syuの日記・気まま旅

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東京に戻った。

2016-09-12 | 思い出

荒れ果てた上野の焼野原を目にし、敗戦という現実を目の辺りにした。
荒廃した東京は、表現できない、ピカドン・大型爆弾・原子爆弾の話などを聞き、憎きアメリカと思った。
上野駅に着いたのは、夕方。駅前は人、人で溢れ、西郷さんの銅像、ガード下、にゲートルを巻いた日本兵の引揚者、浮浪児、乞食であふれ、焦げ臭さと、悪臭で一杯であった。
足から蛆虫が這い出している乞食の親子、呼吸をしているのかしていないのか判らない赤ちゃんは、泣く事も出来ない、
スリをしたと大男に咎められている少年、同年位の浮浪児がタバコをふかしている姿、上野は、地獄と化した無法地帯の上野。
Sは、母に「あの子供達助けてやれないの」と聞いた。
母は、「かわいそうね、でも今は何もしてあげる事が出来ないのよ、さあ、早く危険だからゆきましょう」とだけ言ったが少し不満だった。
特にゲートルを巻いた尊敬した元日本帰還兵の姿に目を疑った。
当時の大人達は、皆、殺気立っていた。
世界を相手に、国民一致団結して戦ってきた日本が、敗戦を期に、人を人と思わない弱肉強食の汚れた醜い世界、まるで獣の世界のように東京は一変してしまった。
Sは、隅田川に向かい、今でも黙とうを続けている。
特に昭和20年3月の東京大空襲で一夜のうちに10万人もの人が死んでいる。
多くの人々は、猛火に追われ、追い詰めれて隅田川に飛び込み亡くなられた。
その時の、苦しさによる悲鳴が遠く10KM離れた大森海岸まで聞こえてきたという。
隅田川には、男子は下向きに、女子は上向きに列を作りながら死体が東京湾方面に
流れ出していたと云う。
当時の世相を見ると、終戦の8月末、マッカーサーが上陸して、9月2日ミズーリ―艦上で降伏文書調印され、
国民は、占領軍を迎える不安、
東久邇皇族内閣の一億総ざんげを訴え無政府状態、今までの日本伝統体制はどんどん崩れ、
戦犯容疑者が続々逮捕されていった不安、
食べる物がなく、職もなく、野宿を求め全国から人人が続々東京に集まってきた。さらに疲れ切った引揚兵も次から次に東京を目指して集まった。
東京に行けば何とかなるという人々の町となり、特に上野・新宿では、戦場で傷を負い、白い病衣の負傷兵がハーモニカ、アコーデオンなどの楽器で悲しげな軍歌等の曲を奏でていた。
目が見えず、片腕、片足がない人、道行く人々に頭を下げ、胸に下げた箱の中にわずかな同情の寄付を集めているのだ、彼らは、時には電車の中にも現れ
誇りを失い、みじめさ、みすぼらしい姿・彼らが本当に勇敢な日本兵だったのかと子供ながら信じがたかった。
共産主義者が解放され、地下活動から日の下へと這い出し、待ち望んで革命の時と声高高に活動しだしたのである。
かっての静かで落ち着いた東京は、もう永久に戻らない寂しさを少年ながら思った。

終戦の8月15日、Sは、埼玉県熊谷市内アメリカ軍最後の空襲の真っ赤に燃えている空を山の上から見た。
熊谷市は中島飛行機の部品製造の重要拠点の一つで、影森からでも見て、かなり激しい夜間攻撃がわかり、夜空が真っ赤であった。