syuの日記・気まま旅

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真鶴岬と三ツ石 見晴台カフェ syu散歩  

2017-01-06 | syu散歩
「治承・寿永の乱ー小田原石橋山の戦い(1180年)
平氏勝利・(源頼朝軍300騎・大庭景親と伊東軍3000騎・「北条宗時討ち死に」)

頼朝軍は力戦するが多勢に無勢で敵わず、岡崎義実の子の佐奈田与一義忠らが討ち死にして大敗。
「平家物語・源平盛衰記」などには佐奈田与一(真田余一)の奮戦が伝えられ、この地には与一を祀る佐奈田霊社が創建されているとある。
大庭軍は勢いに乗って追撃し、頼朝に心を寄せる大庭軍の飯田家義の手引きによって頼朝らは辛くも土肥の椙山に逃げ込んだ。
翌日、大庭軍は追撃の手を緩めず、逃げ回る頼朝軍の残党は山中で激しく抵抗した。
頼朝も弓矢をもって自ら戦い百発百中の武芸を見せた。
ちりぢりになった頼朝軍の武士たちはおいおい頼朝の元に集まり、頼朝は臥木の上に立ってこれを悦んだ。
土肥実平(湯河原城主)は、人数が多くてはとても逃れられない、ここは自分の領地であり、頼朝一人ならば命をかけて隠し通すので、皆はここで別れて雪辱の機会を期すよう進言し、皆これに従って涙を流して別れた。
北条時政と二男の義時は甲斐国へ向かい、嫡男の宗時は別路を向かったが、宗時は途中で伊東祐親の軍勢に囲まれて討ち死に。
大庭軍は、山中をくまなく捜索した。大庭軍に梶原景時という武士がいて、頼朝の居場所を知るが情をもってこれを隠し、この山に人跡なく、向こうの山が怪しいと景親らを導き、頼朝の命を救った。
このことが縁で後に景時は頼朝から重用されることになる。
土肥の椙山のしとどの窟がこのエピソードにまつわる伝説の地として伝わっている。

頼朝・土肥(7名)らは、真鶴岩海岸から、小船で、「千葉県」に向かった。