syuの日記・気まま旅

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東海館と柳と伊東の街 syu散歩

2017-01-19 | syu散歩
「伊東氏」-藤原南家工藤氏流ー祖 工藤祐隆・伊藤祐親
源頼朝と伊東祐親。
源頼朝は平治元年の1159年、平治の乱で父・義朝が敗死した事により、14歳で伊豆へ流罪となり、伊東祐親は在地豪族としてその監視の任に。
祐親が大番役として上洛している間に、頼朝と祐親の三女八重姫が通じ、千鶴という男子をもうける。
1175年、千鶴が3歳になった時に祐親が帰郷して事を知り激怒、平家への聞こえを恐れ、千鶴を川底へ投げ捨てて殺害し、さらに頼朝を討とうとした所を、次男の祐清が頼朝に知らせて北条時政の邸に逃がした。
のちに頼朝は時政の長女政子と結ばれ、北条氏が頼朝の後見として頼朝の挙兵に加わる事になる。
この事件の5年後、1180年、頼朝は打倒平氏の兵を挙げて坂東を制圧し、平家方として敵対した祐親は頼朝方に捕らえられ、一端は娘婿である三浦義澄の奔走によって助命されるが、それを由とせず自害した。
次男・祐清は頼朝から命の恩人として賞を与えられるが、これを拒んで平家方として西国へ下り、篠原の戦いで討ち死にした。
工藤祐経は頼朝に仕えて側近として重用され、祐親父子亡き後の伊東荘を安堵される。
祐経は頼朝の挙兵から13年後に河津祐泰の遺児・曾我兄弟によって父の仇として討たれた。
祐経の子・祐時は伊東を称し、その後子孫は全国に広まった。
祐時の子・祐光の子孫が日向国へ下向してのちの日向伊東氏となり、地頭大名として現地で勢力を誇ったと云う。



「アダムスー三浦按針」1564-1620    イギリス航海士
家康に謁見して250石を貰っている。日本女性と結婚一男一女
伊東で西洋風船を造り、幾何学・物理学を講じ伝えている。貿易活動、按針塚は、横須賀にある。



伊東は、県東部(湯川・松原・岡・鎌田・久須美の5区)




「松川」
伊東の中心市街地を流れ、川沿いの松川遊歩道で、春には、桜が咲きほこり、川越しに伊東温泉観光文化施設「東海館」を臨み、古き良き
湯の街情緒を楽しみながら散策することができる。
年々、伊東も人気が落ちて、熱海に集中していると云う。











「木下 杢太郎」1885年明治18年ー 1945年昭和20年。
本名ー太田正雄は、皮膚科の医学者、詩人、劇作家、翻訳家、美術史・切支丹史研究家。大学医学部の教授を歴任し、また、南蛮情緒的、切支丹趣味、
耽美享楽的など言われるきらびやかな詩や戯曲を残した。
堀花村ーほりかそん、地下一尺生、葱南などの筆名も用いた。












伊東駅前


伊豆高原散策終わります。