syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

奥多摩 御嶽神社 多摩川散歩(15)

2016-01-28 | 気まま旅

「青梅線(奥多摩)」
南武、青梅、五日市の3線は、太平洋戦争に伴う戦時輸送体制強化の一環として、地方鉄道を買収・国有鉄道に編入した歴史を背負う。
南武鉄道が青梅電気鉄道に所属し、「奥多摩電気鉄道」路線は、開業の時点で青梅線に編入された。

石灰石輸送が主目的な「青梅鉄道」
青梅鉄道ー立川-青梅間で、762mm軌間の蒸気鉄道であった。(青梅鉄道は、明治24の1891年)
明治25年、免許状を受けた後、明治27年に工事を始め、立川-青梅間18.2kmが開通。
明治22年、新宿-立川間25.9kmを開業した甲武鉄道と、内藤新宿から羽村に至る馬車鉄道で始まった計画は、別企画によって青梅に延長し、
「青梅地区で産出する石灰石搬出を目的に加えている」
資本調達に参画した予定路線沿いに居住する有力者の意見をいれて、東京-八王子間の路線計画への置き換えと変化し、
さらに曲折の末、明治19年、東京府、神奈川県、埼玉県三知事による新宿-八王子間の馬車鉄道特許が交付されたと云う。
蒸気鉄道に計画変更され、甲武鉄道となって後年は中央本線新宿-八王子間となる路線の開業へと繋がる。
立川-青梅間をまず開業した青梅鉄道は、約1年後の明治28年、青梅-日向和田間2.24kmを開業し、延長区間は当初、貨物輸送に専用。
青梅鉄道の収益を支える石灰石は、その採掘地が日向和田地区に存在したため、輸送の便宜を計っての貨物線延長となる。
日向和田停車場は現位置ではなく、宮ノ平駅の西よりに位置し、石灰石採掘場へはスイッチバックで側線が入る形態に。
宮ノ平は、大正3年、に貨物駅として開業以来の存在で、後に旅客も扱う。
明治31年以降、全線で旅客列車を運転している。

「白丸ダム」
都西多摩郡奥多摩町白丸、多摩川水系多摩川に建設されたダム。
高さ30.3mの重力式コンクリートダムで、都交通局の発電用ダム。水力発電所・多摩川第三発電所および白丸発電所に送水し、
合計最大1万7,500kWの電力を発電。

        白丸・鳩ノ巣エリアは、山里と渓流が楽しめる。


ダムは、昭和38年、都交通局が白丸狭窄地帯と呼ばれる多摩川断崖の谷に建設・貯えた水は下流の御岳の多摩川第三発電所に送水。
平成13年、国土交通省が魚道を新設し、多摩川に生息する魚の往来が出来る。
白丸ダム直下に白丸発電所が建設され、観光のための放流水を利用して1,100kWの電力を発電できると云う。

                     白丸無人駅


鳩ノ巣駅付近には、三面不動尊と熊野神社と多摩川鳩ノ巣渓流・760mの城山・古里附のイヌグス8mの名木(都指定の天然記念物)が



奥多摩には、平将門の子孫と自称する三田氏が奥多摩を治めたこともあり、山側には、「棚沢熊野神社」・「瑞木山正法寺」・「三面不動尊」
「将門神社」が。(神社には、将門の子「良門」が「将門」を偲んで創建したと言われ、後に、子孫だという説)

                     渓流と吊り橋が


「平将門」~940 新皇と称した反逆者にされている武将。
東国の「桓武平民」の一人、京都 藤原忠平に仕えたが無位無官で下総に帰郷し、将門一族は土地争いで名をあげ、武蔵国の官人と豪族争いに
介入し、反乱を起こす。国司を追放して自らを「新皇」と称した。が、一族の「平貞盛・下野押領使 藤原秀郷」に討たれ、将門の首が、京都で晒され
が、その首が現在の大手町に飛んで落ち「首塚」になっている。



「将門伝説」
天慶2年の939年、「平将門」は、
討伐軍の藤原秀郷に追われ、相模方面から大久野に入り勝峰山(武蔵五日市)に立て篭もり、討伐軍3千、将門軍4百。
年が明けた 940年、討伐軍は勝峰山を攻め上がり、が、将門軍が奮戦し、なかなか落ちないのに業を煮やした「藤原秀郷」は、
勝峰山山頂にて騎乗している将門を強弓で射掛けます。矢はぐんぐん伸び、将門の鎧を掠め向こうの谷へ飛んでいき、矢が越えた沢を矢越沢。
後ろの山並みを通矢尾根と呼ぶようになったと云う。
将門は、戦況我に利あらずと判断。勝峰山を下り青梅方面へ逃れ、梅ヶ谷峠を越えて青梅に入った将門は金剛寺に立ち寄り、手に持っていた
梅の枝を突きたて、「我が志成るものならば根付け」と唱えたと云う、すると、梅は立派に根付き花が咲き、実を結ぶまで育つが、その梅の実は
いつまで経っても青いままで熟すことがなく、この地域を「青梅」と呼ぶようになったと云う。
平将門が、奥多摩まで足を踏み入れたという歴史的証拠はないが、将門伝説はー奥多摩各地に多く残っている。
おそらく将門の死後、一族郎党が落人となりこの深山幽谷の地に移りすんだことが、伝説を残す素地となったとも云う。
また中世の頃、奥多摩渓谷を支配した青梅の三田氏は自らを平将門の後胤と称したことも関係してとも云う。
鳩ノ巣城山ー760mも将門の砦・城跡伝説が。

  

「杣保の三田氏」
武蔵国の青梅地方は、鎌倉時代から室町時代へかけての頃、「杣保」とよばれていた。
杣とは「山の方」という意味で、村より大きな地域をいい、荘園制の発達につれてできた言葉。新編武蔵国風土記、には、
「羽村より西はすべて杣保」であったと記し、羽村から上流の多摩川すじが「杣保」で、「武州杣保青梅村」とか「武州杣保長淵郷」とかの地名が
古文書に多く見受けられ、杣保の支配者としてあらわれるのが三田氏。
三田氏が青梅地方に登場してくるのは十四世紀に入ってからで、三田下総守長綱という人物が、1300年、「勝沼の乗安寺」を建てたと寺の縁起に見える。報恩寺の旧鐘銘には、1322年、に三田弾正忠清綱が奉納したとある。
これらのことから、鎌倉時代には三田氏が「杣保」の地にいたことはたしかと云う。
「武蔵名勝図絵」には、
「三田氏は平将門の後裔にして、世々この辺に居住し、勝沼殿と称しけり、往古の事はつまびらかならずといえど、代々鎌倉将軍家に属す」とある。
三田氏が将門の後裔であるということは、1521年、「三田政定」が根か布の「天寧寺」に奉納した鐘銘に「平朝臣将門の後胤三田弾正忠政定」とある。
そこらも、将門の後裔と称していたことがわかる。
しかし、三田氏が将門の後裔だという史料は何もない。おそらく新興の三田氏としては、関東、特に青梅地方に根強い伝説をもち、英雄視・神格化されている将門をその祖に誇示することは、民衆統治に大きなプラスになると考えたからと云われている。
三田氏の家紋は「巴」だが、他に将門にちなむ「繋ぎ駒」「九曜」も用いたという。
三田氏の出自に関して、古代豪族壬生氏の子孫だという説がある。
壬生氏は古代武蔵国で栄えた豪族で、武蔵国分寺の七重の塔を再建したり、御岳蔵王権現の楼門を建てたり、鐘を寄進したりして
「杣保」の地と深いつながりをもっていた。
谷保村の三田家系図には、「三田氏始め壬生吉志の姓たり」とあって、壬生氏の出自であることを記している。
これとてもたしかな根拠があるわけではないが、まったく否定しさることもできないと云う。

    

「無人・川井駅」
ホームから見る「奥多摩大橋」-多摩川北岸道路(青梅街道)と、多摩川南岸道路(吉野街道)を結んでいる。

 

「大丹波川」
奥多摩町東部の大丹波地区の中を流れる多摩川の支流。
川井駅・「奥多摩大橋」辺りで、多摩川と合流する。
水が大変澄み、綺麗で、岩魚や山女魚も生息し、山葵が育つ。
大丹波地区を縦断し、大丹波住民の生活を支える川で、「川乗山」への登山コース。
(川井駅から清東橋まで西東京バスで行き、大丹波川沿いに登り、獅子口小屋跡の湧き水を通り、長沢背稜から続く尾根をたどり、
曲ヶ谷北峰経由のコース)

      

「JR青梅線・御嶽駅」
玉堂美術館、せせらぎの里美術館、御岳美術館、御岳渓谷(多摩川と青梅街道にはさまれる形で遊歩道が整備)、御岳登山鉄道(ケーブルカー)
で6分に武蔵御嶽神社。

    

ケーブルカー
滝本駅 - 御岳山駅間の1.107km、標高差423.6m、最大勾配斜度25度の急勾配を6分程度で結んでいる。
御岳山駅にて、リフトの御岳平駅に乗り換えができる。

    

御岳山ー標高:929 m。
武蔵御岳山とも呼ばれる。古くから山岳信仰の対象となっており、山上には「武蔵御嶽神社」が建立。

    

「武蔵御嶽神社」
御岳山の山上に鎮座。
櫛真智命などを祀る。中世以降、山岳信仰の霊場として発展し、武蔵・相模に渡る信仰圏を獲得し、式内大麻止乃豆天神社という説がある。
旧府社、現在は神社本庁に属していない単立神社、犬を祀っている所から、願掛けのため、犬を連れた参拝客が近年増えていると云う。

崇神天皇、紀元前91年、創建とされ、736年、行基が蔵王権現を勧請したといわれる。1234年、に大中臣国兼が荒廃していた社殿を再興し、
以降は修験場として知られ、関東の幕府や武士から多くの武具が奉納。
慶長10年の1605年、大久保長安を普請奉行として本社が、1700年、弊殿と拝殿が建立された。
昭和27年、現在の「武蔵御嶽神社」に改称。

   八柱社・北野社・巨福社・神明社・大口真神社・・・・。奥宮に日本武尊を祀る
    

文化財-国宝
「赤糸威鎧」畠山重忠より建久2年の1191年、に奉納されたと伝える。
様式上、平安時代後期の作と推定、(鎧の正面・左脇・背面を一体、右脇は脇楯で塞ぎ、草摺は脇楯を含め4間の「大鎧」と呼ばれる)
その他、鎌倉時代の鞍・鎧・太刀等が。

本社・本殿・拝殿は五間社入母屋造の大き目の社殿で、朱塗りで鮮やかに彩られており、唐破風の向拝には彫刻がある。
本殿は一間社神明造で明治10年の1877年、に造営された。



「畠山重忠」 1164-1205 鎌倉武士、武蔵国秩父一族の重能の子
源頼朝上洛で、先陣となっている。二度目の妻は、北条時政の娘、その子「重保」。時政の後妻「牧方」の娘婿と口論で、時政夫妻は、
畠山重忠父子を討滅へ、畠山一族は全滅する。

次回は、御嶽駅を青梅駅・多摩川に沿って下流へ。