天皇が国民に戦後初めて演説した「食糧事情」.
「祖国再建の第一歩は、国民生活、食料安定にある。地方農民は努力をしているが、もっと生産と増産と供出に努力して欲しい、都市における食糧事情はいまだかって例を見ないほど窮迫し、この状況は深く心を痛ましめるものがある。
政府は、直ちに適切な施策を行うべきは言うまでもないが、全国民においても、乏しきを分かち、苦しみを共にするの覚悟を新たにし、同胞お互いに助け合って、この窮状を切り抜けなければ成らない。
戦争による諸種の痛手の回復しない国民に、これを求めるのは、誠に忍びないところであるが、これを切り抜けなければ、終戦以来全国民の続けていた一切の経営は虚しくなり、平和な文化国家を再建して、世界の推運に寄与したいと云う我が国民の厳粛かつ神聖な念願の達成もこれを望む事が出来ない。
この際にあたって、国民が家庭国家の麗しい伝統、区区の利害を超えて、現在の難局に打ち勝ち、祖国再建の道を踏み進むことを切に望むし、かつこれを期待する。」
というものだった。1947年昭和22年政府はパンの切符配給制を実施.一般庶民は、近県にリックを背負い、
家族総出で買い出しに出た。
共産党員活動 徳田球一
「フアシズム及び軍国主義からの世界解放のための、連合国の日本進駐にとって日本における民主主義革命の端緒が開かれ度ことに対して我々は感謝を表す。米・英及び連合国を支持、我々は天皇制を打破して、人民共和政府の樹立にある。天皇の宮廷、行政官僚、貴族、寄生的土地所有者及び資本家の結合体を一掃する」と街頭演説している。
マッカーサー有名な演説(米国会議で)
「人類の運命は、我々が一党一派によらず、より高い国家的見地から下す決定に懸っている。私は、52年に渡る軍務を閉じようとしている。私が軍に入った時はまだ20世紀にも入らぬ時だったが、私が士官学校の営庭で宣誓を誓って以来世界は幾度となく転換した。
そして私の希望と夢もずっと以前に消えてしまった。しかし私は、なおあの当時もっともよく歌われた民謡の一節を覚えている。それはまことに誇らしげに「老兵は死なず、徒消えるのみ」と楊言した者であった。この老兵のように私は今軍人としての境涯を閉じて姿を消そう、さようなら。」
マッカーサーが、皇居前においでになった時、われわれ小学生も旗を持って出迎えた。
殺伐とした社会、餓死状態の都市は、体力のある大人たちは、闇屋等で、進駐軍払下げた物資、闇米、食料、インチキ商品など、高値で闇売。
引揚者は「軍保有米、軍需補償物品など」、その為インフレが進み貧富の差は、闇屋をやる人とやらない人とで大きく差が広がっていった。
若い体力のある者、主に引揚者、地方出の男等が思うように稼ぎ、主に主婦達、着物を持ち近県の農家に買い出しに出るしかなかった。
政府の主食配給はわずかで、2合1勺、1人、1200カロリーで、後は闇に頼り、自殺か餓死が多数出た。
私の住んでいたJR 日暮里近くには、毎日、家族単位で鉄道飛び込み自殺が絶えなかった。
女装をして、旧憲兵が、隠れながら生活し、見つかると殺されると怯えていた。恨み辛みを持った人たちが駅・駅で探し、仕返しで屯していたという。
繁華街の社会は、無法状態で、しばらくしてアメリカMPが治安に乗り出している。
「祖国再建の第一歩は、国民生活、食料安定にある。地方農民は努力をしているが、もっと生産と増産と供出に努力して欲しい、都市における食糧事情はいまだかって例を見ないほど窮迫し、この状況は深く心を痛ましめるものがある。
政府は、直ちに適切な施策を行うべきは言うまでもないが、全国民においても、乏しきを分かち、苦しみを共にするの覚悟を新たにし、同胞お互いに助け合って、この窮状を切り抜けなければ成らない。
戦争による諸種の痛手の回復しない国民に、これを求めるのは、誠に忍びないところであるが、これを切り抜けなければ、終戦以来全国民の続けていた一切の経営は虚しくなり、平和な文化国家を再建して、世界の推運に寄与したいと云う我が国民の厳粛かつ神聖な念願の達成もこれを望む事が出来ない。
この際にあたって、国民が家庭国家の麗しい伝統、区区の利害を超えて、現在の難局に打ち勝ち、祖国再建の道を踏み進むことを切に望むし、かつこれを期待する。」
というものだった。1947年昭和22年政府はパンの切符配給制を実施.一般庶民は、近県にリックを背負い、
家族総出で買い出しに出た。
共産党員活動 徳田球一
「フアシズム及び軍国主義からの世界解放のための、連合国の日本進駐にとって日本における民主主義革命の端緒が開かれ度ことに対して我々は感謝を表す。米・英及び連合国を支持、我々は天皇制を打破して、人民共和政府の樹立にある。天皇の宮廷、行政官僚、貴族、寄生的土地所有者及び資本家の結合体を一掃する」と街頭演説している。
マッカーサー有名な演説(米国会議で)
「人類の運命は、我々が一党一派によらず、より高い国家的見地から下す決定に懸っている。私は、52年に渡る軍務を閉じようとしている。私が軍に入った時はまだ20世紀にも入らぬ時だったが、私が士官学校の営庭で宣誓を誓って以来世界は幾度となく転換した。
そして私の希望と夢もずっと以前に消えてしまった。しかし私は、なおあの当時もっともよく歌われた民謡の一節を覚えている。それはまことに誇らしげに「老兵は死なず、徒消えるのみ」と楊言した者であった。この老兵のように私は今軍人としての境涯を閉じて姿を消そう、さようなら。」
マッカーサーが、皇居前においでになった時、われわれ小学生も旗を持って出迎えた。
殺伐とした社会、餓死状態の都市は、体力のある大人たちは、闇屋等で、進駐軍払下げた物資、闇米、食料、インチキ商品など、高値で闇売。
引揚者は「軍保有米、軍需補償物品など」、その為インフレが進み貧富の差は、闇屋をやる人とやらない人とで大きく差が広がっていった。
若い体力のある者、主に引揚者、地方出の男等が思うように稼ぎ、主に主婦達、着物を持ち近県の農家に買い出しに出るしかなかった。
政府の主食配給はわずかで、2合1勺、1人、1200カロリーで、後は闇に頼り、自殺か餓死が多数出た。
私の住んでいたJR 日暮里近くには、毎日、家族単位で鉄道飛び込み自殺が絶えなかった。
女装をして、旧憲兵が、隠れながら生活し、見つかると殺されると怯えていた。恨み辛みを持った人たちが駅・駅で探し、仕返しで屯していたという。
繁華街の社会は、無法状態で、しばらくしてアメリカMPが治安に乗り出している。
戦後50年 毎日ムックより