月下旬から10月初旬頃に咲く、独眼竜・伊達政宗ゆかりの「白萩」でも有名な古刹。
鐘楼 境内の巨木 彫刻の観音堂



現住職は、お寺は、800年間一度も火災に遭っていないことです。それはつまり、お寺と地域が常に密接に連携しあって、「開かれたお寺」とい
うかたちで、来てくれ守ってくれている人がいるということが一番大きな理由なんですね。
以前は、この寺の前に蒸気機関車が通っていたので、この周りは火災に遭うことが多かったんですね。五日市へ行く方は上り坂なので、ここで蒸
気をふかすわけです。そこで火花が飛び散って、茅葺屋根に落ちて燃えてしまうんです。観音堂や山門にも火花が飛んで、煙が出ることもありました。
それでも近所の人が「煙が出てるわよ」と教えてくれるんですね。地域の人に守られてお寺がある、それが大事なことだと思うんです。
また、仏教界でも花の寺、「百花寺」というものをやっていまして、「萩の寺」として百花寺のひとつに指定を頂戴しています。皆さんに、
境内に来て花を見て、来てよかったと感じてもらうことが住職の役目のひとつだと思っています。
百花寺としては、白萩で登録していますが、春夏秋冬いつ来ても何か花があるように努めています、、、、、。
観音堂



「白萩」は、地面から細い幹が毎年伸び、草に近い姿のマメ科の植物
白萩が植えられているのは、この本堂の周り



江戸時代に建立されたお堂ー外壁に飾られた彫刻に見応えがある。

江戸時代初期、仙台藩主・独眼竜の伊達政宗公の末弟である「秀雄」がこの大悲願寺の住職を務めていたと云う。
楼門 境内



政宗公、この寺を訪れており、その際に見た庭の「白萩」が大変気に入り、後日、手紙を送って分けてもらったと云う。
「伊達正宗」 1567-1636 仙台藩主
蘆名義広を破り会津を掌握、小田原城征伐遅参の為一部没収、関ケ原の戦いで東軍、62万石大名、南蛮貿易計画。
スペインでは、正宗は、次期皇帝の実力者と書簡にある。
その手紙が「白萩文書」とか「白萩所望状」と呼ばれて、現存。(非公開)。


「正一位岩走神社」
神社裏手から五日市街道方面を

平安の末期,信濃國伊那郡の住民が当地に来り一村を開き、信濃國総鎮守の戸隠神社の手力男命を勧請し、
後に数年を経て稚日女尊と棚機姫命を祀る。
光格天皇の御代の1794年に正一位の神格を勅許され、以後、「正一位岩走神社」と。
350年余りの歴史ある祭りは、9月中旬、13基の神輿と山車が地域を練り歩き囃子と屋台が。
祭神ー 稚日女尊・ 手力男命・ 棚機姫命



「松岩寺」
横沢入の地の地頭「布施三河守康貞」は、
小田原北条時代の文亀2年の1502年、に同郷(山城国)の僧である如幻宗悟を請じ、曹洞宗大本山總持寺直末の寺院として、萬年山と号し開山。
開山の如幻宗悟の族性は菅原氏で、同じ神奈川県内では1503年に徳翁寺(横浜市戸塚区)・1519年に寶泉寺(藤沢市)の開山。
宗悟は、1530年、に没したが、興山舜養・月松宗尖・陽始甫などの弟子を輩出し、相模国・武蔵国にその法を広めた。
本尊は、松岩寺の寺領ー1591年、に八石、1648年、に二十二石、合わせて三十石の御朱印を幕府から賜っており、
江戸時代には二層の仁王門や禅堂も備えていた。
本尊ー釈迦牟尼佛で延宝5年の1677年、京烏丸 仏師 宗運の名が刻まれていると云う。



總持寺が越前(福井県)の永平寺とともに曹洞宗の大本山として、800年の法灯を輝かしめているのは御直末や輪番地であった寺院の貢献が大きいと云う。現在、松岩寺の末寺は県内に12ヶ寺となっている。(平塚市:4件 大磯町:4件 秦野市2件 中井町:1件 小田原市:1件)
JR武蔵増戸駅(武蔵五日市ー武蔵引田)
大正14年、 五日市鉄道 拝島 - 武蔵五日市間の開通と同時に増戸駅として開業している。



次回は、西秋留方面へ。