syuの日記・気まま旅

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浅草寺の豆まき 立春の前日節分 syu散歩

2017-02-04 | syu散歩
「浅草寺の節分会・福聚の舞ー七福神の舞」
平成29年2月3日、浅草寺本堂横に節分舞台から豆まきと七福神の舞、14時開催された。
浅草寺は、恒例の節分会に、災難・厄難退散を願い、年男が豆を撒きます。
その後、奉演される「七福神の舞」は、観音様の福徳を讃えるもので、七福神の故事からとったといわれ、この舞は、昭和39年・宝蔵門落慶を記念して、端午の節句に奉演される「宝の舞」とともに、「福聚の舞」として創始されたと云う。


千余世前の昔から、鞍馬山にいた鬼が都に出て悪さを、これを毘沙門天の示現によって
三石三斗の「豆」を煎って鬼の目をつぶし厄災を逃れたと云われている。

           今年の節分は、東京でも古い由緒を誇る隅田川西岸の「浅草寺」へ


                  立春の前日が節分ー春を迎える歓び


                   一年の災いを祓う節分


                   福豆を三袋ゲットした。


                         幸多きを


                  五重塔は、工事のネットが


                 大好きな「人形焼き」2袋で500円


徳川家康公入府前から開けていた浅草寺、推古天皇の628年頃、漁師兄弟が隅田川で投網を打ったところ、1寸8分(約5.5cm)ほどの
金色観音像が網に、、、、。
645年勝海上人という人が寺を、、、。それが、今の浅草寺に。




                 現在の本堂は、昭和33年の1958年再建


                     坂東33観音札所の13番



             上野の寛永寺「天海僧正」により徳川家祈願所に



                浅草神社は、1873年、3代将軍家光建立(三社権現ー三社様)


「浅草寺」は、元禄頃から庶民を対象とした節分会を実行し、享保頃には江戸中に有名になっていた事が文献で知られている。
江戸時代の浅草寺の節分会の特徴は、「節分般若心経日数所」と記された切紙のお札を1万枚作り、そのうち3300枚を、節分会の法要終了後、本堂外陣の東西の柱に棚をつって、そこから節分と書いた大団扇であおって撒く行事。
そのためこの札を手に入れようと信徒が堂内に満ちて、大変混雑し、(明治時代に危険ということで中止された)。
現在では、一般信徒の有志が年男となり、午後1時と2時の2回に分かれ、行列を作って伝法院より進行し、法要終了後、本堂東側回廊の外につくられた舞台で豆撒きをおこなう。