江戸の東側を流れるのが「隅田川・大川」
日向院、吉良邸跡の両国から南千住、隅田川神社・大神大橋の舟遊びを
両国国技館・江戸博物館を過ぎると「蔵前橋・厩橋」ー「駒形橋」-「吾妻橋、浅草寺」-「言間橋」-「桜橋、長命寺と桜餅」ー「白髭橋」
明治通り・堤通・墨堤通りー水神大橋、深川芸者の気風の良さが人気だったと云う。
「樋口一葉記念館」-竜泉寺町ー
「樋口一葉」 1872-96 多くの名作を残した。
本名ー奈津、下谷池之端私立青海学校小学高等科第四級首席で卒業ー歌人中島歌子の歌塾「萩の舎」弟子入り「和歌・書道・古典を学ぶ」
父死後針仕事で一家を支える。同門作家田辺花圃に刺激され小説家に。
闇桜ー出作、うもれ木ー生活苦で本郷から龍泉寺町で雑貨商(おもちゃなどの小店)
「たけくらべ・にごりえ・十三夜」秀作を次々発表し文壇に名を残し、24歳で没している。
一葉が亡くなった明治29年、
与謝野鉄幹の「東西南北」が刊行され、佐佐木信綱が「いささ川」(「心の花」の前身)を創刊した年、三年後、正岡子規を中心にした根岸短歌会が創刊されている。
おく霜の消えをあらそふ人もあるを祝はんものか年のはじめも
明治28年の年頭に詠んだ一葉の歌。
背後には日清戦争がある。「おく霜の」は「消え」に掛かる枕詞で、「人もあるを」の「人」は戦地で次々に命を落とす兵士たちのことを指す。兵の苦しみを忘れて正月を祝っていていいのか、という問い掛けが印象深い。
九年後の明治三十七年、日露戦争に際して与謝野晶子は詩「君死にたまふこと勿れ」を発表したが、一葉が存命だったならきっと晶子と肩を並べるようにして社会的な発信をしたに違いないと云う。
鷲神社(浅草酉の市本社)
歌川広重「江戸高名会亭尽」-浅草山谷最高級料亭、八百善ー
会席料理フルコースを提供する店、離れに浴室と庭付き、2~3人で茶漬けで1両2分とか。
現在の贈答用「料理切手」を発行するなど戦略に優れていたと云う。その他にも山鯨・猪などが。
明暦3年・1657年の明暦の大火・振袖火事
江戸城の北と西から2日間・3度出火ー江戸の町60%焼失、江戸城本丸・二の丸・三の丸と天守焼失(天守は再建されず)大名火消から
定火消を設置、破壊消防主体。
1772年目黒行人坂「大円寺」から出火し日本橋・本郷方面までにー死者14700人。
1806年丙寅の大火、芝~浅草まで広がったー死者1200人。
災害のもう一ッ「地震」
安政2年1855年。
関東大地震1923年
江戸・陸奥・仙台・東海・南海と大地震が日本を襲っている。
「江戸っ子・下谷っ子」
下谷っ子
ー下谷地域に該当する現町名ー秋葉原ー池之端ー入谷ー上野ー上野公園ー 上野桜木ー北上野ー下谷ー台東ー 根岸ー三ノ輪ー谷中ー
竜泉ー 千束一部ー日本堤一部ー東上野一部ー松が谷一部。
下町ー浅草ー本所ー深川などで低地・山の手ー高台を指した。
びっくり下谷の広徳寺・恐れ入り屋の鬼子母神・・・寛永寺(浅草寺)の門前町が広がっていった。