東京都福生市は、都中西部、多摩川の北東側に位置し、3段川岸段丘からなる市、フサは麻のことで麻の原で福生と云う由来など諸説あり。
元は、神奈川県多摩市福生村で、1893年の明治東京府に編入、昭和15年町が成立している。
奥多摩湖埋め立ての代替地に選ばれた所でもある。1653年玉川上水が開削されている。
台地は、養蚕畑地・水田農村で、多摩川では、筏流し漁労が行われている。
昭和15年設置「陸軍航空審査部と整備学校」大戦後「米軍横田基地」で基地の町に。
鉄道は、JR青梅線・牛浜・福生駅ー八高線東福生駅・五日市熊川駅で国道16号線が。
福生市熊川の古式の門構えの家

多摩川合流地点(東京都福生市・あきる野市・八王子市・昭島市境)ー 武蔵五日市駅(東京都あきる野市)
秋川、この美しい名前を持つ川は多摩川最大の支流、多摩川に合流するが、支流と言っても37.6kmもある。
位置的には、北に多摩川、南に相模川と2つの大きな川に上下を挟まれる。
拝島駅ー多摩川と秋川の合流地点。
「多摩川緑地福生南公園」
多摩川沿いにある河川敷公園。
一日中遊べる公園。 野球場、テニスコート、アスレチック遊具、ジョギングコース など。
福生南公園と睦橋。

「多摩川暴れ川」
堤防が、洪水から暮らしを守るために、昔の人々が努力して造り上げ続けてきた多摩川。大雨のたびに氾らんを繰り返し、あばれ川・多摩川、
堤防の決壊で、先住民が立ち上がって現在に、今の多摩川は、あばれ川のおもかげも薄れ、めったなことでは大きな洪水は起こりません。
それは、現在の私達に残してくれた遺産です。明治40年の大水害で水びたしになった川崎町・明治43年の大水害で破損した六郷大橋、 道路となった
有吉堤のなごり・昭和49年の狛江水害で濁流に飲み込まれる家 、、、。記録をたどると。
1550年ー 大洪水、伊豆美神神社流失・1590年ー 大洪水で多摩川の流路変わる・1600年ー 六郷大橋、架橋。以後洪水のため度々流失・再架橋
1627年ー 羽田、川崎水害 ・1644年ー 大洪水で六郷水害 ・1650年ー 羽田・野毛周辺水害 ・1688年ー 大洪水で六郷大橋流失、架橋をやめて渡船に。
1694年ー 川崎水害・1699年ー 川崎水害・1723年ー 六郷水害(以後、度々水害起こる)・1781年ー 享保以来の大洪水・1790年ー 矢口・菅村堤防決壊
1803年ー 川崎堤決壊・1816年ー 川崎、八王子など水害・1868年ー 六郷用水取入口壊滅・1875年の明治8年、 洪水で六郷橋、弁天橋流失、堤防決壊
1878年ー 数ヶ村で堤防決壊・25ヶ村で水害、横浜~東京間鉄道不通 ・1889年ー 各地で堤防決壊 ・1894年ー 各地で堤防決壊 日清戦争開始
1896年ー 河川法公布・1898年ー 布田で堤防決壊、二ヶ領用水締切元付近決壊。高津村、久地村で堤防決壊、 二ヶ領用水宿河原取入口大破損
1904年ー 日露戦争開始 ・1907年ー 大洪水、各地で堤防決壊、横浜~東京間鉄道不通 被災市町村数は50、川崎町は全町浸水
1910年ー 下流部、未曾有の大水害。被災市町村数55 ・1911年ー 洪水で六郷大橋流失
1914年の大正3年、 早期築堤を求めたアミガサ事件 ・1916年ー 代用堤防の有吉堤完成・1917年ー 洪水。高潮と重なり被害甚大
1918年ー 多摩川下流改修工事開始(1934年に完成)
1945年昭和20年ー 太平洋戦争終結 ・1974年ー 狛江水害・1997年ー 河川法改正した。
熊川付近の多摩川と川岸

秋川・平井川・多摩川・湧水の名水、その周囲の田園、夏のとうもろこし、秋のお祭り、、、。
分水路

名水地域には「美味い酒がある」。
清酒「多摩自慢」と東京地ビール「多摩の恵」の製造元「石川酒造」
多摩の恵を醸造する石川酒造は、1863年(文久3年)創業の長い歴史を持つ老舗の造り酒屋で、
地元の水と空気から生まれた銘酒「多満自慢」(たまじまん)の蔵元です。
1880年(明治13年)にここ熊川の地に酒蔵を建造以来、造り酒屋としての歴史を積み上げて来て、
1997年に、地ビール「多摩の恵」の製造を開始しました。
石川酒造工場ー1880年・明治13年

石川酒造の入口を入ると正面に、本蔵が。
創建から100年以上が経つ酒蔵、近代酒造工場と昔ながらの蔵と日本建築のすばらしさを調和。
石川酒造を代表する清酒「多満自慢」の「たま」の字が、地元「多摩」ではなく「多満」としているのは、広くみなさんに満足してもらえるお酒に、、。
という思いが込められて「多くの満足」から「多満」となったと云う。
石川酒造では、酒蔵の見学も、事前予約すればよいと云う。
酒蔵をはじめビールの醸造所や100年以上前に使用したと言るビールの醸造釜など見どころ多い。
石川酒造工場内・本蔵(1890年玉川上水ー熊川分水)

「日本酒のきき酒」いろいろの酒を口にしましょう。
1)瓶・容器に張られたラベルをよく読みましょう。
2)人に聞いてよい物を知って下さい。
3)先ずは欠点から、減点。
4)きき酒の言葉を知りましょう。
5)自分のものさしを作りましょう。
6)長所・欠点を書き留めておきましょう。
7)酒の温度はs、20℃位(ビールは10℃)
8)きき酒の直後に甘辛・刺激の強い物は口にしないでおきましょう。
9)先入観・話をしながらのきき酒は避けましょう。
10)着色グラスなどを使いましょう。(色が濃い・濃厚・番茶色・黄色・赤・・・薄い・水のよう・雑味。酒の特徴があり、気を付ける事)
熊川分水

「香」
1)新酒ばな・こうじばなー生・活性・おり酒を好む人もいます。
2)吟醸香ー高度に精白(精米歩合50%以下)作り手の技術を要求されます。
3)老ね香・熟し香ー古酒で特有の香り・ひねすぎ・熟し過ぎ。
4)びん香ーガラスの匂い。逆で2~3年貯蔵し適度の老ね香を付ける酒もある。
5)つわり香ーチーズ・バターなどの香りは、発酵不完全の場合な。
6)火落香ー貯蔵中・びん詰品に細菌が繁殖して生じる香
その他ー酸臭・木香・炭香・油・ゴム・袋・濾過・・・・・。
仕込み水(地下約150m) 雑蔵・資料館

「味」
濃い・薄い・雑味・ごくみ・ガラが悪い・きたない・後味・後味が悪い・ハリがある・甘みが残る・苦みが残る
若い・未熟・荒い・過熟・甘い・すっぱい・しぶい・苦い・ぼけ
香と味の調和・香りと味の不調和・調和取れている・香味良好・・・・・。
お酒・かまぼこ・スープ・清涼飲料、、・口にするもの全て、品質の判定に化学分析を導入研究に時間費用を費しますが、如何しても人間の
「官能」に優る方法は発見されておりませんし永久にないでしょう。
我が国では、大昔から先人達が残してくれました。また、これは「日本の文化」です。
麦酒釜 麦酒工房

「順序」
1)色沢とサエ(透明度)
2)鉄分・過熱・貯蔵・精米歩合・アミノ酸・・・・不調和は、色が濃くなる。
3)青ザエした澄明な酒ー育ちが良い、貯蔵管理が上手い(薄くてうま味が無いのも)
4)サエが悪いーなんとなくスカッとしていない・照りが悪い(精製濾過が不十分な場合・瓶底にオリが生じる場合が)
5)白く濁っている酒は、火落ち(酸敗)の可能性が
味は、口に含んで、多からず少なからずで、試験官は、5mL程度と云う。
人間の舌の部位と味覚は、舌先から甘味・辛味・奥に行って酸味・奥の中央で苦味。
後口さっぱりがー普通は口から吐き出すのですが、喉越しを見るのには飲み込む場合も。
工場内 古井戸(酒は水が命)
「熊川神社」
神社は、福生市熊川にある。創建年代は不詳ながら、礼拝明神社と号し、生石命を神体としていたという歴史あり。
明治3年「熊川神社」と改めている。祭神ー大国主命 ー境内社・琴平神社、稲荷神社、山神社、天神社、八雲神社
祭日ー例祭日9月1日 、社伝によると、夜ごと多摩川に雷光を放ち、のち一老翁が現われ、この付近に守護神ありといって姿を消し、
そこに一個の御神像をみつけ、これを生石命と尊称し、大国主命を祭神として一社を創設したという。
日本古来の漂着神、寄り神信仰の姿を伝えている。
もと礼拝大明神と称していた。都神社名鑑より
熊川神社

「奥多摩街道」
奥多摩を走る道筋と勘違いされるが、立川の 日野橋交差点で甲州街道から分岐し、昭島、福生、羽村を経て青梅に至る道筋。
大正 時代の終わり頃からそう呼ばれるようになったと云う。
JR五日市線、拝島駅ー「熊川」ー東秋留ー秋川ー武蔵引田ー武蔵増戸ー武蔵五日市駅
拝島の次の駅であるが無人駅

JR青梅線、「牛浜」ー福生ー羽村ー小作ー河辺ー東青梅ー青梅ー奥多摩方面へ
福生・牛浜駅と米軍横田基地

国道16号線沿いに米軍横田基地が
横田基地の前身は、旧日本陸軍によって建設された航空審査部と航空整備学校などが所在した陸軍多摩飛行場。
1940年、立川基地の陸軍航空技術研究所から独立した飛行実験部が移転し、1942年、飛行実験部は航空審査部となり、全長1,200mの滑走路。
米軍は、1944年後半に始まった航空機による日本本土偵察によって飛行場と1,200mの滑走路の存在を初めて知り、発見の後、アメリカ軍は
その飛行場を「横田」と呼ぶようになったと云う。
JR牛浜駅前飲食街寿司・天ぷらの「若みや」で。鰻は、目前で調理ー料金は良心的



前回の滝山城に続き、掲載済みの「八王子城」を。
1575年頃から陸奥守を称し、北条支城のみならず、小田原城の総奉行として働いている。
1576年から「陸奥守」を称するようになる。これは鎌倉幕府において、相模守、武蔵守に継ぐ重要な地位が陸奥守であったことを意識した名乗りと考えられる。1578年、上杉氏の家督争い御館の乱が起こると実弟・上杉景虎の援軍要請に応じた兄・北条氏政の名代として、氏邦と共に越後に出陣。
北条勢は三国峠を越えて坂戸城を指呼の間に望む樺沢城を奪取し、坂戸城攻略に着手した。
しかし上杉景勝方はよく守り、また冬が近づいてきたこともあって、北条勢は樺沢城に氏邦・北条高広らを置き、北条景広を遊軍として残置しての撤退を強いられた。景虎は翌年滅亡という悲運を辿った。
織田政権期には織田信長との同盟強化を望んだが、家中の反対意見と信長の横死によって充分に機能しなかった。
1582年6月、の本能寺の変で信長が死去すると、織田領の混乱を見て甥の北条氏直らと共に織田領の上野に侵攻し、信長の家臣滝川一益を破って
北条領を拡大した(神流川の戦い)。
信長死後を継いだ豊臣政権からは離れ、甲斐や信濃に侵攻した(天正壬午の乱)。
1590年、、豊臣秀吉の小田原征伐の際には徹底抗戦を主張し、居城である八王子城には重臣を置いて守らせ、自身は小田原城に籠もっているが、八王子城は上杉景勝、前田利家に攻略され、小田原開城後、秀吉から主戦派と見なされ、7月11日に兄・氏政と共に切腹を命じられ、死去した。享年51。
辞世の句は、
「吹くと吹く 風な恨みそ 花の春 もみじの残る 秋あればこそ」
「天地(あまつち)の 清き中より 生まれきて もとのすみかに 帰るべらなり」
没後、家臣中山家範の子孫である中山信治が供養塔を建造。(元八王子町3丁目に)八王子市滝山町にある少林寺は、氏照ゆかりの寺として伝わっている
1546年北条氏照が大石定久氏の養子に

北条三代氏康の子ー氏政(四代目)・八王子城主氏照・鉢形城主氏邦・韮崎城主氏規・上杉謙信養子に景虎、、、、、。
「鉢形城主北条氏邦」は、
1590年、豊臣秀吉の小田原征伐の際には小田原城に籠もることに反対して大規模な野戦を主張し、居城の「鉢形城」に籠もって抗戦する。
しかし前田利家等の率いる大軍に攻められて降伏する。
戦後は利家の助命嘆願で剃髪することで一命を許され、能登津向(今の七尾)に知行1000石を得た。
慶長2年の1597年、加賀金沢にて57歳で病没したいる。
金沢で荼毘に付された後に、遺骸は武蔵正龍寺に移された。その時の大法要に集まった参列者はひと山を越える長さに及んだといわれ、かつての威勢と人望を偲ばせたと云う。
妻の大福御前は鉢形に残ったものの1593年、に病死したとも、自害したとも言われる。
1569年氏康、上杉謙信と和議ー氏照。大石から北条姓に復す

3代目北条氏康の長男が、4代目氏政、小田原城主
下総国府台で里見・太田連合軍を破っている。豊臣秀吉の上洛要請答えず征伐された。
父氏康は、氏政を「汁加減も判らぬ様では、北条家も終わりだ」山積の麦を見て「すぐ、麦飯を作れ、、」家臣から「ムギは、こき・こなし・ほし・
つきて飯にするもの、すぐには食べられない、、、」世間知らずを笑われている。氏政の首は、京一条戻橋にさらされたと云う。
1574年氏政(兄)・氏照が「関宿城(掲載していなす)」攻略

北条氏照は当初、大石氏の滝山城に拠っていたが、小田原攻撃に向かう甲斐国(現在の山梨県)・武田信玄軍に攻められ、その際に滝山城の防衛の限界を感じ、織田信長の築城した安土城を参考に石垣で固めた山城構築を行い、本拠を滝山城から移した。
1576年北条氏照「陸奥守」を名乗る。

滝山城は広大かつ多くの角馬出や内枡形を備えた近世的な平山城であったが、山城である八王子城に移ったことで氏照は、時代に逆行したとも言われている。しかし、八王子城は一般的な山城のような尾根と堀切を利用した縦深防御に加えて、侵入してくる敵に対しいたる所から側射をかける仕組みになっている。織豊系城郭と比較するとかなり独特ではあるが、より近世的な戦術を志向しているとも云う。
1582年氏照甲斐に出兵ー北条軍と徳川軍甲斐で対陣「若神子の戦い」

「八王子城合戦」
小田原征伐の一環として1590年の天正18年、7月24日(旧暦6月23日)、八王子城は、
天下統一を進める豊臣秀吉の軍勢に加わった上杉景勝・前田利家・真田昌幸らの部隊1万5千人に攻められた。
当時、城主の氏照以下家臣は小田原本城に駆けつけており、八王子城内には、城代の横地監物吉信、家臣の狩野主善一庵、中山勘解由家範、近藤出羽守綱秀らわずかの将兵の他、領内から動員した農民・婦女子を主とする領民を加えた約3000人が立て籠ったに過ぎなかったと云う。
諸説では、1582年頃八王子城築城?

豊臣側は前夜のうち霧をぬって主力が東正面の大手口(元八王子町)・北側の絡め手(下恩方町)の2方向より侵攻し、力攻めにより早朝には要害地区まで守備隊を追いやった。
その後は激戦となり1000人以上の死傷者を出し、一時攻撃の足が止まった。その後、絡め手側別働隊の奇襲が成功し、その日のうちに城を落とした。
氏照正室・比佐を初めとする城内の婦女子は自刃、あるいは御主殿の滝に身を投げ、滝は三日三晩、血に染まったと言い伝えられている。
城代の横地監物は落城前に檜原村に脱出したが、小河内村付近にて切腹している。
八王子城攻防戦を含む、この小田原征伐において北条氏は敗北し、城主の北条氏照は当主・北条氏政とともに切腹した。
その後新領主となった徳川家康によって八王子城は廃城となった。
小田原城・韮山城の普請-1585年

発掘調査の結果、礎石を沢山つかった建物の跡や水路の跡、多数の遺物が出土。
礎石は土砂で被われ表面は芝生となっているが、今でも当時のまま、庭園部にある石の1つのみは戦国時代当時のもの。
虎口・石垣や石畳は当時のものをそのまま利用し、できるだけ忠実に復元されていると云う。
御主殿入口の冠木門は、当時の門をイメージし復元。
曳橋は、古道から御主殿へわたるために城山川に架けられた橋で、現在の橋は、当時の道筋を再現するために現在の建築技術で当時の雰囲気を考えて架けられたもので、実際の構造は、敵の侵入時に板を外したり、橋桁ごとスライドする大がかりなものであったと云う。
橋台の西側の石垣は、林道整備のため削られ移築。
1587年豊臣秀吉の侵攻に備える

「御主殿の滝」
落城時に御主殿にいた北条方の婦女子や武将らが滝の上流で自刃し、次々と身を投じたと言われている。
戦によって城山川の水が三日三晩血に染まり、麓の村では、この城山川の水で米を炊けば赤く米が染まるほどであったと伝えられる。
先祖供養にあずきの汁で米を炊いた「あかまんま・赤飯」を炊いて供養をする風習が現在でも続いていると云う。
赤飯供養はそれほど珍しいものではなく、北条氏の拠点である神奈川県の石上神社例祭では供物に赤飯を用いたり、他にも静岡県の蓮華寺など赤飯供養の風習は日本各地で続いている。
御主殿の滝の林道側には、高さ3m、幅10m程の小山が残っているが、元々は御主殿方向に繋がった土塁、現在は林道整備により半分以上が削られている。
1590年小田原開城・八王子城落城。

5男氏規(韮崎城主)は、徳川家康の竹馬の友・秀吉は、兄の氏政・氏照の介錯を氏規に命じている。

「朝遊山ー宗関寺」 曹洞宗の寺。
本尊 釋迦如来、 梵鐘(市指定有形文化財)、延喜年間開創
天慶二年朱雀天皇から領地を賜り勅願所として牛頭山神護寺とした。
北條氏照が八王子城を築き、永禄7年牛頭山を復興。天正18年落城翌年再興し朝遊山宗関寺に。現在地に明治25五年に移築している。
寺より西500m先に北條氏照墓地

/
。御主殿の滝
落城時に御主殿にいた北条方の婦女子や武将らが滝の上流で自刃し、次々と身を投じたと言われている。また戦によって城山川の水が三日三晩血に染まり、麓の村では、この城山川の水で米を炊けば赤く米が染まるほどであったと伝えられる。これが起因して先祖供養にあずきの汁で米を炊いた「あかまんま」(即ち赤飯)を炊いて供養をする風習が現在でも続いている[1]。尚、赤飯供養はそれほど珍しいものではなく、北条氏の拠点である神奈川県の石上神社例祭では供物に赤飯を用いたり、他にも静岡県の蓮華寺など赤飯供養の風習は日本各地で続いている。御主殿の滝の林道側には、高さ3m、幅10m程の小山が残っているが、元々は御主殿方向に繋がった土塁であった。現在は林道整備により半分以上が削られている。この土塁をダムにして
次回は、青梅線・奥多摩方面へ。(五日市線は熊川駅まで、次が拝島駅、青梅線・八高線・西武線と連絡)
元は、神奈川県多摩市福生村で、1893年の明治東京府に編入、昭和15年町が成立している。
奥多摩湖埋め立ての代替地に選ばれた所でもある。1653年玉川上水が開削されている。
台地は、養蚕畑地・水田農村で、多摩川では、筏流し漁労が行われている。
昭和15年設置「陸軍航空審査部と整備学校」大戦後「米軍横田基地」で基地の町に。
鉄道は、JR青梅線・牛浜・福生駅ー八高線東福生駅・五日市熊川駅で国道16号線が。
福生市熊川の古式の門構えの家

多摩川合流地点(東京都福生市・あきる野市・八王子市・昭島市境)ー 武蔵五日市駅(東京都あきる野市)
秋川、この美しい名前を持つ川は多摩川最大の支流、多摩川に合流するが、支流と言っても37.6kmもある。
位置的には、北に多摩川、南に相模川と2つの大きな川に上下を挟まれる。
拝島駅ー多摩川と秋川の合流地点。
「多摩川緑地福生南公園」
多摩川沿いにある河川敷公園。
一日中遊べる公園。 野球場、テニスコート、アスレチック遊具、ジョギングコース など。
福生南公園と睦橋。

「多摩川暴れ川」
堤防が、洪水から暮らしを守るために、昔の人々が努力して造り上げ続けてきた多摩川。大雨のたびに氾らんを繰り返し、あばれ川・多摩川、
堤防の決壊で、先住民が立ち上がって現在に、今の多摩川は、あばれ川のおもかげも薄れ、めったなことでは大きな洪水は起こりません。
それは、現在の私達に残してくれた遺産です。明治40年の大水害で水びたしになった川崎町・明治43年の大水害で破損した六郷大橋、 道路となった
有吉堤のなごり・昭和49年の狛江水害で濁流に飲み込まれる家 、、、。記録をたどると。
1550年ー 大洪水、伊豆美神神社流失・1590年ー 大洪水で多摩川の流路変わる・1600年ー 六郷大橋、架橋。以後洪水のため度々流失・再架橋
1627年ー 羽田、川崎水害 ・1644年ー 大洪水で六郷水害 ・1650年ー 羽田・野毛周辺水害 ・1688年ー 大洪水で六郷大橋流失、架橋をやめて渡船に。
1694年ー 川崎水害・1699年ー 川崎水害・1723年ー 六郷水害(以後、度々水害起こる)・1781年ー 享保以来の大洪水・1790年ー 矢口・菅村堤防決壊
1803年ー 川崎堤決壊・1816年ー 川崎、八王子など水害・1868年ー 六郷用水取入口壊滅・1875年の明治8年、 洪水で六郷橋、弁天橋流失、堤防決壊
1878年ー 数ヶ村で堤防決壊・25ヶ村で水害、横浜~東京間鉄道不通 ・1889年ー 各地で堤防決壊 ・1894年ー 各地で堤防決壊 日清戦争開始
1896年ー 河川法公布・1898年ー 布田で堤防決壊、二ヶ領用水締切元付近決壊。高津村、久地村で堤防決壊、 二ヶ領用水宿河原取入口大破損
1904年ー 日露戦争開始 ・1907年ー 大洪水、各地で堤防決壊、横浜~東京間鉄道不通 被災市町村数は50、川崎町は全町浸水
1910年ー 下流部、未曾有の大水害。被災市町村数55 ・1911年ー 洪水で六郷大橋流失
1914年の大正3年、 早期築堤を求めたアミガサ事件 ・1916年ー 代用堤防の有吉堤完成・1917年ー 洪水。高潮と重なり被害甚大
1918年ー 多摩川下流改修工事開始(1934年に完成)
1945年昭和20年ー 太平洋戦争終結 ・1974年ー 狛江水害・1997年ー 河川法改正した。
熊川付近の多摩川と川岸

秋川・平井川・多摩川・湧水の名水、その周囲の田園、夏のとうもろこし、秋のお祭り、、、。
分水路

名水地域には「美味い酒がある」。
清酒「多摩自慢」と東京地ビール「多摩の恵」の製造元「石川酒造」
多摩の恵を醸造する石川酒造は、1863年(文久3年)創業の長い歴史を持つ老舗の造り酒屋で、
地元の水と空気から生まれた銘酒「多満自慢」(たまじまん)の蔵元です。
1880年(明治13年)にここ熊川の地に酒蔵を建造以来、造り酒屋としての歴史を積み上げて来て、
1997年に、地ビール「多摩の恵」の製造を開始しました。
石川酒造工場ー1880年・明治13年



石川酒造の入口を入ると正面に、本蔵が。
創建から100年以上が経つ酒蔵、近代酒造工場と昔ながらの蔵と日本建築のすばらしさを調和。
石川酒造を代表する清酒「多満自慢」の「たま」の字が、地元「多摩」ではなく「多満」としているのは、広くみなさんに満足してもらえるお酒に、、。
という思いが込められて「多くの満足」から「多満」となったと云う。
石川酒造では、酒蔵の見学も、事前予約すればよいと云う。
酒蔵をはじめビールの醸造所や100年以上前に使用したと言るビールの醸造釜など見どころ多い。
石川酒造工場内・本蔵(1890年玉川上水ー熊川分水)



「日本酒のきき酒」いろいろの酒を口にしましょう。
1)瓶・容器に張られたラベルをよく読みましょう。
2)人に聞いてよい物を知って下さい。
3)先ずは欠点から、減点。
4)きき酒の言葉を知りましょう。
5)自分のものさしを作りましょう。
6)長所・欠点を書き留めておきましょう。
7)酒の温度はs、20℃位(ビールは10℃)
8)きき酒の直後に甘辛・刺激の強い物は口にしないでおきましょう。
9)先入観・話をしながらのきき酒は避けましょう。
10)着色グラスなどを使いましょう。(色が濃い・濃厚・番茶色・黄色・赤・・・薄い・水のよう・雑味。酒の特徴があり、気を付ける事)
熊川分水


「香」
1)新酒ばな・こうじばなー生・活性・おり酒を好む人もいます。
2)吟醸香ー高度に精白(精米歩合50%以下)作り手の技術を要求されます。
3)老ね香・熟し香ー古酒で特有の香り・ひねすぎ・熟し過ぎ。
4)びん香ーガラスの匂い。逆で2~3年貯蔵し適度の老ね香を付ける酒もある。
5)つわり香ーチーズ・バターなどの香りは、発酵不完全の場合な。
6)火落香ー貯蔵中・びん詰品に細菌が繁殖して生じる香
その他ー酸臭・木香・炭香・油・ゴム・袋・濾過・・・・・。
仕込み水(地下約150m) 雑蔵・資料館



「味」
濃い・薄い・雑味・ごくみ・ガラが悪い・きたない・後味・後味が悪い・ハリがある・甘みが残る・苦みが残る
若い・未熟・荒い・過熟・甘い・すっぱい・しぶい・苦い・ぼけ
香と味の調和・香りと味の不調和・調和取れている・香味良好・・・・・。
お酒・かまぼこ・スープ・清涼飲料、、・口にするもの全て、品質の判定に化学分析を導入研究に時間費用を費しますが、如何しても人間の
「官能」に優る方法は発見されておりませんし永久にないでしょう。
我が国では、大昔から先人達が残してくれました。また、これは「日本の文化」です。
麦酒釜 麦酒工房



「順序」
1)色沢とサエ(透明度)
2)鉄分・過熱・貯蔵・精米歩合・アミノ酸・・・・不調和は、色が濃くなる。
3)青ザエした澄明な酒ー育ちが良い、貯蔵管理が上手い(薄くてうま味が無いのも)
4)サエが悪いーなんとなくスカッとしていない・照りが悪い(精製濾過が不十分な場合・瓶底にオリが生じる場合が)
5)白く濁っている酒は、火落ち(酸敗)の可能性が
味は、口に含んで、多からず少なからずで、試験官は、5mL程度と云う。
人間の舌の部位と味覚は、舌先から甘味・辛味・奥に行って酸味・奥の中央で苦味。
後口さっぱりがー普通は口から吐き出すのですが、喉越しを見るのには飲み込む場合も。
工場内 古井戸(酒は水が命)


「熊川神社」
神社は、福生市熊川にある。創建年代は不詳ながら、礼拝明神社と号し、生石命を神体としていたという歴史あり。
明治3年「熊川神社」と改めている。祭神ー大国主命 ー境内社・琴平神社、稲荷神社、山神社、天神社、八雲神社
祭日ー例祭日9月1日 、社伝によると、夜ごと多摩川に雷光を放ち、のち一老翁が現われ、この付近に守護神ありといって姿を消し、
そこに一個の御神像をみつけ、これを生石命と尊称し、大国主命を祭神として一社を創設したという。
日本古来の漂着神、寄り神信仰の姿を伝えている。
もと礼拝大明神と称していた。都神社名鑑より
熊川神社



「奥多摩街道」
奥多摩を走る道筋と勘違いされるが、立川の 日野橋交差点で甲州街道から分岐し、昭島、福生、羽村を経て青梅に至る道筋。
大正 時代の終わり頃からそう呼ばれるようになったと云う。
JR五日市線、拝島駅ー「熊川」ー東秋留ー秋川ー武蔵引田ー武蔵増戸ー武蔵五日市駅
拝島の次の駅であるが無人駅



JR青梅線、「牛浜」ー福生ー羽村ー小作ー河辺ー東青梅ー青梅ー奥多摩方面へ
福生・牛浜駅と米軍横田基地



国道16号線沿いに米軍横田基地が

横田基地の前身は、旧日本陸軍によって建設された航空審査部と航空整備学校などが所在した陸軍多摩飛行場。
1940年、立川基地の陸軍航空技術研究所から独立した飛行実験部が移転し、1942年、飛行実験部は航空審査部となり、全長1,200mの滑走路。
米軍は、1944年後半に始まった航空機による日本本土偵察によって飛行場と1,200mの滑走路の存在を初めて知り、発見の後、アメリカ軍は
その飛行場を「横田」と呼ぶようになったと云う。
JR牛浜駅前飲食街寿司・天ぷらの「若みや」で。鰻は、目前で調理ー料金は良心的







前回の滝山城に続き、掲載済みの「八王子城」を。
1575年頃から陸奥守を称し、北条支城のみならず、小田原城の総奉行として働いている。
1576年から「陸奥守」を称するようになる。これは鎌倉幕府において、相模守、武蔵守に継ぐ重要な地位が陸奥守であったことを意識した名乗りと考えられる。1578年、上杉氏の家督争い御館の乱が起こると実弟・上杉景虎の援軍要請に応じた兄・北条氏政の名代として、氏邦と共に越後に出陣。
北条勢は三国峠を越えて坂戸城を指呼の間に望む樺沢城を奪取し、坂戸城攻略に着手した。
しかし上杉景勝方はよく守り、また冬が近づいてきたこともあって、北条勢は樺沢城に氏邦・北条高広らを置き、北条景広を遊軍として残置しての撤退を強いられた。景虎は翌年滅亡という悲運を辿った。
織田政権期には織田信長との同盟強化を望んだが、家中の反対意見と信長の横死によって充分に機能しなかった。
1582年6月、の本能寺の変で信長が死去すると、織田領の混乱を見て甥の北条氏直らと共に織田領の上野に侵攻し、信長の家臣滝川一益を破って
北条領を拡大した(神流川の戦い)。
信長死後を継いだ豊臣政権からは離れ、甲斐や信濃に侵攻した(天正壬午の乱)。
1590年、、豊臣秀吉の小田原征伐の際には徹底抗戦を主張し、居城である八王子城には重臣を置いて守らせ、自身は小田原城に籠もっているが、八王子城は上杉景勝、前田利家に攻略され、小田原開城後、秀吉から主戦派と見なされ、7月11日に兄・氏政と共に切腹を命じられ、死去した。享年51。
辞世の句は、
「吹くと吹く 風な恨みそ 花の春 もみじの残る 秋あればこそ」
「天地(あまつち)の 清き中より 生まれきて もとのすみかに 帰るべらなり」
没後、家臣中山家範の子孫である中山信治が供養塔を建造。(元八王子町3丁目に)八王子市滝山町にある少林寺は、氏照ゆかりの寺として伝わっている
1546年北条氏照が大石定久氏の養子に

北条三代氏康の子ー氏政(四代目)・八王子城主氏照・鉢形城主氏邦・韮崎城主氏規・上杉謙信養子に景虎、、、、、。
「鉢形城主北条氏邦」は、
1590年、豊臣秀吉の小田原征伐の際には小田原城に籠もることに反対して大規模な野戦を主張し、居城の「鉢形城」に籠もって抗戦する。
しかし前田利家等の率いる大軍に攻められて降伏する。
戦後は利家の助命嘆願で剃髪することで一命を許され、能登津向(今の七尾)に知行1000石を得た。
慶長2年の1597年、加賀金沢にて57歳で病没したいる。
金沢で荼毘に付された後に、遺骸は武蔵正龍寺に移された。その時の大法要に集まった参列者はひと山を越える長さに及んだといわれ、かつての威勢と人望を偲ばせたと云う。
妻の大福御前は鉢形に残ったものの1593年、に病死したとも、自害したとも言われる。
1569年氏康、上杉謙信と和議ー氏照。大石から北条姓に復す

3代目北条氏康の長男が、4代目氏政、小田原城主
下総国府台で里見・太田連合軍を破っている。豊臣秀吉の上洛要請答えず征伐された。
父氏康は、氏政を「汁加減も判らぬ様では、北条家も終わりだ」山積の麦を見て「すぐ、麦飯を作れ、、」家臣から「ムギは、こき・こなし・ほし・
つきて飯にするもの、すぐには食べられない、、、」世間知らずを笑われている。氏政の首は、京一条戻橋にさらされたと云う。
1574年氏政(兄)・氏照が「関宿城(掲載していなす)」攻略



北条氏照は当初、大石氏の滝山城に拠っていたが、小田原攻撃に向かう甲斐国(現在の山梨県)・武田信玄軍に攻められ、その際に滝山城の防衛の限界を感じ、織田信長の築城した安土城を参考に石垣で固めた山城構築を行い、本拠を滝山城から移した。
1576年北条氏照「陸奥守」を名乗る。



滝山城は広大かつ多くの角馬出や内枡形を備えた近世的な平山城であったが、山城である八王子城に移ったことで氏照は、時代に逆行したとも言われている。しかし、八王子城は一般的な山城のような尾根と堀切を利用した縦深防御に加えて、侵入してくる敵に対しいたる所から側射をかける仕組みになっている。織豊系城郭と比較するとかなり独特ではあるが、より近世的な戦術を志向しているとも云う。
1582年氏照甲斐に出兵ー北条軍と徳川軍甲斐で対陣「若神子の戦い」



「八王子城合戦」
小田原征伐の一環として1590年の天正18年、7月24日(旧暦6月23日)、八王子城は、
天下統一を進める豊臣秀吉の軍勢に加わった上杉景勝・前田利家・真田昌幸らの部隊1万5千人に攻められた。
当時、城主の氏照以下家臣は小田原本城に駆けつけており、八王子城内には、城代の横地監物吉信、家臣の狩野主善一庵、中山勘解由家範、近藤出羽守綱秀らわずかの将兵の他、領内から動員した農民・婦女子を主とする領民を加えた約3000人が立て籠ったに過ぎなかったと云う。
諸説では、1582年頃八王子城築城?


豊臣側は前夜のうち霧をぬって主力が東正面の大手口(元八王子町)・北側の絡め手(下恩方町)の2方向より侵攻し、力攻めにより早朝には要害地区まで守備隊を追いやった。
その後は激戦となり1000人以上の死傷者を出し、一時攻撃の足が止まった。その後、絡め手側別働隊の奇襲が成功し、その日のうちに城を落とした。
氏照正室・比佐を初めとする城内の婦女子は自刃、あるいは御主殿の滝に身を投げ、滝は三日三晩、血に染まったと言い伝えられている。
城代の横地監物は落城前に檜原村に脱出したが、小河内村付近にて切腹している。
八王子城攻防戦を含む、この小田原征伐において北条氏は敗北し、城主の北条氏照は当主・北条氏政とともに切腹した。
その後新領主となった徳川家康によって八王子城は廃城となった。
小田原城・韮山城の普請-1585年



発掘調査の結果、礎石を沢山つかった建物の跡や水路の跡、多数の遺物が出土。
礎石は土砂で被われ表面は芝生となっているが、今でも当時のまま、庭園部にある石の1つのみは戦国時代当時のもの。
虎口・石垣や石畳は当時のものをそのまま利用し、できるだけ忠実に復元されていると云う。
御主殿入口の冠木門は、当時の門をイメージし復元。
曳橋は、古道から御主殿へわたるために城山川に架けられた橋で、現在の橋は、当時の道筋を再現するために現在の建築技術で当時の雰囲気を考えて架けられたもので、実際の構造は、敵の侵入時に板を外したり、橋桁ごとスライドする大がかりなものであったと云う。
橋台の西側の石垣は、林道整備のため削られ移築。
1587年豊臣秀吉の侵攻に備える



「御主殿の滝」
落城時に御主殿にいた北条方の婦女子や武将らが滝の上流で自刃し、次々と身を投じたと言われている。
戦によって城山川の水が三日三晩血に染まり、麓の村では、この城山川の水で米を炊けば赤く米が染まるほどであったと伝えられる。
先祖供養にあずきの汁で米を炊いた「あかまんま・赤飯」を炊いて供養をする風習が現在でも続いていると云う。
赤飯供養はそれほど珍しいものではなく、北条氏の拠点である神奈川県の石上神社例祭では供物に赤飯を用いたり、他にも静岡県の蓮華寺など赤飯供養の風習は日本各地で続いている。
御主殿の滝の林道側には、高さ3m、幅10m程の小山が残っているが、元々は御主殿方向に繋がった土塁、現在は林道整備により半分以上が削られている。
1590年小田原開城・八王子城落城。



5男氏規(韮崎城主)は、徳川家康の竹馬の友・秀吉は、兄の氏政・氏照の介錯を氏規に命じている。



「朝遊山ー宗関寺」 曹洞宗の寺。
本尊 釋迦如来、 梵鐘(市指定有形文化財)、延喜年間開創
天慶二年朱雀天皇から領地を賜り勅願所として牛頭山神護寺とした。
北條氏照が八王子城を築き、永禄7年牛頭山を復興。天正18年落城翌年再興し朝遊山宗関寺に。現在地に明治25五年に移築している。
寺より西500m先に北條氏照墓地



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。御主殿の滝
落城時に御主殿にいた北条方の婦女子や武将らが滝の上流で自刃し、次々と身を投じたと言われている。また戦によって城山川の水が三日三晩血に染まり、麓の村では、この城山川の水で米を炊けば赤く米が染まるほどであったと伝えられる。これが起因して先祖供養にあずきの汁で米を炊いた「あかまんま」(即ち赤飯)を炊いて供養をする風習が現在でも続いている[1]。尚、赤飯供養はそれほど珍しいものではなく、北条氏の拠点である神奈川県の石上神社例祭では供物に赤飯を用いたり、他にも静岡県の蓮華寺など赤飯供養の風習は日本各地で続いている。御主殿の滝の林道側には、高さ3m、幅10m程の小山が残っているが、元々は御主殿方向に繋がった土塁であった。現在は林道整備により半分以上が削られている。この土塁をダムにして
次回は、青梅線・奥多摩方面へ。(五日市線は熊川駅まで、次が拝島駅、青梅線・八高線・西武線と連絡)